帰宅
@Lian56
第1話
1
「それでどうなんだい? 新婚生活というやつは?」
ワイングラスを上げて、古沢は相手を見る。赤い液体の向こうにいる河原のフォークを握る手が動揺で大きく動くのを見て古沢の唇に小さく笑みが浮かぶ。
「なるほどねぇ。相談したいというのはそういうことなのか。しかし銀座に名高い国見堂の、しかも地下の個室に招待してくれるとはね。僕では役者不足だよ。しばらくは一緒になろうなんて女もいないし、新聞記者なんてやくざな仕事じゃ結婚相手なんて見つかるはずもない」
そう言いながら古沢は壁を軽くたたく。煉瓦の確かな質感。震災で上の建物を焼いてしまった国見堂は一階の大ホールははやりの軽さに変わってしまったが、地下の部屋は創立時からの重さを止めている。会員のみが食事の出来るこの部屋の赤い煉瓦と真っ白なテーブルクロスのコントラストが美しい。燭台に照らされる銀の飾りのついた白磁の食器の光、その上の冷たく冷やされた鮭とソースの具合も絶妙だ。今日の食事に河原はいったいいくら使ったんだろうか? おそらく30円は下るまい、この一食で自分の給料の4分の1が飛んでいってしまうわけだ。古沢は自嘲気味の笑みを浮かべる。
「古沢。最近仕事のほうはどうなんだ?」
ナイフを置いて河原は話をそらす。
「どこを向いても不景気な話ばかりだ。元号が変わったっていうのに、町中の建物は貸家のはり紙ばかりで、みんな都落ちだ。震災から三年たったってもまだ家のない奴がごろごろあふれている。まあそれでも今年の米はよく育っているようだし、去年のように3円なんてべらぼうな値段にはならないだろうがね。景気がいいのはトーキー式の映画館くらいじゃないのか? ああ、それと君の家もあったな。製糸のほうは大打撃だってのに、君の所の業績は天井知らずだ。君の父上は先見の明があったというわけだ」
「そうだね。幸運なことだ」
「おかげでここでこうして贅沢な食事が出来るというものだ。‥‥‥そろそろ白状しろよ河原。世間話をするためにこんなたいそうな所に俺を呼んだわけではあるまい。なんで国見堂の地下まで俺をひっぱりこんだんだ?」
「ちょっと内密な相談があってね‥‥‥」
「それだけでわざわざここに? 30円も使ってか?」
「おかしいかい? ここなら声は外に漏れないし、人もいないだろ」
「呼び鈴を鳴らせば給仕が飛んでくるじゃないか。つまり聞耳をたてられているんだぞ。それに内密な話なんてのはうるさいところでやるほうが逆にいいんだ。新宿のどぶ芸者どもに囲まれてやれば、たとえ話を聞かれても学のないあいつらなら分かりゃしない」
「そういうものなのか」
河原の神妙な関心ぶりに古沢は軽くため息をつく。グラスに残ったワインを飲み干す。「河原、そっちの白をとってくれないか。君のいうように、魚に赤は合わないんだな。ところで、春代夫人と何があったというんだ?今日、君の相談したいということは、それなんだろう?」
「まあ、そうなんだ」
「しかし、俺は年寄でもなけりゃ、女の専門家でもない。たしかにうちも読売を真似て身の上相談なんぞをはじめたが、俺は担当じゃない。君たちのように良識あふれる、理想的な家庭に助言なんて出来ないよ」
「何も助言を欲しいなんて言っていないよ」
「じゃあなんなんだよ。吉原で取材した技巧を教えろなんていうんじゃないだろうな。もしそうならめでたいことだ。君の堅物ぶりが少しまともに解けてきたというものだ」
「古沢、勝手に話をすすめないでくれ。ちゃんと話すから。確か君はあの『昭和の龍雲』の記事を書いていたね」
「『昭和の龍雲』ねぇ。『帝都の切り裂き魔』ってのもあるけど、もう少しなんとかできないのかねぇ。センスというものが感じられない。犯人は恐ろしく奇妙な奴だよ。狡猾とか凶悪とかいう言葉で片付けられる奴じゃない。今流行っている猟奇探偵物の主人公そのもののようなまさに時代が登場を望んだような存在だよ」
『龍雲』というのは大正三年、本名大米龍雲が関西を中心で起こした日本犯罪史上類を見ない、残虐な犯人の通称である。強盗殺人三件、強盗強姦五件、強盗七件、窃盗九件を数えた大事件であった。僧籍にあった龍雲は、自分の経験を生かし、狙いやすい寺や尼寺を襲い、美醜年令を問わず、強姦、殺人を重ねた。
昭和二年。新しい元号を迎えた帝都に住む人々の口の端にかっての龍雲を彷彿とさせる猟奇事件が上るようになった。決定的に違うところはこれまで被害にあったものが全て妙齢の婦人であり、金品や、強姦を目的とせず、ただ喉を切り裂いて殺すのみという明らかな異常性を持っており、それはかのロンドンで起きたという伝説的な連続通り魔事件との関連性さえも新聞が脚色して書き立てるにいたり、帝都最大の関心事となりつつある事件だった。
「君は最初からその事件を追っているのかい?」
「奴の仕業と思われる三人目の被害者からだよ。関連性に気付いてスッパ抜いたのは平凡社の雑誌のほうだが、ちょうどその頃には俺もこの帝都で起きていた通り魔事件中の類似点を編集長に進言していてね。それで俺が担当になれた。こいつは容易ならざる事件だ。なんといってもあれからさらに二人も被害にあっているのに官憲は犯人の目星さえもついていない。最初の殺人は震災の一年後だからもう二年以上になるのに犯人は大手を振って今もこの街を歩いている」
「この街? 銀座をかい?」
「この帝都をだよ。奴は間違いなく都市の住民だよ。人通りのない道、呼ばれればついてくる女、獲物を嗅ぎ分ける嗅覚はひょっとしたら俺や君のような、この都市を自由自在に歩くことが出来る知識人ならだれもがもっているものなのかもしれない」
「君は‥‥‥‥犯人に目星がついているのか?」
「まさか、しかしカス雑誌でいわれているような医学の天才でないことは確かだ。奴は練習しているよ。手口はいつも医療用のメスで女の喉を切り裂いているが、一人目と五人目では手際が全然違う。学習しているんだよ。それも楽しんでね。これは検死官の私見だけどね、俺もそう思うよ」
「すごいな。そんなことは新聞や雑誌には何も書かれていないじゃないか」
「一応無用な混乱を防ぐために箝口令はしかれているさ。しかしそのために雑誌や小新聞はいい加減な情報でむやみに書き立てているから、無用な混乱はすでに起きているし、警察にあらぬ疑いで尋問される人も多くなっている」
「古沢、君は警察から私たちの知らない情報も知っているんだね。しかも私たちよりいち早くそういった情報を得るんだろう。そうだね?」
「そのために苦労しているんだ。おいおい、河原、おまえの奥さんの話じゃなかったのか? なんでこんなことを聞きたがる」
「実はな、古沢。君に頼みがあるんだ。君が追っている事件の詳しい情報が入ったら、その都度私に一番早くに教えてほしいんだ。礼は何でもする」
「な‥‥‥‥」
古沢は絶句する。そしてまじまじと大学以来七年ごしの付き合いの友人を見る。今や飛ぶ鳥を落とす勢いの製鉄工場を傘下に持つ河原重工業の三男。一代で会社を築き上げたその父とはあまりにかけ離れた線の細い、青白い河原の目が眼鏡ごしにかってない真剣さで自分を見つめている。いや、昔もこんなことがあった。一度だけ、古沢が大学をやめる少し前の時に‥‥‥‥。
「あまりに非常識なこととは分かっている。だからこそ古沢、君にしか頼めないんだ」
