壱ノ花 獣になった少年
「どうしよう……」
この目は随分と周囲を見通し、この耳はひどく川のせせらぎを拾う。
鼻の両脇から伸びる長い髭が、風に靡いて細かく風向きを教えてくれる。
男は自身の肉体を見下ろした。全身は隙間なく灰色の体毛が生え揃っており、手足の形も人間ではあり得ないほど歪だ。体格も丸く、背骨も老人のように曲がっている。
極め付けは尻から生える長い尻尾だ。こんなものが生えているならば、認めるしかない。
──鼠だ。
水面に映る自身の姿を確認して驚愕する。なぜ自分がこのような獣の姿に。何が起こっている。途方に暮れ、絶望に伏し、困惑に身を浸していると、
「どこ行った!?」
背後から怒声が響く。しまった、追ってきたのか。捕まればどんな目に合うかわからない。
鼠男は恐怖して、急ぎ近くの茂みに身を潜めた。
「ほんとうに見たのか? 喋る鼠なんて」
「見た! 信じられねえかもしれねえが、俺とさほど背丈の変わらない大きな鼠が喋ったのだ。ありゃ何か化け物の類に違いねぇ」
鈍い光を放つ鉈を持った二人の若者が、物々しくが近くを駆け抜けた。
鼠男は茂みの中で息を潜め、それをやり過ごすと、安堵の息を吐いて全身を弛緩させる。
同時に、自身の先行きを案じてひどく気落ちした。
「ああ……ほんとにどうすればいいんだ……」
起きたらこうなっていた。起きたら既に、獣の姿に成り果てていた。そんなことを一体誰が信じてくれるだろう。
鼠男は頭を抱えて地面に倒れ込む。身を寄せる場所や頼れる人物に心当たりがあれば、わずかに救いがあった。心に一粒の希望を持てただろう。
しかし、さらに困ったことに──記憶がない。
自身の名前、家族の顔、友人の有無。そのすべてがごっそり抜け落ちている。
目覚めた場所も身に覚えのない狭い住居だった。寝具や箪笥、玄関に置いていた草履でさえ他人の物に見えた。今振り返れば、他所様の家に侵入し、勝手に布団を広げて寝ていたのかもしれない。
──ない、ない、ない。
人間ではない。記憶もない。寄る辺もない。自分の持ち物さえない。
それでも勇気を振り絞り外へ赴き、たまたま居合わせた第一村人に話しかけた途端『化け物ぉおおッ』などと喚かれ、一目散に逃げられてしまった。
二足で歩く大きな鼠が人間のように喋りかけてきたのだ。無理もないのはわかっているが、鼠男の心を存分に抉る出来事だった。
そして、悲しみに暮れながら水面に自身の姿に写していると、ぎらりと光る鉈や鎌を片手に、村人数人に追いかけられる始末。
「ハハ……」
男は天を仰ぎ、茂みの中で自身のフカフカな顔を触り、フツフツと肩を揺らす。
「ほんとうに、ひどい有り様だ」
いっそ笑えてくる、と力無く地面に視線を落とす。人であるなら何処ぞの村で暮らしていける。記憶は無くとも仕事はできる。人並みの生活を送り、人並みの幸福を享受できる。しかし、人の形を成さない喋る鼠男はどうなるか。殺されて終いか、見せ物小屋にでも幽閉され、惨めな生涯を過ごすことになるか。
痛ましい自分の行末を存分に巡らせた後、脳裏に過ったのは先ほど見た光景だった。
──あれは、なんだったんだ。
腕から羽虫を産み出していた、白髪の少女ザクロ。
首を落とされていた、灰神と呼ばれる異形の存在。
自分に起きている現象さえ理解が追いつかない状況で、さらなる理解不能な事態が投下された。誰か懇切丁寧に説明してほしい。
しばらく、鼠男が目に涙を浮かべて茂みの中で項垂れていると、
「そこに誰かいますね。出てきなさい」
背後から、若い女の声。
しまった! 見つかったか。上手く隠れたつもりが、自分の肉体の縮尺を把握していなかった。頭の上に生える丸い獣の耳が、茂みからはみ出ていたか。
「時間の無駄だ。さっさと出てきなさい」
諭すような女の声音に、鼠男は観念して両手を挙げ、ゆっくりと立ち上がり振り返った。
「ほう、これは驚いた。その姿……教えとは異なる……」
そう口にしたのは年の頃は十三、四ほどの少女だった。行灯の光を思わせる輝く金髪に、大人びた美しい顔立ち、瞠目して鼠男を上から下へと見回す瞳は川底のような深い青だった。
見目はまったく違うのに、どこか白髪の少女ザクロと似た、鋭い雰囲気を醸し出している。
「こんにちは。僕はカリンと言います。君は?」
カリンと名乗る少女は、二足で立った鼠を恐れるわけでなく、朗らかな微笑を浮かべた。
「あ、あ、こんにちは……オ、オレは……」
天女と見紛うカリンの風体に気圧され、鼠男は声を上擦らせる。木漏れ日に照らされ仄かに輝く白い着物と相まり、おいそれと言葉を交わして良い存在に思えず、つい口が硬くなった。
しかし、鼠男は頬を叩いて自身に喝を入れる。相手は好意的に接してくれている、この姿を見ても怯えたりしていない。事情を察してくれるかもしれない。一縷の望みがあると踏み、男は意を決した。
「あの、その、オレは名前が……思い出せなくて。家族の顔も忘れちゃってて……」
「ふむ。ここが何処かは?」
「すみません、それもわかりません……」
申し訳なさそうにする鼠男に、カリンは興味深そうに「なるほど」と頷いて見せる。
「恐らく
鼠男が先ほど川岸で耳にした単語が、カリンの口からいくつも飛び出した。
「あの、ラセツって? アザバナってなんでしょうか?」
「なるほど、それも忘れていると。鮮花というはですね、羅刹の──」
「見つけたぞ!」
カリンの言葉を遮って、横から怒号が飛んできた。鼠男は慌てて声がする方に首を向ければ、先ほどの鉈を持って鼠男を追っていた若者が、人手を七人に増やしてこちらへ荒々しく駆けてくるではないか。
「そいつに近づいては危険です! カリン様!」
「おのれ、化け物め!」
若者達は、鼠男からカリンを庇うように二人の間に身を滑らせた。
「違うんです! 俺はこう見えても人間で!」
理解を求めようと鼠男が叫ぶも、
「ほれ! しゃべったッ、なんと面妖な!」
「ええい! 貴様、カリン様に何をするつもりだった!?」
ますます剣呑とした空気になり、若者達が喧々轟々と怒鳴り散らす。これでは自分が何を言ったところで、舌先三寸で人を謀り、油断したところで喉笛を噛み切る化け物と思われて終いだ。
──もう逃げるしかない
鉈の刃先を威勢良く突き出してくる若者達から一歩二歩と下がり、後ろへ勢いよく駆け出そうとする。しかし、村人に庇われているカリンの相貌を見て、鼠男は思わず動きを止めた。
「煩わしい……よくも僕の口を遮ったな。無知蒙昧な猿どもが」
天女のような微笑から一転、カリンの表情が憎悪に歪んだ。青い瞳は眼前に立つ若者を侮蔑するように見据え、艶やかな美しい唇から禍々しい怨嗟が溢れ出した。
その言葉に驚愕し、若者達が振り向いた瞬間──。
ヒヒヒヒヒヒヒヒヒ
猿の引き笑い。少女の喉が脈動し、そんな異音がけたたましく鳴り響く。
羽虫を産んでいた白髪の少女と同じ現象。されどその音の響きはまるで違う。
まるで人の生命を、人の生涯を嘲笑うような呪言に、鼠男は感じた。
そんな悪寒で身を硬くしていた次の瞬間、村人達は一斉に膝から崩れ落ち、糸の切れた人形のように地面に沈んでしまった。
「な、な、え……」
どうしたことかと鼠男が目を瞬かせていると、カリンは表情を戻して朗らかに言う。
「これが
そう言って、倒れた村人達に「立ちなさい」と声をかけると、七人は黙って素早く立ち上がり、虚な瞳で呆然と佇む。
「ごく稀に、人間の喉奥に〈
言いながら、カリンが指でクイっとを地面を指し示すと、七人の若者達の内の二人が犬のように四つん這いになった。そして地面をそのまま四つ足で素早く駆けて、カリンの前で行儀良く肩を並べる。
