第3章 世界が終わる時まで

第11話 新しい日常

 翌日、いつもの通り自室のリビングに敷かれたマットレスの上で目覚めた湊は、隣で寝息を立てるイジを見とめ、ほっと息を吐いた。

 あれから警察の特別車両で自宅に送られたが、真琴の言うようにイジや彼女とラグナの関係を洗っても何も出なかったらしい、その日の内にぐったりと眠るイジが警察を伴って現れ、そしてまた日常が戻ってきたのである。


 幾つか違う事はと言えば、イジの顔に散っていた鱗が全身に点々と広がっていた事。――これでも警察署に引き取られた当初に比べると引いたそうだ。事件当時は全身をぎっちり鱗がつつんでいたという署員からの報告であった。

 そして、イジの又隣に自宅から布団を持ち込んで日向が横に成っている事。日向の家は学校では有名な中国大使の出であり、この所のあれこれについてかなり厳しく問い詰められたらしいが、真琴の口添えもあって湊の家で寝起きする事を許されていた。湊にしてみれば心強い事しきりだ。


 イジの胸に手を充てると、心音が微かに伝わって来て、彼女が確かに生きている事を告げていた。安心するとともに、昨夜イジの寝顔を見ながら日向から知らされた事実を反芻する。



 イジは、どうやら守がラグナの社員であった頃に制作した電子生命体らしい。その基本構造は、アバターと同じナノマシンの集合体である。守が管理していたNPCシステムの応用であるとの事だった。

 しかし、イジの身体は空から得たデータを基に極めて実際の人間に近い形で具現化されている。血液や、細胞一つ一つの制動に至るまで再現されているらしい。口にしたものを消化できる程の再現性はないが、味は感じるし疲れれば眠くなる。食べた物は一定時間を経てそのまま排泄されているらしい。

 らしい、らしいという確証のない話ばかりなのは、守がNPCシステムのプログラムに数重なるロックを掛けているからだ。守でなければそのシステムの正確な所は知れぬ状態なのだった。


 昨日からの立て続けの出来事に加え、イジがAVRの幻に過ぎないという仮説は、湊にとって実際非常に堪えた。

 それでも、彼女にとってもはやイジは家族そのものだった。イジの額に手をやると、まだ若干熱があるようだ。日向越しに司に聴かされた仮説によると、この「熱」がイジのプログラムに埋め込まれた天龍の因子を解き放つ一つのキーなのではないか、という。…まだ危機は去っていないのだった。



 ひとまずイジはもう少し寝かせておくことにして、湊は日向の身体をゆさゆさとゆすった。むにゃむにゃ呟きながら目を開いた日向は、次の瞬間眉をしかめる。


「体いってえ…」

「無理したもんね、まだ筋肉痛か」

「わりい…今リオさんが来ても起き上がれる自信そこはかとなくなし」


 気を遣われている。その事実にそれでもちょっと笑った湊は、日向の頭を小突いてから台所に向った。


「まあ、良くなるまで寝てなよ。しばらくは真琴さんの同僚がこの近辺に張ってくれるって話だったし、司さんもこっちに着いたわけだし」

「だな。莉桜さんも昨日の今日でいきなり現れる事はねえか」


 なんとか体を起こしてずるずるとソファに移動する日向。朝食の準備を始めながら、湊は人知れず小さく微笑んだ。


(この日常がずっと…ずっと続くように、私も)



 やがて眼を開けたイジが何事もなかったように騒ぎだし、それに応対する二人も努めて昨日の事は話さないようにしながら、その日も暮れて行った。




 都内某所のマンションの一室。家具が一つも置かれていないがらんとした空間で目覚めた莉桜は、自分の顔を伝う涙の跡を拭いながら身を起こした。ここ数か月繰り返してきたいつも通りの朝だ。

 カーテンの閉め切られたワンルームで、煌々と光る端末の灯りを頼りによろよろと備え付けの小さな冷蔵庫に向う。


 やがてそこからカロリーを得るためだけに食べる事にしている携帯食を取り出して口にすると、いつもの如く襲ってくる吐き気を飲み下した。


(こんなになってまで生きなきゃいけないなんてね)


 脳裏をよぎる言葉に、首を振る。


 今辛いのは、自分よりも周りの人間だ。自分は、ただ嫌な事から逃げるために周囲に迷惑を掛けて生きている。そんな自分が生きる事に対する文句など。

 やがて携帯端末がぶるぶると震え、モニターに恋人の名前が表示される。束の間の逡巡の後、通話ボタンを押した。


『莉桜…おはよう』

「おはよう。もう連絡くれないと思ってたよ」

『まあ、こうして互いの立場がはっきりした以上、敵対するしかないね。でも』


 司の声は変わらず暖かかった。


『僕が君を守りたい気持ちに、これまでもこれからも変わりはない。それだけ伝えたくて』

「うん」


 恋人に本心を悟られないように、この所心掛けてきた笑顔を顔に張りつかせ、爽やかな声音を作る。


「もう一度闘おう。今度は敵同士として」


 やがて端末が通話終了を告げ、莉桜は知られぬように少し泣いた。

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