「ちょっと‥‥‥‥待ってくれよ。河原、訳を教えてくれよ。たしかに面白い事件であることは認めるが、本当はもっと、根の深い、恐ろしい事件なんだよ。犯人は明らかに、狂気の下僕だ。しかし、そいつは今も平気な顔をしてこの帝都を歩き回っている。納屋に閉じこめられっぱなしの気違いが猟銃持ち出して村人を殺し回ったような”納得できる”事件じゃないんだ。犯人は予想も出来ない、しかし確実に我々の”隣人”なんだ。きっと犯人が捕まったときに周りの人間は言うだろう『まさか彼が』とね。邪悪。そう、まさにそうとしか言い様のない事件なんだ」
「だからこそ、私にとっては好都合なんだよ。非常に好都合なんだ」
呟くような河原の声。熱に浮かされたようでいて、氷のような知性を感じさせる暗い炎のような河原の、声。古沢の背に小さな震えが走る。
「何が‥‥‥‥好都合だというんだ」
問い掛ける古沢の声も思わず小さくなる。「古沢。私は偽装がしたいんだ。猟奇殺人犯が自分だと、信じさせたいんだよ。春代に、自分の妻に」
「そんなことは、危険だ。信じ込んだ君の奥さんが警察に報せるだろう。奴らは犯人を捕まえたいんだ。真偽なんて関係ない。そうしたら、本当の犯人にされてしまうかもしれないんだぞ」
「妻は、報せない‥‥‥‥だろう。おそらく。それも私にとっては一つの実験だよ」
「実験?」
「私と妻のだよ。私たちの結婚の経緯は知っているだろう?」
「ああ」
「結婚なんて物じゃない。春代は生贄だよ」
「娘なんてのは家にとってそんなものだろう。春代夫人の父親は池内子爵だ。事業の失敗に加え、国の保障は年々減っていく一方だ。そしてあの震災が起こった。池内邸は母屋のほとんどを灰にしてしまった。子爵は莫大な借金で、家を建てなおすことも出来なくなった。君の父上に話をもってきたのは子爵のほうだというじゃないか。生贄とは言いすぎだが、春代さんという娘がいたおかげで子爵の借金は河原重工が清算し、結果子爵は一族とともに地方で悠々自適な生活が出来ることになり、君の家は華族と親戚という箔を得ることになった。最近ではありふれたよくある話じゃないか」
「よくあること、そうなのだろうか」
「何が」
「私の妻、春代のことだ。彼女は、人形だ。運命を受け入れ、従うことしか知らない。私には分からない。華族の娘というものはあんなにも諦めきったものなのだろうか」
「泣いて暮らしているというわけではあるまい」
「泣いてくれたら理由を問うことが出来る。そうじゃないんだ。私が声をかければ彼女は答える。人は彼女を良妻と呼ぶだろう。しかし違う。なぜあんなにも私を恐れるのだ? いや、違うな。違うんだ、私を恐れているわけではない。私たちは対等ではない。彼女を見ると私はそう思うんだ」
「男と女、とくに夫と妻は違うだろう。支配するものと従うものだ。はやりの婦人開放じゃあるまいし、彼ら狂信者が言うように我々はご婦人を奴隷だなんて思っていない。夫と妻は違うものなんだ。それは当たり前の事だろう」
「奴隷か、ひょっとしたら春代は自分のことをそう思っているのかもしれない」
「まさか」
「私にも分からないんだ。妻が何を考えているか、私にも分からない。彼女は”待っている”んだ。いつでも、どんな時でもただ、待っている。判断をあおぐために聞くこともなく私の行動を待って、それから動いているんだ。日常生活ではない。なんとなくなんだ。どこかが狂っている。あるいは狂っているのは私のほうかもしれない」
「おい、おい、河原。おまえちょっと疲れているんじゃないか」
「どこかがおかしいんだ。君と話しているとそれが分かる。私と君は、話している。君は私の思わぬ事をいい、それに摩擦が生まれる。しかし妻は、その摩擦をなくすためだけに生きているような。摩擦をなくすためだけに努力をしているような気がするんだ。このままでは彼女は私の奴隷にすぎない」
「‥‥‥‥」
「古沢。私は妻と対等になりたいんだよ。僕には妻に対する負い目がない。彼女はありすぎるくらい持っている。私が横を向けば彼女の一族は首を括るしかなくなる。私は妻を愛したいんだ。従わせるのでなく、そう、例えば私の致命的な秘密を握ってもらうことで私と彼女は真に対等な立場に立って、その時に初めて夫と妻になれるんだ」
「それで犯人のふりをしようというのか? 妾でもつくればいいじゃないか。きちんと負い目だって出来る」
「私は春代を愛しているんだ。それに古沢。私はもう二度と女を別の目的で愛しているふりをしたくはない」
河原が表情を曇らせ下唇を噛む。古沢は河原が学生時代に起こした事件から彼が完全に脱し切ってないことを思い知らされる。
沈黙を破るために古沢は一息でグラスのワインを飲み込み、声をかける。
「よし、君に協力しようじゃないか。奇妙な話だが、それだけに面白い。私に君と奥さんの関係の経過を報告してくれるのならやろうじゃないか。細かい段取りは次の料理を平らげてからにしよう。呼び鈴を鳴らして給仕を呼んでくれ」
古沢は席を立ち上がり、向かいのテーブルに手を差し出す。河原は安堵の笑みを浮かべてその手を握り、胸の支えが降りた表情で軽く呼び鈴を鳴らす。
その時、自分を見つめる古沢の目に、ある想いが浮かんでいたことに河原は気付くはずもなかった。
2
河原は西片にある自分の家の門をくぐる。午後七時半。遠くで夜警の鳴らす拍子木が聞こえる。
広い庭である。玄関に灯された明かりは河原が立っている門から20メートル近くある。間にぽつんと外灯がある以外、門から家までの道は暗い。六月である。庭の草叢から聞こえる虫の声はまだ小さい。まるで山のなかの一軒家のように河原の家の周りには闇が広がっている。以前の持ち主から譲り受けたときに壁だけは取り壊さなかったために、このような珍妙な景色になっているのである。
昼ならなおこの奇妙な家に人は興味を持ったであろう。河原の家の外側は、高くつくられた漆喰の壁、もともと建っていた武家屋敷の、贅を尽くしたものでありながら、その壁の囲んでいる広い敷地の真ん中に、この時代はやりの文化住宅スタイルの小さな家がぽつんと建っているのである。和洋折衷のガラスのはめこまれた窓ばかりが大きく、コンクリート製の円柱が尖った瓦屋根をささえている入り口、それ以外は代わり映えのしない中流日本家屋。洋間を入れて四つの部屋をもつ小さな家。それが婚姻の時に親に望んだ河原の新居だったのである。
もともとは河原の妻、春代の実家の屋敷のあったところだったのだが、婚姻が決まり池内子爵の先祖から受け継がれた土地を譲り受けることになった際に、周囲の反対を押し切って河原が建てさせた家なのである。
外から見れば周囲と同じような立派な武家屋敷の一つに見えるのに、門をくぐれば、目白の背伸びをしている腰弁当の官僚がすんでいそうな文化住宅が、広い庭の真ん中に建っている。上の二人の兄は父と同じ玉川にある河原御殿とも呼ばれる西洋館から車で職場に通うのに、河原だけがわざわざ電車に揺られ会社に出る。
この家は、そういった河原のアンバランスな価値観と頑なななこだわりそのままの奇妙な家であった。
引き戸をあけて河原は帽子を脱ぐ。
「今帰った」
玄関のほうをむいて靴を脱ぐ。ぱたぱたと足袋の音が近付いてくるのが聞こえる。
「おかえりなさいまし」
春代は膝をつき、手を前にそろえる。仰々しいからやめるようにと最初は言っていた河原だったが、いつしかその”妻が夫を迎える絵”というのを楽しむようになっていて、春代が頭を下げるのを眺めるようになっていた。春代のその動作は流れるように自然で美しい。割烹着に結いあげられた髪という姿でさえも気品を感じさせる。
小さな、華奢な体だ。河原は妻の姿を見て思う。地味な和服に包まれ座っている春代の姿は十七という実際の年齢より幼く見える。春代が顔をあげる。睫毛の長い、猫のような目が河原の目を見て、すぐにわずかにそらされる。河原はカバンを春代に渡すと、陶器のように白い小さな手が河原の手に触れる。肌のきめの細かいなめらかな、冷たい手。結婚して四ヵ月、家事のほとんどを彼女がやっているが、そんな苦労を微塵も感じさせない手だ。