「僕の鮮花の力は〈人間の使役〉です。まあ、猿回しみたいなものですね」
低く並んだ二人の背中に腰を下ろしながら、金髪の少女は得意げに言う。
たじろぐ鼠男に、また微笑を浮かべると、今度は余ったもう五人に「登れ」と一言。
すると、村人達はまさに猿のように近くの木に登り始める。右手左手、両足に腰のバネを巧みに使ってよじ登り、五人は太い枝に辿り着くと、『待て』をもらった犬のように鎮座する。
その様子が、目を逸らしたくなるほどに獣じみていて、目を背けたくなる有様だった。
鼠男は理解した。カリンの喉から鳴ったあの音、あれがなぜ恐ろしいと感じたか。
──この人の方が、オレなんかよりよほど化け物だ。
今はこの少女の微笑さえ、こちらを嘲笑っているように感じる。一つ喉を震わせるだけで、人間を犬のごとく歩かせ、猿のように木に登らせることができる。人が人をそんな風に隷属させる力。それは同じ人間が扱って良いものに思えない。
そんな内心を知ってか知らずか、鼠男の怯える顔を見て、少女は努めて穏やかな笑みを作った。
「種類は違えど、君もこれと似たようなことができるはず」
「お、俺が、こんなことを……?」
頭上の木の上で佇む若者達を見上げて、鼠男は首を振る。
「出来る気が、しないんですが……」
「僕と同じことは出来ない。でも、違う能力があるはずだ。僕のように生まれる前から鮮花を宿した羅刹と同じで、後天的に羅刹になった者も鮮花を喉奥に宿していることに変わりはありませんからね」
「な、なんで俺が、その、鮮花を生やした羅刹だってわかるんですか?」
「後天的に羅刹になった者は肉体の一部が獣になると聞いています。ですが、君のように全身が獣に成り代わる者など文献にも載っていない。と言うことは、世にも珍しい凄い花を持っているのでしょう」
心底楽しみにしていたとばかりに、カリンは手で先を促す。
「君の能力も見せて下さい。いやー楽しみだなぁ」
顎に手を当て、さあこれから何が飛び出すか、と期待が込もったカリンの面持ちに、
「へ? いや、どうやって、ですか? どうすれば」
まったく何をしていいかわからず、目を泳がせて尋ねるも、代わりに侮蔑の視線が送られる。
「は? 君はどうやって歩いているか説明できますか? 簡単なことだ。僕がやったのを見たでしょう? 花を開きなさい」
「で、できません……」
「出来て当たり前のことです。やりなさい」
冷淡に先を促される。その視線の圧が焦燥を起こし、背中に汗が伝う。ここで少女の不興を買えば、自分も猿のように木に登る羽目になるのだろうか。
「えぇ……」
どうすればいい? 鼠男は必死に頭を回転させる。先ほどの、カリンが発したあの異音を真似てみようか? 花を開くというのは、喉を開くということなのかもしれない。それ以外、大した方策が浮かんでこない。鼠男は一息吐いて腹を括った。
──ええい! ままよ!
「ヒ……ゲフンゲフン。ヒヒヒヒヒヒ……」
大口を開けて、空に向かって引き笑い。しかし何も起こらない。
「は?」
その短い呼気がねっとりと地を這った。みなまで言わなくとも鼠男は察する。逆鱗に触れてしまったと。誰に咎められなくともわかる。やるんじゃなかったと。
「今、僕の花の音を馬鹿にしましたか?」
カリンの相貌が歪み、丸い目玉がギョロリと鼠男を睨めつける。次には奥歯を強く噛み締め、額に稲妻のような血管が浮き出した。
「馬鹿にしたかと、聞いているんだッ!」
「違うんです! その俺、本当にやり方わからなくって! 本当に!」
慌てて、鼠男は後退りながら弁明を繰り返す。されど、若者の背から立ち上がったカリンは、ゆっくりとした足取りで鼠男に迫った。
「ふざけているのか? そんな道理があるか! 羅刹なら花が開けて当然だ。そんな言い訳がッ、まかり通ると思ったかッ!」
語勢を強めた喚声が、ずしりと空気が重くする。
「僕の花を侮辱した罰だ。戒めを与えやろう」
ヒヒヒヒヒヒ
またあの音だ。カリンの喉が波打ち、猿の引き笑いが鼠男の鼓膜を支配する。
さらには、着物の懐から短刀まで取り出し鞘払い。
「ごめんなさい!」
刃物まで出されたらもう終いだ。鼠男は意を決し、背を向け逃げ出そうとした。
が、しかし。
「なッ──!」
足が動かない。麻痺してしまったかのように足はピクリとも動かすことができない。
あの音のせいだ。ついでとばかりに視界が歪み、腹から嘔吐感が駆け上った。
「騒ぐな、逃げるな。目玉を穿り出すのだ、大人しくそこにいろ」
美しい唇から酷い言葉が衝いて出る。その言葉に、鼠男は素直に従ってしまう。言われた通り肉体を硬直させ、穿りやすいように瞼を精一杯に開き切る。眼前に迫る少女を気遣い、自分の吐く息が当たるのさえ憚り、呼吸を止める始末だ。
「あ、あ、あ、あ──」
逃げなきゃ目玉が! でも、止まらなきゃ。
鼠男の思考は自分と自分ではない何かとの闘争で埋め尽くされた。
──目玉なぞいらないだろう? いや、いるに決まっている!
ひたすらに自分の中に問答が浮かび上がる。そして、その闘争は敗北が決定されているものだった。
──カリン様に、目玉を貰って頂こう。
それがなんとも、誇らしいことに思えてならなくなった。
「いいぞ、そのままだ」
カリンの手が、鼠男の頭の毛を鷲掴む。グイっと引き寄せられ、膝裏に鋭い蹴りを浴びた。
地に膝がつき、鼠男の頭の高さが少女の胸元まで下がった。さらに頭の毛を引っ張られ、頭上を見上げる形に。
「母上には、君に襲われたとでも言っておきますか。目玉の二つなくとも、あの方は気にしないでしょう」
そんなことを言いながら、カリンは逆手に持った短刀を弄ぶように鼠男の目玉に近づけてゆく。鼠男の瞳に踊る恐怖の色を堪能するように、ゆっくり、ゆっくりと。
「あ、ぁ──」
痙攣する獣を嘲笑う少女と、木漏れ日に照らされ輝く刃。
それが、自分が最後に見る光景になる。
──いっそ、笑えてくる。
声の出した方さえ頭の中から抜け落ちて、呻きの一つさえ出なくなった。
心の底から観念すると、一仕事終えて布団の上に横になっているような安堵感が胸に拡がる。
目玉がなくなれば、獣に成り果てた自分の姿を見なくて済むだろう。
そう、心で呟いた次の瞬間、
『お母さんを、許して』
声がした、鼓膜で拾ったものではない。頭の中に響き渡るような感触だ。
抜け落ちた記憶の、覚えのない女の啜り泣く声。
その声が、カリンの能力によってもたらされた安堵を黒く汚した。湯気の立つ新鮮な白米に土をかけられた、そんな屈辱的な気分だった。
だから、叫びたくてたまらなくなった。
「誰かぁあああ! 助けてぇえ! 頭のおかしい女に襲われていまぁああす!」
鼠男の腹底から這い出た咆哮が、辺りの枝葉を揺らすほどの空気の振動となる。叫んでいる本人さえ、肉体が細かく揺れて脳を揺さぶられるほどだ。
当然だ。当然のことだった。目玉に刃物を突き立てられそうになっているのだから、助けを呼ぶことは当然だった。忘れてしまった発声の仕方も、今は当然、取り戻せていた。
だが、それはカリンにとっては当然ではないようだった。
「は──?」
大きな口を開けて咆哮を上げ続ける鼠男に、カリンの相貌は驚愕に染まった。
「なぜ喋れる!? なぜだ!? 僕の能力が効いていないわけが──」
「お助けをぉおおお! 刃物を持った女に目玉を取られそうです!」
カリンの疑問を置き去りに鼠男は叫び続ける。手足は相変わらず動かせる気がしない。ならば、唯一動かせる口と舌に縋り続けるしかなかった。
「助けてェエエエッ、誰かァアアア!」
「貴様──ッ、黙れ!」
カリンが焦燥を露わにし、刃物を鼠男の目玉に向けて振りかぶる。
助けは来ないか。絶望したそのとき、視界に白色の影が横切った。
