第9話 胎動

 その日の運動プログラムの残り時間、湊はどうしても体が震えてしまいそれ以上外出が出来なかった。運動プログラム内でこなす運動量やメニューは国民それぞれに任されているし、ただでさえ湊はこの所アグリノーツで頻繁に戦闘を繰り返していたから、一日くらい休んでもどうという事は無い。そう説いて聞かせ、今日は大人しくしているように勧めた日向である。

 イジも珍しく憔悴しており、心持赤らんだ顔をして湊にぴったりくっつき離れない。二人とも、あの日亜久里に襲撃を受けた記憶がよみがえってしまったのだろう。


 集合住宅の湊の部屋を後にし、暗い面持で街路を歩いて行った日向は、不意に思い立ったように足を止め、少し逡巡する。そして意を決したと言うように別の方向に歩き出した。ずんずん前に進みながらも携帯端末を取り出し、どこかに連絡を取る。


「…今から行って良いっすか。例の結果を聞きに」

『うん、ちょうどこっちからも連絡しようとしてたとこ。ちょうど莉桜が出払ってるから、今からなら大丈夫』


 電話の向こうで、通話相手も緊張しているのが解った。最も相手の場合は持ち前の気の弱さ、というか相手に対する熟慮から来るようであったが。


「じゃあ、そっちで」


 そっけなく言って通話を終了すると、日向は高級オフィス街へと足を向けるのだった。




 一方、湊は、あれから数十分経ってようやく気を取り直しつつあった。未だ自分の腕にすがりつき真っ赤な顔で唸るイジを見やり、自分がこんな事ではいけないと思い直す。襲われたのは、さらわれかけたのはイジのほうなのだ。第一、自分は保護者としてイジを守るべき立場にある。


 頭を撫でて「何か食べたい物ある?」と聞くと、イジは大きく肩を上下させながら「みずがのみたい」と小さな声を絞り出す。ついでに何か果物でも出してあげよう。確かこの前親戚に頂いた夏物の梨が残っていたはずだ。

 台所に立ち、一先ずグラスを引っ張り出して水を灌ぐと、濡らしたタオルに氷嚢を包んでそれと共にイジに差しだす。気持ちよさそうに氷嚢に頬を刷りつけるイジ。


 その時に成って妙な違和感に気付いた。そう言えば今日のイジは始終テンションが高かった。今のこの様子を見ても、風邪を引いたかで熱を出しているのではないだろうか。

 しかし、ヒューマノイドが風邪のウィルスに感染するでもないだろうし。


 ごくごくと水を飲み干し、なおも腫れぼったい目を瞬かせるイジを見て、ようやくそんな逡巡は無駄だと気付いた。

 そうだ。この子は自分を必要としている。

 ならば自分が差しだせるものがある筈だ。



 イジをソファベッドに寝かせ、毛布でくるんでやる。ようやく一息ついた様子のイジを見て、こちらまでほっとした。これでいいのだ。私達は――家族なんだから。

 イジが手を伸ばしてこちらの指に触れてくる。甘えているのかもしれない。自分も小さな頃は、熱を出して寝込むたびに不安がって母親の手を求めた。そう、確かこうやって、自分の母もひんやりとした手で自分の額を撫でてくれたのだ。

 あの頃の母に倣いイジの額に手をやると、少女は目を細めてうるんだ瞳でこちらをじっと見た。布団の上からとんとんとリズミカルに体を打ってやる。今になって疲れが出たのだろう。やがてイジはすうすうと寝息をたてはじめる。


 その寝顔を見ていると、何かが満ちて行く気持ちがした。




「やあ、久し振り」

「挨拶はいいっす」


 ラグナ本社ビル、地下サーバルーム。日向を出迎えた男――司は、彼女の剣幕にちょっとたじろぐと、居心地悪そうに笑った。まったく、この人は出会った時から大体こうだ。人の事ばかり優先して、自分が傷ついても構わないという体で生きている。思えば真琴も、亜久里も――空も、そうだ。


「亜久里が接触を図って来たそうだね」

「偶然出くわしただけって線も捨てきれませんがね。頂いておいた写真が役に立ちました」

「そう。まあ、個人情報がどうのという倫理の話はナシで」


 人が良さそうにふっふっと笑う。しかし相変わらず険しい顔を崩さない日向を見て、ちょっと肩をすくめてから、司は手元のタブレットを操作して最近医療方面の知り合いから取り寄せたカルテを呼び出す。


「君に採取して貰った血液検査の結果だけどね」

「その感じだとやっぱり――」

「うん。空のDNAと概ね一致した」


 日向の目に悲壮な光がともる。仕方がない、彼女にとってみれば、この所友人が気に掛けている少女がまさかのクローン体だったのである。現代においても人間のクローン体を生成、運用することは重大な罪になる。つまり、遠からず待っているのはイジとの別れなのである。友人がそれに耐えられるかどうか、いささか自信が無い。


 そんな日向の逡巡に目もくれず、司の視線が鋭くなる。そして、タブレットに表示された項目を指で指示しながらこちらに掲げた。


「だけどね。気に成る数値があるんだ。こことここ」

「…この数字すか」

「うん、これは血中の栄養分の濃度を示す数値なんだけどね。これが、異常に低い」

「つまり?」

「血液っていうのはそもそもが体中に栄養分を回す為に存在している。その血液が、どうやら本来の目的で使われてない」

「…要点を言って貰えます?」


 さすがに苛立ちを隠そうともしなくなって来た日向をまあまあと押しとどめ、司はぼそりと呟くように言った。


「この血中栄養分濃度は生き物の血液じゃありえない。しかし、組成上は純粋な血液と然程変わりなかった。…イジちゃんは電子生命体だ。科学の禁忌の極みだよ」


 その言葉と共に、サーバルームの照明が何度か瞬く。はっとして天井を見上げた二人の耳を、けたたましいサーバの駆動音がつんざくのだった。


「動き出したね」


 司が呻くと同時、ルームに何十台も置かれたモニターに一斉に文字列が走り始める。それは生き物のように細かにうごめくかに見えたのである。




「イジ…ちゃん?」


 同時刻、集合住宅の湊の部屋。

 室内に縦横無尽に走る光線が視界をくらませていた。光線はどうやらイジの身体のある場所から発せられている。光があたった壁やソファなどの家具に、計算式とみられる文字列が高速で映し出されては消えていく。


「なに…イジちゃん」


 冷蔵庫から梨を取りだしたところであった湊には、この事態を理解すら出来なかった。やがて光の筋はその本数と束の大きさを増していき、部屋を光の塊が包み込んだ。

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