河原は廊下を歩きながらネクタイを緩める。「今日の夕飯はなんだい?」
「鯵のいいものが入りましたので‥‥‥‥」「初物だね」
うつむきながらついてくる春代をふりかえる。河原の笑みに、春代も小さくほほえむ。「汗をかいてしまった。いつものように先に風呂に入るよ」
「はい」
灰色の地肌が剥出しのコンクリートの湯槽。最初は真新しさに喜んでもみたが、機能美というには程遠い、武骨な感じと違和感の残る肌ざわりは、河原の心の奥に何か不安を与えるものがある。
春代にも通ずる、違和感だ。
風呂には原因が分かる。設計士に命じて造らせた、平凡な文化住宅そのままの風呂、コンクリートで造られた装飾を削いだ造りは写真でみた独房を連想させる。コンクリートという人工物の生む不自然な模様は何か得体の知れない不安がある。
しかし、春代には、どうだろうか。血の違いとも言うべきものはあるだろう。あの出迎え方からでさえそれを感じる。河原にはあのような優美なお辞儀は出来ない。真似ても無理だろう。小さな頃から教えられ、親の方法を真似て作り出された、何百年もの歴史を持つ家の子孫が出来る、あれは芸といってもいいものだ。河原のように学のあるものには出来そうにない、無駄の多い、それでいてなめらかな動き。年寄の貫禄ではない、十七の幼い、教えられたことに疑いを持たないもののみができる物腰は、河原を圧倒させ、春代を遠い存在に感じさせる。
頑なさだ。心に浮かんだ言葉が、春代を言い当てた気がする。妻という役割を必死に演じようとする心が河原に春代を遠い存在にさせてしまう。
彼女は一生懸命に役割を演じている。夫の出迎え、家事、そして‥‥‥‥生きることを。河原が春代に話し掛けると、春代はこう考えるのだ。「妻としてどう答えよう」と。目の前にいて、触れても、まるで春代自身にはガラスに覆われているかのように届かない。すべてがガラスの表面を滑っていくだけだ。言葉も、愛も、爪も。
一度だけ、河原は彼女の心に届いたという実感を得たことがある。計画を練って、実験し、成功したのだ。
河原は夜遅くまで寝床で本を読む習慣がある。そのために枕元に仕掛けがしてあった。寝たまま手を延ばすだけで電気のスイッチ操作することが出来るのである。
休日の前の夜などは河原はその部屋に寝る。いつもは春代と共に布団を並べて眠る。
あの夜、春代を部屋に呼んだのだ。春代はその仕掛けを知らなかった。そして春代の体を求め、電気を付けたのである。
明かりのもとにさらされた、春代の体は美しかった。小さな悲鳴をあげて、手の平で隠した間からのぞくばら色に上気した頬、汗に光る肌。解かれた髪は、白い布団に広がる黒い波紋のようだった。
「やめて、やめてください」
消え入りそうな声で春代は何度もそう繰り返した。腕のなかで震える体も、声を上げるのを堪えるために押さえた口も、掴まるものを求めて、弱々しく動く腕も、河原ははじめて白日のもとに、見たのだ。それは感動であり、実感であった。異常な状況に置かれ、戸惑う春代が、愛しかった。自分の妻である少女はこんな一面ももっているのだ。
戸惑い、怯え、僅かに抗うあの姿は、妻という虚飾をはぎ取った春代の姿なのだ。恐怖を与えるのが目的ではなかった。いつもの交わりのそっけない反応。それは春代が堪えていたということがわかったのだ。今でもあの夜の啜り泣く春代の声に河原は罪悪感のもたらす心の痛みがある。しかし、春代が殻を被っていることを実感したのである。彼女には魂がある。妻という人形なのではない。そして河原を愛してくれるかもしれない魂をもった生きた人間なのだ。河原はその実感を得たのである。
妻である演技をやめさせる。それは命じてやるものではない、彼女が自覚しなければならないことだ。妻という役割を演じているから河原を愛しているのではない。そんな愛が、私と春代の間には生まれるべきだ。河原はそう思い、そう信じて、古沢に話を持ちかけたのである。
食事中に、電話が鳴った。交換手が機械になり、夜でも電話をかけられるようになったのはつい最近のことである。
河原は立ち上がろうとする妻を制して、電話に急ぐ。
「河原か、俺だ」
交換手の声のない、いきなり相手の出る電話は趣にかけると感じる。
「待っていたよ。古沢」
妻に聞こえないように、河原は声をひそめる。
「今赤坂にいるんだ。今からこれるか?」
「別に大丈夫だが、こんな時間にかい?」
「まだ電車だって動いているんだぜ。なければ車だってつかまるだろう。それに河原、君はこれから毎日出歩かなきゃいけないんだ、予行演習だな」
「なんだい、予行演習というのは」
「まあ、そんな細かい話はあとだ。とにかく来いよ、待ってるから、赤坂の『エルドラド』だ。」
電車からおりて、古沢の指定した店を探す。にぎやかな夜の街だ。学生時代は友達につれられて出てみたが、河原は誘われなければいかなかったし、その記憶も今は遠くなっている。
夜の街に出ていくことを考えて洋服にはしてみたのだが、華やかなネオンと、どこからか流れてくる音楽、派手な洋服を来た女、赤ら顔で出歩く人々、決して表通りには出ない、路地裏でうずくまり、通りを見る浮浪者。閉じてしまった商店との奇妙なコントラストの下で見るそういった街の夜の住民からは、河原は自分が浮いてしまっていることを自覚する。ここは祭りの場だ。毎日繰り返す、倦んだ興奮のある終わりのない祭り。そういった無気力な夜の華やかさの空気は河原を落ち着かない気持ちにさせる。
エルドラドはすぐに見つかった。昼は食堂をしているらしいダンス・ホールだ。
「お一人ですか?」
タキシードに蝶ネクタイで、油でぴっちりと髪を撫で付けたボーイが怪訝そうに聞いてくる。
「ああ、そうだが」
わざと横柄に河原は答える。どこか探るようなボーイの視線に気が付かないふりをして、金を払い、チケットを手にする。別に女性同伴で来なければならないという規則は、ダンスホールには、ない。下心を探るような視線を浴びるいわれはないのだ。
ドアを開けるとどっとジャズのメロディーがあふれる。華やかで安っぽく飾りたてられたホールに、十組ほどの男女が踊っている。右の奥のほうは舞台になっている。スポットライトを浴びて朗らかにトランペットを吹く外人は、楽団のなかでも浮き立って、主役のように見える。左の方は、反対に少し静かになっていて、テーブルが並んでいる。踊りに疲れた人や、見付けた相方と、この夜の計画を練るために、座って飲み物を飲みながら視線をちらちらとホールのほうへ向けている。
古沢が河原を見付けて近付いてくる。古沢は上着を脱いで、シャツの袖をまくり上げていた。額に薄く汗をかいている。
「古沢、踊っていたのか」
「ああ、ちょっとな。学生時代のようにはいかないけどな」
古沢は奥の席へ行く。歩いている間にボーイを呼び止めカクテルを注文する。
「古沢、私は酒はいらないよ」
「女の飲み物だ。酒のうちにははいらんさ」 奥とはいっても、店はそんなに広くない。話をするのには心持ち声をはらなくてはいけない。
「それで河原、君の話だが、その前に、君にプレゼントがあるんだ」
「プレゼント? なんだい」
「これなんだがね‥‥‥‥」
古沢は背広から木箱を出した。エナメル塗りの、筆箱を一回り小さくしたくらいの掛け金のかかった箱をテーブルのうえにおく。
古沢は、わざと焦らすようにゆっくりと箱を開けた。
「横浜にいったときについでに手に入れたんだ。ゾーリンゲンの逸品だぜ」