と思えば、鼠男の顔に赤い飛沫が盛大に吹き付けられた。
「うぐあ──!」
カリンが盛大に相貌を歪めて悲鳴を上げる。
短刀を取り落とし、肩に深々と打刀の刀身を沈めて──。
「ザクロォオオオオ!」
鼠男から大きく距離を取ったカリンがそう叫ぶと、
「よぉ、ドブスの引き笑いが聞こえたと思えば、可愛い末妹が暇そうにしてるから」
遊んでやろうと思って、と鼠男の傍で声がした。
肉体の拘束を解かれた鼠男がそちらに視線をやると、先ほど羽虫を産んだ少女がそこにいた。
透き通るような白い髪、カリンと同じ白い上物の着物、腰には今しがた抜き放たれた打刀の鞘を引っ提げ、興味深げに鼠男を凝視している。
「お前さんが喋る鼠か? でけえな……何食ったらそうなんの?」
「え、あ、はい……」
鼠男がなんとか声を発すると、ザクロは眼を輝かせる。
「さっき叫んでたのもお前さんか? マジで喋れるじゃん。ハンパねえッ」
ザクロの感嘆に、鼠男が返答をしようと口を開きかけると、カリンの怒声がそれを遮った。
「どういうつもりだァアッ、クソ女ぁ!」
カリンは激しく悪態をつきながら、自分の肩に刺さった刀を勢いよく引き抜き、忌々しく打ち捨てた。その姿をカラカラとザクロは嘲笑する。
「テメエがどういうつもりだコラ。言ったよなぁ? テメエのその不快な花を村の中で開くなって。お姉ちゃんとの約束忘れるとか、ひでぇよな? しかも、こんな可愛い生き物まで虐めてよぉ。脳みそ取り出して川で洗ってこいよ」
寝小便をした子供を諭すように言って、ザクロは唖然とする鼠男に振り返る。
「お前さんそれどういう状態? お前の母ちゃんも鼠だったりする?」
「い、いえ……。起きたらこうなっていたんで、たぶん、人間だと思います……」
戸惑いながら辿々しく答え、鼠男が二足で立つと、ザクロはあんぐり口を開く。
「二足で立った……当たり前みたいに……。じゃあ、お前さんマジで人間か? カリンの能力が効いてたってことは、そうか……人間か」
得心したように言って、ザクロは鼠男の全身をくまなく触り出す。
傍ら、負傷したカリンはザクロに侮蔑の視線を送り、おもむろに着物をはだけて肩口を晒す。そして、その鮮血に染まる穴の空いた肩口を眼中に収めると、
「ガァアアア!」
突如、盛大に顔を歪ませて獅子の如く唸りを上げた。
すると、その声に応えるように、カリンの右肩から勢いよく火花が散る。
「傷が──!?」
人肌から火花を散らすその光景に、鼠男は絶句する。さらに負った深傷が、火花と共に徐々に塞がっていき、時を待たずして少女の肩はシミ一つない美しい肌へと修復された。
「やってくれたな。僕は母上に命じられてそいつを迎えに来たんだ。それを貴様はッ」
額に汗を滲ませたカリンが責め立てると、ザクロは怪訝に眉を吊りげる。
「は? じゃあ、こいつは母上の能力で──」
「母上の能力は常に美しい! こんな珍妙な生物を生み出すはずがない!」
「まあ、そうか……あの女の美意識に反するか。じゃあ、こいつはなんなんだよ?」
「母上がおっしゃられたのだ! 新たな羅刹を社に連れてこいと! 貴様の妨害にあったと母上が知れば、どれだけ嘆き悲しまれるか!」
「羅刹? こいつが……? ああッ!」
ザクロは思いついたように平手に拳を打つと、鼠男の頬を両の手でむんずと掴む。
「
嬉々としてまくし立てられて、鼠男はひたすらに戸惑う。気の強そうな美人の顔面が至近距離にあり、嬉し恥ずかしの感情が渦巻いて頬が熱くなった。が、それどころではない。
「ちょ、ちょっといいんですか!? オレに構っている場合じゃ‥‥」
鼠男が恐る恐る指差した先では、相貌を憤怒に歪めたカリンが、落とした短刀を拾い上げ、ザクロに向かってゆっくりと進んで来ていた。
その動きを軽く流し目で見てから、ザクロは肩を竦める。
「いいんだよ。カリンなんか四六時中キレてるんだから、相手してたらキリがない」
「貴様ァアアアッ!」
激昂したカリンが、今にもザクロに飛びかかろうとした。
その寸前。
「何をしているのですか!?」
後方から声が割り込んだ。皆が一斉にそちらを見ると、背の曲がった老婆がそこに立ち尽くしていた。地面に打ち捨てられた血濡れの刀を拾い上げ、咎めるように声音を上げている。
「何事でございますか!? 二人で喧嘩をしているだけならいざしらず、これはッ」
川岸でザクロと共いた彩李と呼ばれていた老婆だ。彩李の視線は木の上に呆然と佇む者達と地面で四つん這いになった若者に注がれ、次にはザクロの隣に立っている鼠男に移すと、眼を大きく開いて硬直した。
「その者は、例の喋る大きな鼠にございますか? 村の者のはやとちりではなかった……?」
「いいとこに来たな彩李」
ザクロは驚愕する彩李に微笑むと、
「こいつを頼む。後天羅刹らしい。カリンがこいつを虐めてた。しかも能力まで使ってだ。カリンがこれ以上悪さしないようにお前が見張れ」
滑らかに告げ口して、鼠男の背を押して彩李の元まで歩かせる。
「私はそこの馬鹿の後始末をしてくる。後はお察しだろ?」
言われて、彩李はバツが悪そうに佇むカリンを睨み据えてから、「承ります」と、神妙な面持ちで拾い上げた打刀をザクロに手渡す。
ザクロは刀を振るって付着した鮮血を払って納刀し、鼠男の背を一つ撫で付けて申し訳なさそうに柳眉を下げた。
「妹が悪かったな。それに、これから色々大変だと思うが……いや、後で話そう」
「はい……その、助けてくれてありがとうございました」
鼠男が会釈すると、ザクロは満足げに微笑み、即座に森の奥へと駆け出した。
その背中が遠く離れ、森の奥深くへ溶けていくのを見送っていると、隣で老婆が静かに溢す。
「なんと……本当に……お喋りになる」
鼠男は老婆の反応に苦々しく笑い、肩を落とした。
これからどうなることか。
✿
鼠男達の前から走り去ったザクロは、森の中をひた走っていた。
「後先考えずにやりやがって」
入り組んだ森の中を真っ直ぐ全速力で駆け抜ける。体に枝葉がぶつかろうとも、足元に生える尖った草花が太ももを切り裂こうとも、少女は真っ直ぐに目的地へと向かっていた。
森の中を駆け抜けて間もなく、先ほど灰神の首を落とした河川、その中流に到着すると、粗い砂利を踏み締めて、川岸に立って周囲を見回す。
「いるだろ。この時間、釣りか洗濯してた奴」
さらに歩を進め、川の下流を目指してザクロは走り出す。広い川幅に横たわる大きな石を踏み締め、しばらく進んでまた立ち止まって辺りを見回すと。
「いたッ」
視線の先で歳の頃は二十代と思わしき女が一人、川の中央に鎮座した大きな岩の下で、身体をぐったりと水に沈めている──カリンの能力の犠牲者だ。
妹であるカリンの
「生きてろよ!」
ザクロは川の流れをものともせず、ピクリとも動かぬ女の元に辿り着くと、
「やっべぇ……息してるか? 生きてるか!?」
伏した半身を両腕で抱き起こし、容体を確認した。ひどく顔が青白く、脈も弱い、水に顔を漬けていたため呼吸も止まっている。恐らくこのままでは半刻もしない内に死に至る。
急いで女を川岸へと運ぶため、全身を抱えて立ちあがろうとした。
「くそ──ッ」
が、女の右足が岩下に引っかかってしまっている。
ザクロは急いで川へと潜り、女の足を掴んで岩から引き抜こうとするも、うまくいかない。足は大岩の下にしっかりと入り込んでしまっているようだった。
「やるしかない」
カチカチカチ、とザクロは即座に喉を震わせて、帯に差す打刀の半身を引き抜き、自身の腕に密着させる。
そして、勢いよく右腕を引いて、一筋の深い切り傷を作って正面に掲げた。
「来い! 羽虫!」
