Ⅲ.水曜日のフレンチトースト

 霧雨きりさめは肌寒かった。

 新たな水曜日を迎えて、僕は今日もシャ・ノワールでボンゴレ・ロッソを巻き付けている。フォークに。そして今日もアイスティーの男は一番奥のテーブルで、アイスティーを溶かしている。先週言葉を交わしたこともあって、僕はいつもより彼が気になった。けれどこんな天気の日にアイスティーを頼む気にはならなかった。

 

 コロンコロン、とドアベルが鳴って「フレンチトーストおばあちゃん」がやって来た。フレンチトーストおばあちゃんは腰の曲がった品の良い八十代くらいの女性で、毎月第三水曜日にシャ・ノワールを訪れる。僕にとっての「水曜日のカフェ」はおばあちゃんにとっての「第三水曜日のカフェ」なのだろう。

 

 おばあちゃんのテーブルはいつも真ん中、つまりドア側の僕と一番奥のアイスティーの男の間だ。おばあちゃんは「いらっしゃいませ」の声とともにフロアに出てきたオーナーによっていつもの席に案内された。


「フレンチトーストをみっつ」


 この店の常連客はまったくこだわりが強いものだ、と、ボンゴレ・ロッソを噛みながらおかしくなった。するとアイスティーの男は僕のことを「ボンゴレのオジサン」とか「スパゲティオジサン」とか呼んでいるかもしれない。


 僕たちは四人掛けのテーブルにそれぞれ一人ずつ座って空間を共有している。みんなお一人様だがおしゃべりすることはほとんどない。店内には穏やかなオルゴール曲が流れ、今は厨房でオーナーがフレンチトーストを焼く音がほんのかすかに聞こえている。


「お待たせいたしました」


 フレンチトーストが焼きあがると、オーナーは皿を三枚器用に両手に乗せて運んできて、おばあちゃんの前に一つ、そしてその真向いの席と斜め向かいの席に一つずつ配膳した。バターとメープルシロップの香りが店内に漂う。今日はパンケーキをやめて、フレンチトーストにしようかと心が揺れた。


 フレンチトーストはシャ・ノワールの人気メニューだ。外はカリカリ中はとろとろのバケットに生クリームとバニラアイスが添えられて、それをココアパウダーでスタンプされた黒猫が行儀よくお座りして見守っている。

 僕の視線がおばあちゃんのフレンチトーストに奪われるのはいつものことだが、アイスティーの男までもが珍しく他人のテーブルをのぞき込んでいた。


 先月おばあちゃんはアイスティーの男が帰ったあとにやって来たから、おそらく彼にとって初めての「フレンチトーストみっつ」なのだろう。

 おばあちゃんは毎月第三水曜日に来店してフレンチトーストをみっつ注文する。そして自分が一つを食べ、残る二つは向かいの席の「夫」とその隣の席の「たかし」のものだった。「あなた、おいしい?」「たかし、アイスもっとあげようね」おばあちゃんはいつもそんな風に、誰もいない椅子に向かって語り掛けながら穏やかに家族の団らんを楽しむのだ。


「……」


 おばあちゃんはいつものようにニコニコしながら、しかし、じっとテーブルの上のフレンチトーストを見つめていた。いつもと少し様子がちがう。彼女はちょっとまぶしそうに目をすがめて、


「ねえ」


 と、僕の方を見た。おばあちゃんとはここ半年ほど毎月顔を合わせているが、声を掛けられたのははじめてだ。


「一緒に召しあがらない?」


 おばあちゃんはゆっくりとアイスティーの男を振り返って「あなたも」と付け加えた。アイスティーの男が少し困った顔で僕を見た。僕は微笑みながら、ちょうど空になった皿にフォークとスプーンを置いた。

 

「お言葉に甘えて」


 僕が席を立つと、アイスティーの男はその様子をじっと見ていた。おいで、と手招きすると彼は困惑しながら、氷の溶けたアイスティーをたずさえて恐る恐る真ん中のテーブルにやって来た。

 どう考えても僕が「あなた」で彼が「たかし」だろう。僕はアイスティーの男を窓際に座らせて、おばあちゃんの向かいの席に着いた。


「紅茶はお好きですか」

「そうね」


 僕はちょっと手を上げて「紅茶をふたつ、ミルク付きで」と注文した。オーナーは「はーい」と返事して、紅茶の支度をはじめたようだった。


「アイスは好きかい、たかし」


 僕が問いかけると、アイスティーの男は更に困った顔をして、それでも「嫌いじゃない」と答えた。


「ふふ。アイスもっとあげようね」


 おばあちゃんは嬉しそうに自分のアイスをスプーンとフォークで上手に支えて、「たかし」の皿に移し替えた。そうこうしている間に、ティーポットとカップ、それからミルクが届いた。


「それじゃあ、いただきましょう」

「いただきます」

「……いただきます」


 カチャカチャとデザートナイフでフレンチトーストを切り分ける。まずはそのまま味わうのが順序というものだ。一口大に切ったカリカリでひたひたのバケットをフォークで口に運ぶ。優しくて甘くてとろりととろける。おしゃれで懐かしい日常がメープルシロップの香りともに僕をぐるぐるとりまいて、まるでいつかの知らない過去にタイムスリップした気持ちになった。


「おいしい?」


 おばあちゃんは「たかし」に聞いた。アイスティーの男は「うん」とぎこちなく答えた。


「ふふ。わたしね、こんな家族が欲しかったのよ。憧れていたの。ねえ、ミルクはどのくらい入れたら?」


 僕は「貸して」と小さなミルクポットを受け取って、透き通った紅茶に冷たい牛乳を注いだ。


「僕のミルクティーは世界で一番おいしいんだ」

「まあ、すてき」


 窓の外は相変わらず霧雨で、灰色の町はとても静かだった。僕たちはバターとメープルシロップの香りが満ちる取り残された時間の中で、穏やかにフレンチトーストを楽しんだ。もし誰か通りから店の中をのぞく人があったら、家族の団らんに見えたに違いない。


「ここはいいお店ね」


 おばあちゃんはいつものように五千円札で会計を済ませて、お釣りを受け取りながら言った。


「ここへ来ると、気持ちが晴れるわ」

「これ、よかったら」


 オーナーはレジに飾ってあったガーベラを一輪、花瓶から取って差し出した。おばあちゃんは嬉しそうに顔をくしゃくしゃにしてそれを受け取った。


「ありがとう。これで、さびしくないわ」


 おばあちゃんが出ていくと、残るは僕とアイスティーの男だけになった。彼はからになったグラスを神妙しんみょう面持おももちで眺めていた。


「先週来た女の子、泣きながらリゾットを食べていた。彼女『おなかいてたみたい』と言ってたよ」


 アイスティーの男は僕の方を見た。そしてもう使わないデザートスプーンをもてあそびながら「そうみたいだ」とつぶやいた。


「おかわり、どうぞ」


 オーナーがガラス製のサーバーを持って来て、空になったグラスにアールグレイを並々と注いだ。アイスティーの男はほっとしたように笑った。

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