医療用のメスだ。古沢は手に取ってみせる。清冽な、銀の輝き。薄い、それでいて鋼の確かさを感じさせる刃は、刃物の持つ妖しい誘い、何でもいいから切ってみたいという気持ちを起こさせるものをもっている。
魅了されたような河原の目を意識しながら古沢は笑みを浮かべる。
「これが、あの切り裂き魔の使っている凶器だよ」
「ほ、本当かい!」
思わず河原は立ち上がり大きな声を出す。テーブルの男女たちから訝し気な視線を向けられて、あわてて座りなおす。周りの目を気にしながら押さえた声で古沢に耳打ちする。「そ、そんな、古沢、そんなことまで警察は掴んでいるのか。僕には分からないんだが、そんなものが持ち出せるのかい」
「こいつが凶器の本物ということはないよ。でも俺は、これと同じものを奴が使っていると踏んでいるんだ。河原、その、内緒話をしていますっていう態度は止せよ。もっと普通にすればいいんだ」
「でも、こんな話、あまり聞かれてうれしいというわけではないだろう」
「周りを見てみろよ」
河原は周りを見回す。退屈そうにグラスを傾けホールを見ているもの、固まって話しているもの。
「見てみろよ、河原」
古沢に促されてホールを見る。曲は速いテンポのものに代わっていた。ひとつだけ目立組がある。白人のカップルだ。周りの男女より頭ひとつ大きい肢体だけではなく、その大きく、なめらかな動き、女の広がるスカートさえもが、計算された奔放な秩序ともいえる調和をなしている。そこには、日本人の真似の出来ない、本物の空気があった。周りの男女は、鼻白みながらも、健気に対抗意識を燃やして頑張るのだが、それはただ、異国の人の舞の見事さを引立てるだけの役目しかはたさないのだった。
「餅は餅屋、やっぱりダンスは異国の文化なんだな。あの身長と、体のバランスがなければ、ドレスやタキシードさえ着こなせないんだ。俺達は気取って滑稽な猿真似をしているんだ」
古沢の声に、妻の仕草の幻が重なる。なるほど、春代は文化を持っているのか。その文化が、河原に目の前の外人を見る男女と同じような、劣等感と、決して満たされない憧れを感じさせている。
「おい、河原」
「あ、ああ」
古沢に呼ばれて、河原は我にかえる。
「地下の静かなレストランより、こんな騒々しいところの方が、俺達みたいな男二人で話すにはいいんだよ。男が集まるのはご婦人のところだ。そして群がる男目あてにさらにご婦人が追い掛ける。俺達にはだれも注意を向けやしない」
「なるほど、確かにそうだな」
「そこでだ‥‥‥‥」
古沢は、これだけはいつも手放さないカバンを取り出し、テーブルの上におく。しばらく河原の前でごそごそやってから、ひとつのノートを取り出した。
「河原、こいつは俺があの殺人鬼について調べたものだ。これを君に渡しておこう。犯行の時間は、十時から夜の午前二時くらいだと思われている。これから毎日外に出ろというのはそこからなんだ」
「毎日じゃなければ駄目かい」
「君の出てない日に奴が欲望をはたせば君にはアリバイが出来る。奥さんは君と奴を重ねることはないだろう」
「そうだな、それでは意味がない」
「君は黒一色の服に身を包み、目深にかぶった帽子の縁から世界を見つめて歩くんだ。懐にこのメスを入れてね」
「この夏の季節にかい」
「いちばん目撃された犯人像と思われる姿にに近いんだよ」
「‥‥‥‥しかし、こんな粋狂なことに、ここまで君が乗ってくれるなんて思わなかったよ」
「君の行動で、ひょっとして帝都の視線を欺き続ける犯人の尻尾でもつかめれば面白いと思ってね。まぁ真犯人が捕まるまったら、匿名で体験記でも書いてくれよ。その原稿料で、君がまたおごってくれればちゃらということにしようじゃないか」
「ありがとう」
河原は古沢の手を握る。
「どうだい、せっかく来たんだ。君もご婦人たちと踊ってみるかい」
「いや、ここは僕にはうるさすぎるよ。まだやっている店があるだろう。そこで君のノートを見させてもらうよ。妻のには見せられないノートだからね」
「そうか・・・・」
「古沢、本当にありがとう」
古沢は河原に背を向け、ホールの方へむかう。その唇から毒々しい呪咀が漏れていることを河原は気付かない。
「そうやってまた俺を使って、女を試しているがいい。人を試す危険というのを今度こそ知ればいいのさ。それが君のためというものだ。それでも気が付かないならば、君は馬鹿だ。まぁ面白い遊びだというのは認めるよ。あの時と同じようにね。それを真剣にやっているというのがたまらなく滑稽だがね」
3
目深にかぶった帽子から辺りを見回す。
夜の街は、昼よりも店の違いを映し出す。陽光というわけ隔てなく与えられる恩恵を失えば、店達はたちどころにその素顔を表すのだ。力を持つものは光り輝き、ないものはただ黒い穴と化す。広い通りでさえも、まるで夜光虫の漂う海のように、所々は光を発していても、全体は黒い闇が包んでいる。
初夏の完全には暖まりきれない、もどかしい温度の風が感じられる。
道を歩く人々は、暗がりを選んで歩く河原に気付きもせずに、あるものは赤ら顔で、あるものはうつむいて歩いていく。夜の繁華街を歩くものはどこかたがが外れている。
男にしなだれかかって大声で歌を歌っていた女の視線が陰に身をひそめて、夜の街を観察していた河原をとらえた。
「おや、まぁ‥‥‥‥」
男の着物の裾をひっぱって河原を指差す。「ねぇ、あんた。こんな季節に冬の格好をしている奴がいますよ」
「おいおい、そんな奴どこにいるんだ」
「そこの店の陰ですよ。ほら、こんな季節に真っ黒なマントに、真っ黒な帽子を被っているじゃあありませんか」
男も怪訝そうに河原を見る。
「おお、見えた。なんだあいつ、あんな格好で影に隠れてたっていやがるから気が付かなかった」
女は河原を横目で身ながら聞こえよがしに男に言う。
「さっきからああやって私達をじーっと暗がりから見つめてるんですよ。気味が悪いったらありゃしない」
男は酒臭いげっぷをひとつすると、着物の腕をまくり上げて河原に怒鳴る。
「おい、そこの野郎、何か用があるんなら、そこから出てきやがれ」
引き上げどきだった。闇のなかに、河原の色の白い口元がはっきりと笑みを浮かべ、そのまま路地の奥の方へ後ずさる。
「あんた、行こうよ、気味が悪いよ」
遠ざかる通りの方からかすかに女の声が聞こえた。
河原はそのまま歩くペースを早めて、二つほど通りをぬけてから後を振り向いた。あの男女は追い掛けては来なかった。思わず大きなため息が出た。安堵のため息だ。胸に手を当てると心臓が激しく高鳴っているのが分かる。悪戯の成功した子供の感じる高揚が河原を包んでいる。
河原が夜に街を徘徊するようになって、二週間がすぎていた。はじめの頃はおどおどと時間をつぶすために歩いていたが、だんだん悪戯を思いつくまでに大胆になっていた。夜の闇に紛れて立っていることに突然気付く人々の顔は面白かった。暗闇に立って人を驚かせるこの遊びは最初は偶然だったのだが、今では意図的にやっている。
夜の闇の中を獲物を求めてさまよっている。そんな幻想が河原を酔わせた。マントの下の手には、古沢からもらったメスを握り締められている。河原はこの新しい遊びに夢中になっていた。
ふと目を移すと、神田川があった。
瓦斯灯に照らされて女が一人物憂げに川を見つめていた。姿に見覚えがあった。たぶんいつもあそこで客をとっている娼婦だろう。河原は想像する。あの娼婦を橋のしたに誘う。これから買う前に川面を近くで見たいとか、とにかく橋の下の暗いところへ‥‥‥‥。娼婦を先に歩かせる。そしていちばん下にいったところで、女の顎を左手で押さえて上を向かせ、頚に一筋、メスを走らせるのだ。瓦斯灯に照らされる女の青白い肌には真っ赤な首飾りがとても似合うに違いない。