少女が咆哮すると、その傷口の肉をかき分けて一匹の赤黒いスズメバチが顔を出す。
窮屈そうに全身をしならせ、羽虫がやっとの思いで外へ出ると、ザクロはすぐに羽虫をむんずと掴み、自身の首筋に密着させた。
「私を刺せ! 早くしろ!」
主人の焦りが伝わったのか、羽虫は力んで、尻から鋭利な針を放り出した。
そして、ザクロの美しくしなやかな首筋に、自身の毒の一刺しを深く押し込む。
「──ッ」
僅かな量で全身に素早く駆け回る神経毒、その猛毒は首筋から血管に注入され、即座に心臓に達した。そして、心臓から送り出された毒は、一気に全身に行き渡る。
「ァァァ──ッ」
ザクロの眼球から血煙を噴き出る。白目は全て赤黒く充血し、全身を痙攣させると、顔中に稲妻のような血管が浮き出た。
ザクロの
産み出した羽虫の毒の効能は、全身の激しい痛みに嘔吐と目眩。肉体の痙攣が数刻に渡って続き、やがて心臓を麻痺させるものだ。
だが、神の娘である自分に刺すならば。
「アアア!! イライラスルゥウウウ──!」
突如、ザクロは雷鳴の如き咆哮を上げた。
命を脅かす毒液がさらに全身を駆け巡る。神が娘に施した回復力が、慌てて毒を排出しようと血液の循環を加速させる。
命の灯火を消そうとする猛毒と、灯火を再燃させようとする神の権能。
少女の肉体の中でそれらが激しく闘争を行うことで、爆発的に身体能力が向上するのだ。
「ジャマダァアア──!!」
ザクロは強化された膂力を以って、女の足を拘束する大岩を持ち上げる。
そのまま、ちゃぶ台のように前方にひっくり返し、完全に障害物を取り除いた。
急ぎ、解放された女を抱き寄せて、ザクロは膝を曲げた。
「ガァアア──!!」
全身に力を入れて、毒により強化された脚力で一気に飛び上がる。
およそ九間(約16メートル)の高さまで跳躍し、一つ飛びで川岸に着地した。
「もう少しだから! 死ぬんじゃねえぞ!」
地に足がつくなり、瀕死の女を平坦な岩の上に横たえ、即座に心肺蘇生に取り掛かった。胸の真ん中に両手押し当て、心臓に圧を送る。
──ああ、くそ! これであってんのか!?
いくら押しても女が水を吐かない。続いて鼻を摘み、顎を上げ、唇を重ねて息を吹き込んだ。
──人工呼吸法、これであってるか!?
命と向き合うといつも自信がなくなる。これで正しいのかといつも自問させられる。
疑心暗鬼になりながら、懸命に女の胸を押し、口に息を吹き込む。
これを七回ほど繰り返したところで、わずかに女の肉体が波を打つ。
それを契機に、女が激しく咳き込み、ようやく口から大量の水を吐き出してくれた。
「はぁ、あぶねぇえ。くそ焦るわ」
半身を起こし、えずく女。それを見てザクロは安堵し、地面に大の字で寝転んだ。
「ったく。カリンの奴、また刺してやろうか」
ザクロの胸の内が達成感に満たされてゆく。今まで何度もこの川で命を取りこぼしてきた。人の命を鑑みないカリンの横暴な振る舞いと、自身の至らなさのせいで何度となく悔恨を飲み込んできた。
だが、今回は救えた。それが少しだけ誇らしい。
「ザクロ様……私はなぜこのような? 洗濯をしていたはずなのですが……」
なんとか復帰した女が虚な目で聞くと、ザクロは周囲を見回した。
「洗濯物は周囲にない。流されてるな」
「その眼は……ザクロ様が、救って下さったのですか?」
存分に充血したザクロの瞳を見ながら女が問うと、
「いいからそう言うの。それより、洗濯に来る途中、誰か川で見かけたか?」
ザクロは少し緩んでしまった表情を引き締めて立ち上がった。この女の他に溺死しかけている者がいるかもしれない。ならば、引き続き捜索しなければならない。
「いえ、見かけておりません」
「そうか。なら家に帰って安静にしな。洗濯物取りに行こうと思うなよ」
言うなり、すぐにその場を後にする。疎らな石を踏みしめ、女を一瞥してからまた川添いをひた走った。
あらかた周囲に溺れている者がいないか確認を終えると、念には念を入れるため、川の上流にも被害者がいないか確認に急ぐ。そうしてしばらく駆けていると。
「ははッ」
ふと、さっき出会った鼠男の姿が脳裏を過り、笑みが溢れた。あの丸い立ち姿はえらく愛くるしく、くりっとした目玉に、よく飯を食えそうな大きな口。その面白可笑しい相貌を思い出せば出すほどに、ひどく興味をそそられる。
それに──彩李が割って入る寸前、カリンがザクロに飛びかかろうとしたあの時、鼠男はザクロを庇うようにカリンとの間に身を滑り込ませていた。咄嗟にあのような振る舞いができる者は、優しい性根の持ち主に他ならない。
「友達に、なれそうだ」
少女は破顔して、心を弾ませた。
✿
七〇〇年程はるか昔、大陸全土で戦争があったそうだ。
各国の権力達は他国の領土を奪うため、民草を巻き込んでの大戦に明け暮れた。
その行いに、人里を避けてこっそり暮らしていた羅刹達は激怒した。
空を自在に飛ぶ者、無限の火を産む者、心の所作を読む者、涙で海を作る者。
それら超常の力を行使して、権力をもつ人間を悉く殺し尽くした。
この世に国家という在り方すら消し去るほどに。
すべてが破壊された後、路頭に迷った民草を救ったのも羅刹だった。
寄る辺を失った人々はやがて、小さな人里を形成し、その治安と安寧を羅刹に委ねた。
世の理を超越する羅刹の庇護下にいれば、人々の安寧は約束されたも同然だった。
強力な羅刹は、人々飢えさせるもこともなく。災害さえ跳ね除けてしまえるのだから。
そんな羅刹を、人々が神として崇めるのも時間の問題だった。
羅刹の中でも特に優れた者を〈羅神〉と呼び、強い信仰を示して一つの宗教を作られた。
〈
記憶を失くしている鼠男のために、彩李はあらゆる事情を教授してくれた。
ここ暮梨村では香梨紅子なる女性が、
現在、鼠男は今からその香梨紅子に謁見しなければならないらしく、先導するカリンの背を追いながら、彩李と共に足早に森の中をせかせか歩かされている次第だ。
「羅神である紅子様には、血の繋がらない五人のご息女がいらっしゃいます。ザクロ様は三女、カリン様は五女にあたります」
「へえ、他の娘さんたちもここで暮らしていらっしゃるんですか?」
鼠男の問いに、彩李が和やかに首肯した。
「はい。後ほどお会いすることもあるでしょう。姉妹はみな美しく可憐にございますから、男性にとっては良い目の保養になるかと。激昂しやすいのが玉に瑕ですが」
「た、楽しみだなぁ。五人も女の子を預かるって、紅子様は懐が深いお方なんですね」
「それもありますが、強大な力を持つ羅神が、幼き羅刹を庇護下に置くのは世の常でございます。人間の親に羅刹を育てるのは困難でありますから」
曰く、羅刹とは異能の力を使えること以外は、人間から生まれるれっきとした人間である。母親の胎内で鮮花を宿し、この世に産まれた瞬間から異能の力を振るうことができる。
つまりは、赤子や幼い羅刹が、親を殺してしまう事件が後を絶たないそうだ。
「産まれたての赤子が、母親の首を捻じ切ったこともあります。三歳に満たない子供が口から炎を吐いて父親を燃やしたこともある。そんな悲劇が起こる前に、紅子様のような強大な羅刹、もとい羅神の
羅刹を産むなら、羅神を頼れ。
それがこの世の常識であり、悲劇を生まないための最善手であるらしい。
「そうして、羅神に育てられた羅刹は人々から崇められる立派な羅神を目指すのでございます。紅子様も先代の羅神である母上に育てられ、見事、母の首を落として立派な羅神になられたのでございます」
「へぇ……母親の首を落として……え……」
嫌なことを聞いた気がした。鼠男が立ち止まると、彩李が心底不思議そうに首を傾げる。
「どうされました?」
「いえ、その、羅神になるには、親を殺さないといけないんですか?」
「当然でございましょう? 一つの人里に羅神が二人も存在できません。ならば、人々の信仰を集める羅刹──羅神になるには、先代の羅神である母親の首を落として、羅神と成るのが羅神教の常でございますから」
「わお……大変だぁ……」
鼠男は内心で納得する。血生臭い風習だ。先程のザクロとカリンの苛烈なやりとりを見て疑問には思っていたが、ここでは流血を伴う荒業が当然なのだ。荒い気性に育つのは当然だ。
「姉妹全員、僕や君と同じ鮮花を宿した羅刹だ。皆、血の気が多い。せいぜい花を摘まれないよう気をつけることだ」
そんなことを先導するカリンが嘲笑うように告げると、鼠男は心底で身震いした。
花を摘む。羅刹同士の隠語らしい。羅刹の喉奥に宿る鮮花を摘むということは、首を断たれて殺されるということだ。
道中、カリンがうわ言のように呟いていた。『いつかあの女の花を摘み、食らってやる』と、ザクロへの怨嗟を何度となく溢していた。
鼠男はますます自身の明日を案じて背中が丸くなる。身内に白刃を立てることが日常となってしまうのか。羅刹の常識にいちいち怯えてしまうのは、自分が記憶を失くしているからか。
どんよりと気分を沈めて、重い足取りでカリンの後ろを付いてしばらく歩いていると、緑葉に囲まれた森を抜け、青々とした田畑が広がる土地が姿を現した。
「おぉ、良い色の稲穂ですね」
「いちいち止まるな。さっさと──」
しろと、鼠男の感嘆を一蹴して、カリンは田畑の脇道を足早に歩く。
その態度に鼠男の耳が力無く垂れると、蔑ろにされ続ける心情を察してか、彩李が隣まで進み出て優しく微笑んだ。
「ここ
あちらをご覧ください、と彩李はある物を指差す。
田園の脇を流れる小川、そこに見事な枝振りの杉の木が聳え立っていた。
「あの木からしばらく北に進むと、暮梨村の中心、平家が軒を連ねる住居区画があります。もし、紅子様の庇護下にあなたが抱え込まれるならば、恐らくそこで暮らすことになるやもしれません」
「余計なこと言うな。気に入られたらだ。最もこんな汚らしい獣をお気に召すかどうか」
カリンの冷たい言葉に僅かに傷つくも、鼠男はぼんやりと踏み込んだ。
「もし、気に入られなかったら、俺はここから追い出されるんですか?」
「さあ? そのような姿形の羅刹は珍しいですから。追い出されたりはしないかもしれない。気に入られれば側で侍ることを許され、反感を買えば、花を摘まれる」
いちいち首を
「いずれにせよ、母上の御心のまま。決してここから逃げようと思わないことだ。まだ生きていたいのであれば」
「逃げません……行くとこもありませんし」
「逃げてもその姿だ。他の土地で受け入れられるかは保証しない。せいぜいドブネズミのように人目を忍び、惨めにゴミを漁って生活するのが関の山。ここで生活していた方が幸福に暮らせる。気に入られたら、ですが」
──めちゃくちゃひどいこと言うじゃん。
辛辣、悪辣、苛辣の三本柱を振り回され、鼠男はすっかり惨めな気持ちに浸される。
隣で歩く彩李も思うところがあるのか、カリンの毒舌を咎める様子もない。
しかし、鼠男自身も水面に写った自分の姿見たときから、そんなふうに考えていた。
鼠というのは不浄な生き物だ。人の世に病を持ち込み、ゴミを漁って生き長らえる不潔な獣なのだ。人の心を持ったまま、そんな生き物に姿を変えたとあれば、さぞ生き恥に塗れる生涯になるだろうと。
しかし、一縷の希望はある。ここで香梨紅子なる存在に付き従って余生を送るのであれば、人並みの幸福を享受できるかもしれない。この土地の規則に準じて生活を送れれば、この土地の『人並み』にはなれるはずだ。記憶が消える以前は、そうやって生きていたはずだ。
心で大丈夫、大丈夫と繰り返し唱えていると、ほどなく田園地帯を通り抜け、石畳が規則正しく配置された参道に出ていた。周りの木々も様相を大きく変えており、背の高い竹林が歩道を囲い、歩く者を誘うように礼儀正しく道を開けている。
石畳に舞い落ちた笹を踏み、カリンが振り向くことなく言う。
「ここからは、ただの人間が歩くことが許されない神域です。暮梨村の村人も進入することは許されていません。羅刹になってよかったですね」
神域と聞いて鼠男は理解した。この竹林に進入してから全身の毛先がピリリとした圧を感じ取っている。道の先で待っている大いなる存在の気配が、ひどく喉を乾かした。
竹林の中を進み続けると、ほどなく開けた空間に辿り着く。
「これが我らの神、香梨紅子様の大社です」
それは切り立った巨大な岩だった。およそ十六間(約三〇メートル)にも及ぶ巨岩が広間の真ん中に堂々と聳え立っていた。その岩の中腹には、鈍い光を放つ鉄の大扉が嵌め込まれており、訪れる者を存分に威圧させる作りであった。
反して、足元を見てみれば、色とりどりの花びらが足元に配置されており、配色豊かな枯山水を描いている。自然物の威厳と計算された配置の美学が見事に調和し、どこか死後の世界を思わせるような、現実と切り離された浮遊感を覚えるものだった。
「では我らは紅子様に事の経緯を説明してきます。あなたはここでしばしお待ちください」
それだけ言い残すと、大門に繋がる長い階段を、彩李とカリンはさっさと駆け登り、扉の先へと姿を消した。
ポツンと一人取り残され、鼠男は妙に心細い気持ちになった。
「ここに住んでいる神様にこれから会う……のか」
足がすくみ、座り込みたい衝動に駆られるも、先刻、カリンの不興を買った件もある。ここでは何が逆鱗に触れるかわからない。故に、鼠男は直立不動で待つことにした。
しばらく待つこと、四半刻(約三〇分)。
薫風に揶揄われるように運ばれた笹の葉が、鼠男の鼻を掠めて、
「ハッパンっ! しゃいぃぃぃ……」
中年の男に負けぬ豪快なくしゃみを起こした。すると途端に、鼠男は急激に一人でいる侘しさに押し潰されそうになって膝を曲げる。立って待っているのにも疲弊し、手頃な石の上にでも腰掛けようかと思った、そのとき。
「あら? なんか入り口に立っとる。えらい可愛いなぁ」
「ほんとだ……なんだろ? さっき聞こえたくしゃみってあの子?」
二十代前半だろうか。柔らかい雰囲気のある二人の美女。それが竹藪から姿を表した。恐らく彩李の言っていた、ザクロとカリンと名を連ねる血の繋がらない姉妹だろう。
「せやろうな。たぶん羅刹やない? 後天羅刹は身体の一部が獣みたいになるって話やし」
「全身獣になっちゃってるなんて聞いたことないけど……とりあえず挨拶してみようか」
優雅に歩みを進めて、鼠男の眼前で立ち止まった二人に、鼠男は呼吸を止める。
「長女のリンゴ言います。よろしゅうね」
肩甲骨まで伸びた艶やかな黒髪に、色気溢れる妖艶な泣きぼくろ。口元の紅から溢れるしっとりとした花街の訛りが、鼠男の心臓を鷲掴んだ。
「次女のミカンと言います。よろしくね」
肩まで伸びる濃厚な山吹色の髪に、慈愛を帯びる流線の美しい垂れ目。その容姿から放たれる母性的な微笑が、鼠男をよろめかせた。
──圧倒的、美女‼︎
鼠男の顔に上気が駆け上り、心臓が激しく波打った。視界が頭を強打したようにパチパチと明滅し、膝に力が入らなくなる。
ザクロやカリンも美人であったが、棘のある幼さがあった。しかし、眼前に立つ二人の様相は成熟した大人の色気を纏っていた。
「よよよよ、よろひくお願い申し上げます!」
声が上擦らせて
──俺、死ぬかも。
呼気を辿々しく吐いていると、二人が心配そうに鼠男の背中に手を添えた。
「大丈夫やろか? めちゃ息苦しそうやん」
「急に出てきたから、驚かせちゃったのかな?」
「だ、だだだ、大丈夫です!」