河原は闇のなか、橋の上で川面を見つめる娼婦を見ながらその光景を想像する。青白い光に照らされる女の姿と、川面に映る瓦斯灯の光が河原を魅了する。
もちろんそんなことは出来ないが‥‥‥‥。その思いが河原を無残な現実に突き落とす。河原は時計を見る。十一時だ。娼婦はもうすぐ今日の客引きをやめて帰るだろう。それを尾けてみるというのはどうだろう。どこまでも女に私はついていく。やがて我慢しきれなくなった女が私にむかって文句を言うために振り向く。その時に私は何食わぬ顔をして女を追いぬいてしまうのだ。娼婦はどんな顔をするだろう。
河原の唇に小さな笑みが浮かぶ。今の想いを実行するために、河原は橋に向かって歩きだす。
戸の開く音がする。夫が帰ってきたのだ。春代は布団を引き上げて顔を隠す。息を殺して、体を固くする。
部屋の扉が開いて、光が差し込む。夫が覗き込んでいるのだ。起きているのをばれないように小さく、規則的に寝息をたてる。扉が閉まり、部屋は再び夜の闇に包まれる。
春代は隠していた顔を天井に向ける。闇のなかに、ぼうっと白く電球のかさが見える。 夫が夜遅くに出歩くようになってから一ヵ月になる。帰りは決まって深夜になった。最初のうちは起きて待っていたのだが、夫の命令で先に眠るようにしている。もちろん眠れるはずもない。だからこうして夫が帰ってくると眠ったふりをするのだ。
敬太郎さん。春代は河原のことをそう呼んでいた。横を向けば河原のために敷いた布団がある。今日も夫はここでは寝ないつもりだろう。寝床に入る河原に春代は声を掛けたことがあり、河原は自分が春代を起こしてしまったのだと思ったのだろう。今では週の半分以上は自分の部屋で寝る。そのために春代は河原の部屋と寝室にそれぞれ布団を敷くようになった。
夫が変わりはじめている。あの日、電話が鳴った日に外に出てからだ。しかし春代には確信はない。夫は変わったのだろうか。分からない。春代は結婚をする前、四ヵ月前の河原を全く知らないのだ。もとに戻っただけかもしれない。
しかし、なにか異常なことをしているのだろうかという疑問が残る。
最近、夫の言動に何かはっきりとは言えない不安を感じるのだ。事実、証拠らしき物を春代は見付けたのだった。二週間前、布団を畳んでいた春代は押入の天井板が外れていたのを見付けた。直そうと天井裏に手をのばした時‥‥‥‥。
「痛っ」
指先に痛みが走って、あわてて手を引っ込めた。中指の先に傷が出来ている。見る見る血玉は大きくなって、指を伝って畳に落ちた。あわてて台所にいって傷口を洗い、傷口に口をつけて、吸う。傷口は思ったより大きいらしい、血がとまらない。それでもしばらくすると血はとまった。救急箱から消毒液をだす。脱脂綿にしみ込ませて傷口を拭うと白い泡がたつ。その後にガーゼをかぶせて上から包帯を巻いた。
懐中電灯をもってきて、天井裏をのぞいた。きらりと光を反射するものがある。春代はゆっくりとそれに手ぬぐいを巻いた手をのばし、取った。
メスだ。医者の使う専門的なものだ。日の光の下で見るそれは鮮やかな銀色に光っている。少し触れただけで指を傷つけたところから考えてもとても良く切れるに違いない。しかし、なぜ夫がこんなものを持っているんだろう。天井裏にはもう一つ、奇妙なものがあった。ノートだ。使い込まれた感じのするノート。あまり埃は積もっていない。春代はそれを天井裏から出して開いてみる。
新聞や雑誌から切り抜いた記事を貼りつけたスクラップブックだ。
あの事件だ。このノートに載っているのはすべて、噂に上ることも多い通り魔連続殺人に関する記事だ。異常とも思えるのは、そのノートの情報量だった。こんなに雑誌や新聞があったのかと思うほどにさまざまな雑誌、新聞記事を貼りつけてある。どんな些細なものまでもらさないようにしているのが良く分かる貼り方と、量だった。
ページに折り目がついているところがある。何度も見返した跡があるのだ。
殺人鬼の予想される犯人像というものだった。印刷も紙の質も悪い、いかがわしい雑誌から切り取った記事だ。
春代は自分の心臓の鼓動が大きくなっていくのが分かる。鍔広の黒い大きな帽子、黒いコート。絵に書かれた姿は夜出歩く夫そのままなのだ。不安が胸を締め付ける。思わず和服の衿を手でつかんでしまう。春代はほかにも色々な記事を読む。犯行時間、凶器。赤い丸が付いている記事があるのに気が付く。春代も会ったことのある夫の友人の古沢の書いた記事だ。
古沢の主張は犯人は単純な殺人鬼というわけではなく、普段はそんな言動は完全に隠し通すことの出来る、狡猾な異常者だということだった。それでも不安は軽いものだった。それが深刻になったのはその日の夜のことだったのだ。
夜、いつものように玄関に出迎えた春代の指に、包帯が巻かれている事に河原が気付いて声をかけた。
「春代、どうしたんだい、その指は?」
春代はわずかにためらった。
「‥‥‥‥ちょっと、切ってしまって」
「大丈夫かい? 包丁ででも切ったのかい」
「いえ‥‥‥‥」
春代は口篭もる。
服をかえるために河原は自分の部屋にいく。そこで河原は押入の天井板が直っている事を確認した。
食事時、二人はいつも以上に言葉が少なかった。春代は何かを言おうとし、河原はそれを待っていた。しかし何も聞けず、何も言わず食事は終わった。
そしていつもの夜と同じように、河原は外へ出歩いていった。
春代は家のなか、一人自問する。なぜ言えなかったのだろう。河原に指の傷を問われたとき、瞬間的に事実を隠さなければいけないと判断したのだ。春代は見たのだ。その時の河原の目を。春代を探る目、結果を待ち望む、期待にあふれた、暗い目。
夫はなぜ私をそんな目で見たのだろう。それを考えた瞬間、事実は言えなくなった。夫は何かを隠しているのだ。そしてそれは私に関係してくるものだ。
夫に外に出ることの意味を問うことも、止めることも春代には出来なかった。口に出せない疑問は日が経つにつれ春代の胸のなかであふれ、心を圧迫していく。春代はそれを消すことも、転嫁することも出来ずに眠れぬ夜をすごしつづけている。
4
電車の窓からは徐々に建物の数が減り、緑が多くなっていった。汽車の窓からは見慣れた光景だが、河原はこんな郊外まで電車が走っていることを初めて実感した。いつのまにか街灯の姿が消え、道が狭くなっていく。
野方村に着く。河原は電車を降りる。他に降りる人もいない。残暑が厳しい。河原は手拭を取り出し首筋を拭う。
休日、河原は一人で郊外の野方村に訪れた。河原は風呂敷包みを持っている。中にはスコップとメス、そして古着屋で買ったコートが入っている。何度もためらい、考えた計画を実行するためだった。河原には大量の血がしみ込んだコートが必要だった。妻の疑いにより真実味を与えるための道具だ。妻は疑いはじめている。河原が夜、何をしているのかを気に病んでいる。それをこれで決定付けるのだ。この後妻にだけ告白し、すべては完結する。
私達は完成するのだ。夫婦として。お互いに離れられない相方として。
その想いが、萎えそうになる気持ちを引き締める。河原は道を聞き、鳥を売っている農家を探す。
竹垣に囲まれたわりと大きな庭を持つ家だった。奥に鳥の檻があると見えてかすかに鳴き声が聞こえる。入り口で声をかけると野良着の老人が出てきた。
「なんでしょう、卵ですか」
「鶏をもらいたいんだが」
「腿なら三つ程ありますが、それ以上になると一匹丸ごと買っていただくということになりますがね」
「ああ、一匹ほしいんだ」
そう河原が言うと老人はうなずいた。
「分かりました、ちょっとついてきてもらえますか。選んで下せえ」
老人は出てきた扉をくぐり奥へ行く。河原もそれにつづく。
柵をしてある中に七八匹の鶏がいる。のんびりと歩き回りときどき地面に嘴を立て餌をついばんでいる。鶏独特の何とも言えない匂いがしている。
「どれにしますかね」
河原は柵の中を見回す。隅の方に一匹だけ下を向いて座っている鳥を見付ける。羽の色にも艶がない、見るからに元気のない鳥だ。「あれだ、あの隅の奴にしてくれ」
「はぁ、でもあいつはあんまり肉もないですよ。まぁあれでいいとおっしゃるなら、すぐに絞めましょう」
「殺さないでいい。家で料理するから生きたままもっていく」
老人は胡乱な目で河原を見る。河原は気が付かないふりをする。食べるわけではなく殺すためには元気のない奴の方が都合がいい。それを老人に説明する必要はない。
老人が柵の中に入ると、驚いて鶏達が散る。鶏の羽が舞う。老人が近付いても、あの元気のない鳥だけはその場を動かず、そのまま老人の手のなかに納まる。
「ちょっと待ってて下せえ」
老人は鶏を抱えたまま扉をくぐる。しばらく待っていると一声だけ大きな鶏の声が聞こえた。
不安が跳ね上がる。老人が鶏を殺してしまったのではないだろうか。河原が扉の向こうを覗こうと脚を踏みだしたときに、老人が扉から出てくる。
風呂敷包みを下げている。その中に鶏がいるのだろう。河原は料金を払い、その家を出る。
畔道をあるいてまわりを見回す。鶏を殺してその血をコートに染み込ませるのだ。
田圃が広がっている。夏の空だ。蝉の声でまるで木々が鳴いているようだ。田圃の色は緑から黄金色へと色を変えようとしている。遠くには山が見える。美しい空の青と山の緑、入道雲の白の色にしばし河原は我を忘れて見入る。
もぞりと風呂敷が動く。気味の悪さに思わず離してしまい、風呂敷包みが地面に当たると鶏が弱々しく鳴き声をあげた。あわてて河原は拾い上げる。通り掛かった農夫がじろじろと河原を胡散臭げな目で見る。和服を着て来たが、銀縁のつるの細い眼鏡をかけた青白い都会的な顔立ちの河原は、ここでは十分注意を引く面相だ。人に見られないところで早めに終わらせなければならない。
しばらく歩いて小高い丘にある一本の大きな杉の木を見付ける。あの下でやろう。人も見当らない。
杉の木の下につく。思ったよりも大きい。河原は木を見上げる。陽を遮って高くそびえている。
河原は心を決める。コートを取り出して、鶏を包む。鶏は抵抗をしない。鶏の呼吸にあわせてコートが緩く動いている。
河原はメスを握り締める。振り上げて、ためらう。
唾を飲み込む。やらなければならない。河原は目をつぶり一気にメスをコートの丸い膨らみにふり下ろす。
「グエェェーッ」
突然コートが激しく動く。コートの中から鶏の足がつきだされ、左手の甲を激しく引っ掻いた。鋭い痛みが走って河原は手を引っ込める。左手の傷口を押さえた手の間から血がしたたり落ちる。河原は傷を押さえた手を見る。手のひらに河原の血がべったりとついている。
「うわぁっ」
河原は息を大きく吸い込む。心に怒りが沸き上がる。突きささったまま激しく動き続けるメスの柄を両手で握り引き抜くと、コートにふり下ろす。柔らかな肉を突き刺す感触。刃が肉を切り、細い骨が鋭いメスで切り裂かれ、砕かれる感触が河原の手を伝う。河原はその感触に酔う。再び、メスを両手で振り上げ、コートの膨らみにふり下ろす。何度も、何度も。
ザクッ
ザクッ
ザクッ
ザクッ
ザクッ
ザクッ
ザクッ
ザクッ
膨らみの動きがなくなる。染み出した血がコートの表面からあふれ草に飛び散る。コートは何度も突き刺したメスで沢山の穴が開いている。そこから鶏の白い羽が見える。
河原は慌ててそれから目を反らす。荒くなった呼吸を落ち着ける。
出来るだけコートの方を見ないようにスコップで穴を掘り、顔を遠ざけてコートを持ち上げる。目の隅でコートを探り合わせ目を両手で持つ。穴の縁に立ち、コートを振る。
ドサッ
穴の底に死体が落ちる感覚。埋めようとしてスコップを探した河原の視野に死体が入ってしまう。
ちぎれた足、はみ出た内蔵、散らばった羽毛、ねじくれた首の先の虚ろな目が恨みをこめて河原を見上げていた。
「ひいいぃっ」
河原は引きつれた恐怖の悲鳴を上げた。河原の自制心は簡単に限界を超えた。焦点の合わない目で目の前にあるものを掻き集めて後もふりかえらず逃げ出した。
ようやく気が落ち着いて、まわりの様子を見回せるようになったのは河原の乗った電車がどこどこについてからだった。河原が降りるまで後、四駅ほどだ。
吊り革につかまって河原は車内を見る。空いている座席はないが立っている人間は河原を含めて六、七人ほどの込み具合だ。
夕暮が近い。街の影が濃く、長くなりはじめる。夕焼け空に影絵のように浮かぶ煙突も、休日の今日は煙を吐いていなかった。
「‥‥‥‥それでね、お母さん。あの犯人は今も物陰から獲物を狙っているに違いないって小酒井不木先生がおっしゃっているんだよ。この雑誌のなかで」
河原の立っている所のちょうど反対側の座席の少年の甲高い声が、ふと河原の耳に入った。河原は振り向く。真新しい学制服をきた子供だ。十二、三歳だろう。よそ行きの和服をきた品のいい婦人、母親と思われる女性にしきりと雑誌を見せながら興奮した調子で話し掛けている。表紙に見覚えがある、「探偵趣味」だ。
「伸雄さん、そんな大きな声を出さなくったって聞こえますよ。それにまたお父さまの本を勝手に持ち出して、それは大人の本なんですよ。あなたにはまだ早すぎます」
「くれたんだ。本当だよ」
少年は口を尖らせる。聡明そうで、生意気そうな表情。子供には難しすぎる「探偵趣味」のような雑誌を読んでいそうな、ませた表情だ。少年はなおも母の気を引こうと雑誌のページを何度も指差す。
「この前の事件からもう五ヵ月もたつんだ。もしかしたら昨日新たな被害者が出ているかもしれないんだ」
「そんな物騒な事言うもんじゃありません。きっともうすぐ捕まりますよ」
「帝大医学部卒業の小酒井先生がおっしゃっているんだよ。小酒井先生はこの犯人をモデルに『疑問の黒枠』をお書きになって、具体的な犯人像を掴まれたんだ。その先生が、『従来の捜査方法では犯人は見つからないに違いない、海外の先進国のような科学捜査を取り入れなければ不可能だ』って」
河原はひそかに笑みを浮かべる。少年の得意そうな口調が微笑ましい。自分の興味があることを大人の口調で語るために一生懸命覚えた時代。優越感と、暗い秘密を覗きこむ背徳感。河原の共感を呼ぶ景色だった。もっとも少年とは違い、情報を得る対象は父親ではなく、年の離れた兄だったが。学のない母が困惑しつつも、誇らしげな色をたたえて河原の話を聞いてくれるのは彼の大きな喜びだった。小酒井不木の”疑問の黒枠”か、今度読んでみよう。
「ああっ!」
突然上げられた少年の叫び声に河原の回想は破られる。車内の人々が一瞬動きを止める。それほどの大きな声だった。河原は少年を見る。少年の目ははりさけんばかりに大きく見開かれ、一つのものを見つめていた。河原は、そして車内の何人かの人々が少年の視線をたどる。少年の視線は河原の左手に握られているものに注がれていた。コートを包んだ風呂敷に。
「血だ! 血が流れだしている!」