なんとか応えたが、鼠男の思考は混乱の極みだ。しかし、美人の前でこれ以上恥をかくまいと、渾身の気合いを自身に宿し、背筋を伸ばして男前の相貌を取り繕う。
「お名前は?」
「忘れました! 朝起きたらこうなっていました! 名前も思い出せません!」
「あらま、大変やねぇ。他の記憶はあるん?」
「人間だった、ような気がしています! 後は全部忘れました!」
「ふふ、めちゃ元気ええわー」
努めて快活に応える鼠男に笑って、長女リンゴは小首を傾げた。
「この村に羅刹が生まれるなんて、今まであったんかな?」
「さあ?」と、ミカンが応える。そして、思いついたように手を叩いた。
「私たちと同じ羅刹ということは、ここで暮らすんだよね?」
「そうなるやろね。何処で寝泊まりさすんかは知らんけど」
二人の話している傍ら、鼠男はある一点に釘付けになる。ミカンの左手が人肌ではない。黒い木肌で出来た義手であった。指関節には球体が収まっており、人の手のそれと何ら遜色なく滑らかに稼働している。よく見れば、リンゴの着物の裾から垣間見える右足も、同じ木肌で出来た義足のようだ。
──大きな事故にでもあったんだろうか。
鼠男は僅かに違和感を抱いたが、次の言葉ですっかり意識の外に追いやられる。
「じゃあ今日から私たちの弟だね!」
ミカンが花のような笑顔を向けて喜声を上げた。
「え!? 俺が弟!?」
「そう! 可愛いフワフワの弟!」
義理の姉。脳裏に過ったその言葉に卑猥な響きを感じ取り、鼠男は胸を高鳴らせる。
おめでたい頭をしている。自分でもそれはわかってはいるが、感情の整理が追いつかない今の鼠男には、それだけしか頭に浮かんでこなかった。
「フフーン、ミカンお姉ちゃんは弟が欲しかったのです。妹は売ってしまいたいくらい居るのに、弟はいなくて寂しかったんだ。私の願いが叶ったのかもッ。念願の可愛い弟!」
ミカンは大いに喜んで見せ、棒立ちで硬直する鼠男の頭を優しく撫でた。
それに破顔した長女リンゴが便乗する。
「ほんまになぁ、ケンケンした妹ばっかやからなぁ、あんたは優しそうなお顔しとるね」
リンゴに頬を撫でられると、鼠男はすっかり有頂天に上り詰める。
──これから、楽しくなっちゃうかもしんないッ。
二人が動く度に花と果実の良い香りがして、鼠男の頭をますます蕩けさせた。
そうして存分に呼吸を堪能していると、社の大門が重々しく開け放たれ、
「騒々しい。そんなとこで騒いでないで、中で母上を迎える準備しろ」
カリンが鋭い視線を放って催促する。
「わかっとるわ。ほな、さっさと入りましょ」
長女リンゴが音頭を取ると、二人で鼠男の背中を押して社の中へと歩き出す。
惚けていた鼠男が「ハッ」と意識を覚醒させた頃には、すっかり社の中に足を踏み入れていた。
室内はひどく冷たい作りだ。構造は果てしなく広い球状の洞窟と言ったところで、天井を見上げると何処までも暗闇が広がっている。
部屋の中央に石造りの台座と灯籠が置いてあるが、それ以外は何もない。灯籠の光が照らす範囲しか把握できない。灯りが届かない範囲は、天井と同じ暗闇が広がっていた。
「あァん? なんかちゃソレ。熊か?」
暗闇から新たに、桃色の髪の少女が姿を現した。年の頃は十四、五。鋭い眼をヒクつかせ、鼠男を見つめて驚愕している。
その相貌は、眉尻を怪訝に吊り上げて嫌悪感を隠そうともしない。一目見ただけで負けん気の強い印象を受ける。
「熊じゃないわよ、新しい弟。モモ、挨拶なさい」
ミカンに窘められながら、鼠男の姿を上から下まで眺め、モモは更に表情を険しくした。
「頭ぁイカレたかミカン? 熊ぁ捕まえて来て弟だって言いよろうが? キメエな、二度と私に近づくなカス」
えらく口が悪く、ドスの利いた南部の訛りだ。均整の取れた美人ではあるが、ひどく自尊心が高い。心底と人を見下す人物のようだった。
「おいキサン、何モンじゃコラッ。あぁん、何モンだって聞いとろうが! くらすぞ熊ァ(ぶん殴るぞ)」
怯える鼠男に、頭突きでもする勢いで詰め寄る。
怒号を上げる口の中が垣間見え、鼠男はさらに怖気で足がすくんだ。モモの口内から覗く舌先が、蛇のように二つに割れているのだ。
そのあまりに歪な様相に口籠もっていると、リンゴが腕で鼠男を庇った。
「モモ、あんたこの姿見て熊とか言うてるん? 無学浅識さらして恥ずかしないん? 頭悪うなり過ぎて、眼球の使い方まで忘れてしもうたん? いややわー呼吸の仕方も忘れてほしぃ」
「鼠だって言うがか? ふざけとろうが! こんなバリデカイ鼠がおるか!」
「はー! うっさいうっさい! ここはよう響くんやから、脳たりんは黙っとって!」
「ああッ!? リンゴ、キサン! ブッ殺されたいようやのう!」
モモは標的をリンゴへと移し、激しく罵声を浴びせ合う。そんな二人を尻目にミカンが鼠男の耳元に囁き忠告した。
「四女のモモはイジメッ子だから近づかないようにしてね? 妹だから悪い子じゃないって言いたいんだけど……冗談抜きで……本当に危ない子だから」
やはりそうだ。カリンに続いて、自分の生活に暗雲を運ぶ人物かもしれない。出来るだけ関わらないように過ごさなければならないだろう。
「わかりました」と鼠男がミカンに頷いていると、
「は? こいつが羅刹と言いよるか? なら花ぁ開いて見せや! 羅刹なら開けるやろ!」
モモの標的が、自分へと帰ってきてしまった。
「えっと……」
カリンに先ほど『花を開けない』と言った途端、物騒な展開になったばかりだ。
鼠男は言い淀んで、つい押し黙ってしまう。
「あ? 開け言うとろうが。さっさとせえや!」
「阿呆が調子乗っとるわー。雑魚やのに、まあイキリよって」
「なんかちゃゴラァ!」
またしても、リンゴとモモの口喧嘩。それが自分のせいだと思い、鼠男が慌てて口を開いた。
「開けないんです!」
その声が室内に大きく反響する。皆が驚いたのか、重い沈黙が辺りを包んだ。
しまった。やはりまずかったか。ここでは花を開けないというのは、やはり相当にまずいことだったのか。目の前のリンゴとモモはピタリと動きを止めてしまっている。
「ごめんなさい! その、俺は──」
鼠男が慌てて謝罪を口にすると、横からミカンの人差し指がそっと口に押し当てられた。
「母上が来たの」
小声でミカンが告げた瞬間だった。
姉妹達は弾かれたように中央の台座に正対し、横一列に綺麗に並び立つ。
そして、両手両膝を地につけ、顔を伏せ、綺麗に平伏の形を取る。
その姉妹の行動に何事かと鼠男が狼狽えていると、
コツコツコツ。
社の暗闇から心地の良い音がする。なるほど、姉妹達はこの音に反応して沈黙したのだろう。音の正体を探し、辺りを見回していると、背後から強く手を引かれた。
「ここ、私の隣、おいで」
ミカンが鼠男の手を引き、隣に誘い座らせた。流石に空気を読んだ鼠男は、姉妹達に倣って両手両膝を地につけ、顔を伏せてそのときを待った。
コツコツコツ。
周りの空気がピンと張り詰め、その乾いた音だけが室内に反響する。次第にその音は近づき大きくなり、伏したネズミの頭上で音が止んだ。
「「「おはようございます。母上」」」
「おはよう。私の娘達」
一斉に挨拶をした姉妹に応えたその声は、随分と透き通る女性の声だった。
心に直接入ってくるような、透明な声。
それを聞いた途端、鼠男の心臓が早鐘のように煩くなる。
姿を見てさえいないのに、畏敬の念を抱くべき存在だと、なぜだか理解できてしまっていた。
「相も変わらず、ザクロがいませんね」
「はい……。申し訳ございません、母上」
声の主が三女の不在を指摘すると、ミカンが申し訳なさそうに声を絞り出した。
「結構ですよ、ミカン。今にはじまったことではありませんから。それより──」
言いさして、次の音は鼠男に注がれる。
「そこの者、顔を上げなさい」
神の言葉に従って、鼠男はゆっくりと顔を上げた。
「よい日和です。よき縁が起こりましたね」
目の前に立つ女は、顔の上半分を白布で覆って目元を隠し、美しい紅い唇からは緩やかな笑みを湛えていた。姉妹と同じ死装束のような純白の着物に身を包み、腰まで伸ばした黒髪が灯籠の光に照らされて淡く輝いている。
その立ち姿を目にした途端、鼠男は思わず上げたばかりの
──神様だ。品があり格がある、超常の存在だ。
広陵な土地に堂々とそびえ立ち、雲を貫き佇む大山。力強く谷の底へと流れ落ちる大滝。すべての生命の源である広大な海。それら圧倒的な自然物に抱く感動に似ている。
目の前に立つ香梨紅子という存在が、人の形をしているということに鼠男は打ち震えた。
同じ生命とは思えない。これほどの存在が、自分と同じ地面を歩く命なのか? きっと違う。あまりに格が違う。命の価値が違いすぎる。
なぜ、一目見ただけでこのような気持ちになるのか。
なぜ、称賛の言葉が次から次へと頭の中を駆け巡るのか。
なぜだ、なぜだ、と頭を巡らす。自分の中に湧き立つ畏敬の念は、本当に自分で考えていることなのか。まるで自分の中にもう一人いるような、そんな感覚に支配されている。
ひどく困惑していると、香梨紅子が優雅な所作で膝を曲げ、鼠男と視線を合わせた。
「よいよい。脈動は十四、肉と膜も良好。健康的な少年ですね」
言いながら、両手をするりと鼠男の喉元に伸ばす。
「ふむ……」
鼠男の喉元に触れ、胸元を押し、大きな口を開けさせ舌の色を見る。淀みなく肉体を触診し、念入りに検めると、満足気に口元を緩めた。
「花も骨も健康です。耳は大きくとも聴力は人よりやや良いくらい。音の響きを胸で聞き、腑に落とす子ですね。他者の感情が流れ込みやすく、また気が落ちやすい。しかし左右の骨の均整が良い。立ち直りもはやいでしょう」
まるで医者か占い師のようなことを言い、鼠男の頬を撫でて立ち上がった。
「心があって肉体があるのではなく、肉体という〝土〟から生じるのが、心という〝花〟である。それが我が
認められた。触れられた時点で絶対の人権を手に入れたような気になったが、言葉でも自分の存在を認めてくれた。
「ありがとうございますッ」
鼠男は喜びに打ち震えて、深く
頭の片隅で「なぜだなぜだ」と反芻させていた言葉は跡形もなく消え去り、この僅かな時間ですっかり心を掌握されてしまった。
「お待ちください、母上」
しかし、一部始終を冷ややかに見ていたカリンが、顔を上げて横槍を入れる。
「さきほど報告させて頂きましたが、その者は鮮花を開けないと言うのです。羅刹となった身で花が開けない、そんなことがありうるのでしょうか?」
「あるのでしょう。大輪を咲かせる花ほど、芽吹きが遅いことも」
香梨紅子がそれだけ言うと、カリンは深々と頭を下げ、それ以上喋ることはなかった。娘といえど、ここでは神の意向が絶対なのだろう。釣られて鼠男もまた深く頭を下げた。
「名を思い出せないそうですね」
「はい。申し訳ございません。今朝起床した際、すべてが抜け落ちておりました」
「そうですか。名も記憶も肉の一部ですからね。その身を大きく変えれば、抜け落ちるのも致し方ありません。名を与えれば、あなたの花も咲くようになるかもしれませんね」
香梨紅子は改めて目の前の獣を見下ろし、
「では、これからあなたは『ネズミ』と名乗りなさい」
そう告げた。
見たままの姿、獣の形そのままの名前。
人間に『人間』と名づける者がいるだろうか。
しかし、ネズミ本人は感動し、眼球からとめどなく涙が溢れ出す。
「ありがとうッ、ございます!」
嗚咽混じりに
認められた感謝が内側から全能感を沸き起こし、ネズミに痺れるほどの快楽に包み込む。
だが、そんな幸福な時間も束の間、突如として隣から怒声が響いた。
「母上! その名ではあまりにも! ただの獣の分類ではありませんか!」
声を張り上げて、反感を示したのは次女ミカンだった。
「名付け直しを! せめて人の名を!」
香梨紅子の前に進み出て、両手をつき、頭を伏して決死の懇願。
だが、神は目の前で下げられた娘の頭を歯牙にも掛けなかった。
「ネズミには後日、してほしい仕事があります。追って仔細をお伝えします」
「母上ェ!」
ミカンの咆哮が空気を切り裂いた。
その声が社の岩壁に反響し、辺りがのしかかるような重い沈黙に包まれる。
「どうかご再考をッ! あなたの庇護下に入るということは、彼は私たちの弟に……家族になるのです! せめて私たちと同様に、果実の名をお与えください!」
血走る眼で母を睨み据えて、さらに語勢を強めて要求する。
だが、その願いは──。
「変わりはありませんよ。あなたがいくら駄々を捏ねようともね」
菓子を欲しがる子供を嗜めるような口振りで、ミカンの懇願を一蹴した。
──まずい。
焦ったのは横で見ていた渦中のネズミだ。ミカンの相貌が激烈な怒りに染まり出し、額に木の根のような血管が次々と浮き始める。可愛い弟が出来たと愛いらしくはしゃいでいた唇からは、獲物を前にした狼のような唸り声が漏れ出していた。
「あなたはいつもいつもいつもッ!」
そう叫ぶと、腰を浮かせて臨戦態勢に入った。
この後は手に取るようにわかる。ミカンが香梨紅子に飛び掛かる──。
その直後だ。
ぱちん、と香梨紅子が一つ
乾いた音が強制的に皆の意識に瞬き、室内に駆け巡る残響が止むまで、皆が呼吸さえ控えていた。
「ミカン、母の意向に沿えますね?」
問われると、ミカンは糸が切れた人形のようにその場に膝を折った。
「失礼しました、母上。お言葉のままに……致します……」
ミカンはゆっくりと項垂れるように頭を下げ、綺麗に指を揃えて平伏した。
あれほど憤怒を露わにしていたというのに、あっけなく従うその姿勢にネズミは驚愕する。
何が起こったのだと頭に浮かべた疑問は、次の言葉で即座に塗りつぶされる。
「ネズミ」
香梨紅子に名を呼ばれると、胸中に悦の波紋が拡がった。
「あなたに教育係を手配します。気になったことがあればその者にお聞きなさい」
「はい。ご配慮、感謝致します」
「良い子ですね。ネズミ」
神にまた名を呼ばれて、ネズミは更に胸を高鳴らせる。
──ネズミ。憤慨するような名前ではない。輝くような、誇らしい名前だ。
なぜミカンはあんなに憤っていたのか? 神から名を貰えた。それだけでネズミは踊り出したいほど歓喜しているというのに。
──ネズミ、ネズミ、ネズミ。愛嬌のある、愛される名前だ。
与えられた名の響きを頭の中で反芻し、ネズミは余韻に浸って悦に沈み続ける。神の立ち姿を思い描き、自分を抱擁してくれている妄想で頭を満たすと、今しがた起きた剣呑とした出来事が、霞のようにネズミの中から消えてゆく。
「それでは、私はこれより瞑想に入ります。決して奥ノ院に立ち入らぬように」
そうして香梨紅子がネズミの横を通り過ぎ、社の奥へと向かう途中だった。
やってしまった。ネズミは失敗した。
香梨紅子の足元にふわりと自身の長い尻尾が滑り込み、神の左足に絡みついた。
「はて?」
時間が停止した。ネズミの尻尾に捕まって、香梨紅子は首を傾げる。
「ネズミ、これはどういうことでしょうか?」
咎めているのか、単純に聞いているだけなのか、なんとも読み取れない声音だった。
「も、も、申し訳ありません! 紅子様! まだ尻尾の扱いに慣れていなく!」
緊張を解くのが早かったのだろうか? 筋肉の痙攣だろうか? 名を授かった喜びで気が緩んでしまい、尻尾を動かしてしまったのだろうか?