震える指で河原の風呂敷を指差し、大声で少年が叫んだ。車内の全ての人が見た。河原の風呂敷包みの下に、小さな血溜りが出来ているのを。多すぎる鶏の血を吸った河原のコートから血が染みだし風呂敷でさえも受けとめきれずに床に血溜りをつくっているのだ。 河原は反射的に風呂敷包みを抱え上げる。包みの底にあてた左手の平に、ぐっしょりと湿った感触がある。
「きゃあっ」
隣の婦人が悲鳴を上げて河原から飛びすさる。河原は自分の服を見る。風呂敷を抱え上げたときに染み出した血が、河原の服の左側を真っ赤に染めてしまっている。
「何だあれは?」
「血だ」
「真っ赤だ」
「血だよ」
「あんなに一杯の血が」
「気持ち悪い」
今や車内の人々が河原を見ている。好奇と恐怖と嫌疑の視線が河原に集中する。河原の歯ががちがちと音をたてる。河原は小さく首を振り続ける。河原の全身は瘧のように震えだす。力が萎えそうになる。立っていられない。手の力が抜けて風呂敷が床に落ちる。湿った音が響く。
風呂敷の結び目が解かれて、中身が外に出る。血塗れのコートと、血塗れのメスが。メスの刃が、夕日の光を受けて美しい光を放った。少年がそれを指差して叫んだ。それは天上の喇叭のように大きく、はっきりと車内に響き渡った。
「メスとコートだ! 雑誌に書いてあった通りだ! 通り魔殺人事件の、真犯人だよ!」 電車が止まる。河原はドアを開け、逃げ出す。背後でたくさんの人の動く気配。
「逃げ出したぞ!」
河原を追いかけて何人かの人が車内から駆け出してくる。
どうしてそんなことを叫ばれなければならないのか。どうして追い掛けられなければならないのか。逃げる河原の心に苛立ちが浮かぶ。しかし言い訳が出来ない状況と、空気だった。血塗れのコートを持ち歩いていたのだ。抜き身のメスを持ち歩いていたのだ。
「待て!」
さっきよりも声が近くなっているような気がする。前を歩いている通行人を押し退けて、河原は走る。
「人殺しだーっ!」
追跡者から、最悪の声があがる。通行人が悲鳴を上げる。血に染まった衣服を着て走り続ける河原の周りの人が慌てて逃げ出す。距離を置いて野次馬たちが河原を取り囲む。
何人かの屈強そうな男たちがそこから飛びだす。
「く、来るなっ!」
河原の威嚇の叫びは震えていた。四、五人の男たちはぎらぎらする目で河原を睨み、一斉に襲いかかってきた。腕をねじ上げられ、顎に強烈な拳をくらった。地面に押し倒され、薄れていく視界のなかで、河原は官警の制服が人垣を割って近付いてくるのを見た。
5
警察の取り調べ室で河原は全てを正直に話した。そうしなければ真犯人にされてしまう。その恐怖が河原に恥も外聞も捨てさせた。泣き叫び、哀願し、怒鳴って、這いつくばった。連絡先は実家にした。妻の待っている家のことは伝えられなかった。河原は留置所に入れられ不安な夜を過ごし、眠れぬまま朝を迎えた。
次の日の昼、すぐ上の兄が迎えにきて釈放が決まったとき彼は信じられなかった。横にいる官警は河原を馬鹿にしたような目でをむけ、兄は河原を蔑げずみきっていた。
檻の中から問い掛けの目を向ける弟の前に、兄は新聞を叩きつけた。
「敬太郎、それを見てみろ。おまえは家の面汚しだ。もっともそれのお陰でお前はここから出られることになったんだ。いい友達をもったな、お前は」
憎々しげな兄の皮肉を聞きながら河原は突き付けられたその記事を読む。
『重工業界ノ御曹司ノ奇行』と、見出しにある。河原は記事を読むうちに怒りのあまり、手が震えだし記事を読めなくなってきた。目の前が暗くなるような絶望と怒り。河原が古沢とともに考え、実行してきた計画の推移全てがここに暴露されていた。誤解されて、警察に捕まるところまで。『カ弱キ婦人ヲ験シタ罰ハカクモ哀レナ結末ヲ以テ己レ自身ニ還リタリ』賢しげな文章でしめくくられていた。
河原は新聞を破り捨てた。怒りと悔しさで涙が出てきた。
「敬太郎、古沢君に感謝するんだな。その記事と古沢君の証言のお陰でお前はいったん容疑者から外れることが出来たんだ。しかし、お前はいったい何をやっているんだ? 全く、親父は怒りのあまり卒倒するところだったんだ。ともかく実家の方まで来い。一族集めて話がある」
「は、春代は?」
思わず反射的に河原は聞き返す。
「あの女はお前の家にいるように言ってある。身内の恥をさらす必要もない。敬太郎、覚悟しておけよ」
家では伯父や、伯母、他沢山の親類縁者が小言を言おうと待ち受けていた。しかし、彼らの望みははたせなかった。車から下りた河原をいきなり父親が持っていたステッキで昏倒させてしまったのだ。老いたとはいえ一代で一工場から系列会社を多く持つ大会社にした男の腕力の前には、河原はひとたまりもなかった。そんな訳で大騒ぎになり、医者の診
察も、親戚たちが慌ただしく帰るのも、河原はベッドの上で何も知らない間にすんでしまったのであった。
目が覚めると頭が強く痛んだ。瘤になっている。河原は頭に当てられた包帯を触る。結婚するまでいた自分の部屋だ。体を起こしてベッドに腰掛ける。頭に鈍い痛みが走る。
ためらいがちのノックが聞こえた。
「誰だい?」
「あの、敬太郎さま、お電話が」
女中頭の文の声だ。
「文、悪いが今は電話に出たくない、まだ寝ていると言ってくれないか」
「それが、古沢さまからなんです」
「何だと」
反射的に叫んで頭痛にうめく。河原は頭を抱えながらも起き上がり、ドアへ大股に近寄る。目には暗い怒りの色を湛えて。
「文、分かった。すぐに行く」
ドアを空け、電話の所にいく。電話にむかってわめく。
「古沢っ!」
受話器の向こうで古沢がひるむのを想像して、河原は一気に捲くしたてた。
「君は私を裏切ったな。信じていた私に恥をかかせたな。この報いはきっと受けさせてやる。君とはもう絶交だ。きっと後悔させてやるからな!」
一気に言い切り、息を大きく吸い込む。古沢の声が受話器の向こうから聞こえる。
「河原、哀れな男だな、君は。まだ気付かないのか。まだ分からないのか。君がどれだけ恥ずかしい事を考え、実行していたのかを悟らないのか」
「うるさいっ」
古沢の声が冷笑の響きを帯びているのに河原は激昂する。言葉も出ずに怒りのあまり呼吸さえ圧迫される。
「河原、それなら俺が言ってやろう。君はもしこの計画が最後まで行ったらどうなっていたか考えていたか。理想の夫婦になれる? 冗談じゃない。君は満足だろう。形だけでなく、確固たる事実として奥さんを束縛し、隷属させることが出来るのだから」
「隷属?」
思わず河原の口から強い口調が失せる。
「君は本当に馬鹿だな。自分が本当は何を望んでいたのか、考えてもいなかったのか。春代さんは君には逆らえないんだ。逆らえば文字通り命がない。彼女だけならどうにかなるかもしれない。しかし零落しながらも誇りだけは一人前の池内家は首を括るしかないんだ。彼女はたとえ君が狂人であっても従わなくてはならないんだ。君がどんな人間でも関係ない。君はそれが不満だったんだろう? 同時に不安だったんだ。本当にそうかどうか、どうしても確かめたかった。違うのか?」
「ち、違う」
反射的に河原は叫んでいる。しかし、心の動揺が河原の言葉を裏切っている。
「違わないさ。本当に春代さんが君に逆らわないか、どうしても験してみたかった。あの時と同じだ。学生時代、カフェの女給に恋を語ったときと同じだ」
「彼女の話は関係ないだろう!」
「そんなことはないさ。君はあの時、彼女に言ったな。『僕が家を捨てても、ついて来てくれるかい?』結果、彼女は身を引いた。君は彼女が君の家にはどれだけふさわしくないかを確認させたのち、君のことをどれだけ想っているかを験したんだ。彼女はこの街からも身を引いた。お前の将来を想ってだ。傷ついているような態度をとっているが君は安堵しているに違いない。君の現状を見れば分かるさ。君が本気なら彼女を追い掛けたはずだ。家を捨ててね。でも今の君はどうだ。彼女は賢明だったんだ。家を捨てたら君には生活能力が皆無なことを知っていたのかもしれない」
反論できないのが悔しい。古沢の言葉は河原の胸に鋭く突きささる。その痛みが古沢の言葉を真実だと告げている。
「河原、君は常にそうだ。自分ではなく、人に問い掛ける。そして自分でそれに気付かない。それは罪悪だよ。正直、国見堂での相談で僕は呆れたよ。君は全然懲りてない。春代さんは君の想像どおり、君には逆らえないに違いない。春代さんは犯罪者を匿う事により、世間からも背くことになるのだ。君はそれを望んだんだ。春代さんが絶対に逃げられないことを自ら確認させるために、君はこの計画を練ったんだ」
「違う、そんなことは‥‥‥‥ない」
「君は常にリスクを負わない範囲で抵抗をするふりをするんだ。あの滑稽な家のようにね。予想したとおり、僕の道化芝居の計画に君は喜んで食い付いた。お陰であの記事は大変好評を頂いたよ。うちの出資社は君の所の対抗なんでね。相手会社の醜聞ほど嬉しい事はない」
「君だって卑劣漢じゃないか! 私を利用して‥‥‥‥」
わずかに勢いを盛り返して河原は言う。
「素直にそれを認めるところで君よりは勝っているのさ。正直、ここで計画が終わってしまったのを俺は少し悔やんでいるのだよ。俺の良心は別としてね。君がどこまでおかしくなっていくのかを見てみたかったんだが、君は本当に馬鹿だ。あんなどじを踏んで君の計画は中断を余儀なくされてしまった。もうこの遊びが出来ないんだったら、友達がいに一つ目を覚まさせてやろうと思ってね、俺もつくづくお人好しだ。まあ、国見堂のお返しだとでも思ってくれ」
河原は完全にうちのめされ、声を出すことも出来なかった。電話は切れていた。河原は受話器を耳に当てたまま馬鹿のように突っ立っていた。
次の日の朝早く、河原は実家を追い出された。長兄の提案で、父親と顔を会わせる前に屋敷から出させたのである。三日ほどは会社にも出ないようにと兄に念を押された。河原にはうなずく以外、選択肢はなかった。
6
何も出来ぬまま河原は電車に揺られ続けていた。終点については折り返し、気が向いたところで乗り換える。
家に帰りたくなかった。
だからといって汽車に乗り、行方をくらます勇気は河原にはないのだった。
気が付くと電車を降り、家への道をたどっていた。実家を出るとき低かった太陽は今や真上をすぎ、うだるような午後の日差しをもたらしていた。蝉の鳴き声がうるさかった。 自分が家へ帰ろうとしているのを認識したとき、河原は瞬間的に引き返そうと考えた。春代に会うのが恐かった。古沢に指摘された自分の本心に気がついた今、春代には謝らなければならなかった。しかし、春代をだます計画がばれたのだ。どんな軽蔑の思いをもっているだろう。そんな状況をこの目で見たくなかった。
春代を遠目で見て、出来ることならこの街から出よう。突然心に強い勢いでこの思いが浮かんだ。とにかくここから逃げ出してしまおう。
不意に踏ん切りがついた。一目見て、汽車に乗ろう。春代に会うより勇気のいらないことだ。自嘲して河原はそう思った。古沢に言われたとおり、私は常に危険を最小限しか負わない男だ。そう開き直ると、気力が出てくる。
自分の家の大業な白壁が見えてきた。隠れて家の中を覗くのに、立派すぎる塀は好都合だった。門は開いていた。河原は門の近くに立って、体を隠し、頭だけを中に入れた。
草を掻き分ける音が聞こえた。草のなかに、紺色の布地が動くのが見えた。
春代が草を刈っていた。左手で丈の長い草を持って根の方を鎌で伐っている。麦藁帽子をかぶって、着物の端を端折って草を刈っていた。
河原は驚いた。妻のそんな姿を見るのは初めてだった。妻が野良仕事のような真似をするのをはじめてみたのだ。もちろん河原はそんなことをしたことがなかった。下男の仕事を自分の妻がやっているのが信じられなかった。
自分は知らなかった。春代がそんな野良仕事をやるような女だというのを見せなかったのだろうか。いや、見なかったのだ。春代の仕草に違和感はなかった。それは日常の春代の姿だったのだ。汗に光る白い肌。かすかに春代の鼻歌が聞こえた。ラジオで人気のある流行歌だった。幻想を打ち砕かれる喪失感はなかった。いつしか自分が微笑みを浮かべていることに河原は気付かなかった。関係ないのだ。どんな一面を持っていようと、物足りなかろうと、所詮人を理解するなど不可能だ。好きだという気持ちがあれば、それは全て好意的に変化する。
春代が好きだったのだ。だからこそ自分の物になって欲しかった。だからこそ、確かめたかったのだ。
河原は茫然と門の所に突っ立って、春代を見つめ続けた。いつのまにか体が門の外に出ていることにも気付かなかった。
春代が麦藁帽子を脱いで、立ち上がって汗を拭った。何気なく向けた視線の先に、茫然と立つ河原の姿があった。
二人の目があった。
河原はくるりと後を振り向き、夢中で逃げ出した。
「待って!」
春代は思わず叫んでいた。内心の葛藤も、迷いも、口に出した一言で消し飛んでいた。今は夫を追い掛けなければならなかった。自分の都合や、後の事は思いつかなかった。今はただあの人を引き止めなければならない。そう思った。
春代の必死の叫びが河原の耳に痛かった。後を振り返り、一生懸命走ってくる女の姿を見ると、逃げることは出来なくなった。春代は鎌を手に持ったまま走ってくる。恨まれているならそれでもいい。身が縮まりそうな恐怖を堪えて河原はそう思った。このまま鎌をふりおろされてもいい。しかし恐くて見続けることは出来なかった。謝る意志だけは伝えようと、河原は土下座をした。
春代の前でいきなり河原は地面に這いつくばった。春代は荒い息のまま言葉も出せずに河原を見下ろしていた。焦れた河原が叫ぶ。「許してくれ、春代。私はお前の心を玩んだ。許せないならいっそ、その鎌で私を殺してくれ」
春代は河原に言われるまで、自分が鎌を持ったままであることに気が付かなかった。まるでそれが蛇ででもあるかのように嫌悪の表情で放り捨てた。路地に乾いた音が響いた。「敬太郎さん、顔を、顔を上げてください」 切れ切れの息の中で、やっとそれだけを言った。
河原は動かない。
「顔を、上げてください」
もう一度春代は繰り返した。河原は地面に額をこすり付けたまま動かなかった。春代と目を合わせることが恐かった。
「顔を上げてくださいよ!」
春代はしゃがみこんで河原のかたをゆさぶった。
「頭を下げただけで、全てすまそうとなさるんですか? そうしていれば、私が堪えると思うんですか。私だけがどうしてあなたのそんな姿を見なきゃいけないんですか。答えてください。弱い姿を見せて、同情させて、謝って、それですんでしまうんですか」
泣きながら春代は河原をゆさぶり続ける。男が春代の前で土下座をしたのはこれで二度目だった。結婚式の日、いつもは尊大だった父親がいきなり春代の前で膝をついたのだ。その時に叫べなかった言葉が今ようやく彼女の口から迸っていた。
河原は顔を上げねばならなかった。今上げなければ一生上げられないだろう。やっと本当のことを言ってくれた春代のためにも、これだけはしなければならなかった
「春代、すまなかった」
妻の目を見て、それだけを言った。
二人はそのまま道の真ん中で座り込んで泣き続けた。通行人が奇異の目を向けるのも、気が付かなかった。
完
帰宅 @Lian56
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