頭を混乱させながらも、ネズミの尻尾はより強く、ぐるりと香梨紅子の足に巻き付いた。
神が目の前から立ち去るのを名残惜しいと、潜在意識で思ったのだろうか?
すぐに尻尾を解かなくてはと、立ち上がりかけたそのとき。
「ふむ。そうですか」
香梨紅子が袖口を整える程度に腕を払った。
すると一陣の風と共に、ぷつり。ネズミの尻の先から嫌な音が鳴った。
「ァ──ッ」
それが自分の尻尾が切り飛ばされた音だと気がついたのは、生暖かい赤い飛沫が顔に噴きつけてからだった。
空中をくるくる舞う尻尾を目で追って、ネズミは感嘆の呼気を漏らした。
自分に名を与えた神は、腕を払うだけで骨と肉を切り飛ばせるのかと。
どさりと重々しく、地に打ち付けられた尻尾を見届け、ネズミは神に深く
「本当に、申し訳ございませんでした」
今日、この姿になったばかりだ。自分の尻に生える尻尾なんて特に思い入れもない。悲しいなんて気持ちにはならない。むしろこれで贖罪になるのだろうかと不安になった。
「あなたは『失う』という尊さをその身で知りました。ネズミ、より良い精進を」
「はい。感謝致します……」
口から謝辞が衝いて出たが、『失う尊さ』という意味に理解が及ばない。自分は名も居場所も与えられたじゃないか。むしろ、得たものの尊さの方が勝っている。
コツコツと神が暗闇へと歩み出す。その音と一緒に、尻の根元がズキズキと痛んだ。
そうして、立ち去る神の背中に向かって深く首を垂れていると、隣でミカンの歯噛みする音が聞こえた。
──自分の血が付いてしまったのだろうか? 不快な思いさせてしまった。
「ごめんなさい」
絞り出すような声で謝ったのはミカンの方だった。
それを聞いて、慌ててネズミも謝ろうと立ち上がると、視界がぐらりと歪に曲がる。
「はれ? あれれ?」
血を流したせいだろうか、今日一日中気を張り続けたせいだろうか。ひどく頭が重くなり膝が崩れ折れる。ひどく冷たい床が頬に当たり、自分が倒れているのだと自覚した。
「──丈夫!?──!」
「──かん──、─血──たん──」
「──‼︎ ──母上の──」
慌てふためく姉妹たちが何やら言い合っている。
『───ズミ─ん‼︎ 手──』
鼓膜まで動きが鈍くなっている。目も、瞬きをする度に瞼が重く閉じていく。
「大丈……ぶ……眠い……だけ……です」
口の筋肉をなんとか動かしてそれだけ言うと、ネズミはゆっくりと意識を閉じた。
✿
「おや、珍しい。ザクロ様が社の近くまで来られるとは……」
「うるせーな」
「どういう気の変わりようで?」
古い刀傷が刻まれた顎を手で触れながら、
「ほっておけ。何処にいようが私の自由だ」
鼠男が香梨紅子に謁見していた頃、川でカリンの能力の被害者を救出して回っていたザクロは、一通り見回りが済ました後、母の住する社の門前へと足を運んでいた。
訳あって母を避けている身の上にも関わらず、どうしても鼠男のことが気になりだし、社を囲う竹林から恐る恐る様子を伺っていると、目ざとい老婆に見つかった次第だ。
「そんなことより、あいつはどうなった? 無事か?」
「ええ。今は気絶……否、熟睡しておいでです」
「は? なんで?」
「紅子様に尻尾を切断されてしまったと」
彩李が指差す方向、社の裏手に大の字で寝ている毛玉がいた。次女のミカンの膝枕に頭を預け、呑気に鼻から提灯を膨らませ、丸い腹を上下させている。
ますます珍妙で愉快だと、ザクロは嬉々として歩き出すと、
「せっかくですから、紅子様に会って行かれますか?」
彩李から煩わしい問いが発せられた。
「会う……わけねえだろ……」
歯切れを悪くしてザクロが先を進むと、彩李から深い溜息が一つ漏れる。
「気持ちはわかります。ですが、紅子様もあなたを思っての────」
「黙れババア。どうせ母上は社から出てこない。なら、好きにさせてもらう。これでこの話は終いだ。お前がどんなに言葉尽くそうと、母上の信者である限りは狂信者の戯言だ。私の問題に口を出すな」
振り向きもせずに、ザクロは眉尻を吊り上げてそんなことを言う。
ザクロにとって香梨紅子との
自分が、香梨紅子に逆らえないという結論が。
ヘソを曲げたザクロと肩を落とす彩李。会話もなくとぼとぼ歩き、横になった鼠男の傍に膝をつくと、ミカンが呆れるように笑う。
「また喧嘩したの?」
「した。口うるさいババアが悪い」
「懲りないね」
「人のこと言えんのかよ? ミカン姉だっていっつも──」
言葉を切って、ザクロは首を振る。この次女と口論している場合ではない。眼前に面白い存在が転がっているのだから。
「んなことより、こいつの名前は?」
ザクロが聞くとミカンの表情が陰って、わずかに顔を伏せてその名を口にする。
「ネズミ……だって」
名を聞いて、ザクロはあんぐり口を開いて絶句する。
「マジかよ……母上が名付けたのか? そのまんまじゃん……」
「……うん」
歯に衣着せぬ物言いをするザクロであっても、そのあまりの名付けに答えを窮した。
ミカンが『ネズミ』などという名前を許容できるはずはないと、ザクロは知っている。その優しさを知っているからこそ、ミカンを傷つけないように言葉を選んでしまう。
「そうか。まぁ……なんだ……その、耳馴染みは良いんじゃね?」
「そうだね」
ザクロの苦し紛れに出した言葉に、ミカンは力なく同意し目元を伏せた。
この土地で、神として君臨する香梨紅子に異を唱えるということは不可能なことだ。それを幼い頃から姉妹達は痛感している。いくら神が理不尽でも、受け入れるしかない。あれに抗えるほど、誰も強くない。この環境に順応するしかないのだ。
されど、惨めな名であっても、不幸と思うか否かは名付けられた本人次第だ。
「こいついくつ?」
「十四だって。ザクロと同じだね」
「そうか」
目の前で大の字で寝ているネズミの呑気な寝顔を見て、ザクロに笑みが溢れる。
「同い年だってよ、ネズミ」
ザクロは屈んで、ネズミの顔を覗き込む。見れば見るほどに面白い顔をしていた。
「お前さんも不憫だな。こんなやべえとこで羅刹になっちまうなんて」
言うと、「むにゃり」とネズミの大口が開いた。そこから見えた光景に一同は首を傾げた。
「あ? 何じゃこりゃ? 鼠? じゃなくね?」
「ちょいと失礼」
閉じかけたネズミの口に強引に指を滑り込ませた彩李は、興味深そうに検分し始める。
「
鼠に類する齧歯類は硬い物を砕いて食すため、長く平たい前歯(
「ますます面白いな。お前さん何者なんだ?」
おもしろきことは花である。
ザクロは笑って、ネズミの額を撫でて口元を綻ばせた。
「お前の寝床、用意しないとな」
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