Ⅱ.水曜日のトマトリゾット
ディナータイムは退屈だ。
僕の水曜日は
そろそろ君は一つの疑問を思い浮かべている頃じゃないだろうか。メニューはほとんどイタリアンなのに、どうしてシャ・ノワールなんだろう。そして僕はその質問に「だから、シャンゼリゼの野良猫で、小綺麗な日常なんだよ」と答えるのを待っていたんだ。君だって、便座は洋式を使ってもあいさつ代わりにキスはしないし、玄関で靴を脱ぐじゃないか。ほらね、綺麗に割り切れるものは意外とあまり現実じゃないのだ。
僕の前に前菜が運ばれてきたのは、いつもと同じ二十時頃だった。
オーナーは構わずに彼女を奥のテーブルに案内し、彼女は大人しく席についた。きょろきょろと店内を見まわす様子を見ても初めての来店だろうに、彼女は注文を迷わなかった。彼女はメニュー表を一瞬見てトマトリゾットをサラダセットでオーダーした。二十代か三十代かまだ若くて大人しそうな女性だが、並外れた決断力の持ち主らしい。それとも僕と同じように水曜日のメニューを決めているのだろうか、と思ったら、少し興味がわいた。
程なくしてサラダが到着すると、彼女は乱暴にフォークを突き立てて歯切れのよいレタスをバリバリ掻き込んだ。マイペースなオジサンとキャリアウーマン風の若い女の子はちょうど同じ頃に前菜を食べ終えた。
オーナーは片手に僕の白いリゾット、片手に彼女の赤いリゾットを乗せて僕の方から提供してくれた。オジサンファーストというわけではなく、僕の方が注文が早かったからだろう。
「温度を上げましょうか?」とオーナーが気遣うと女の子は「いいえ」と短く首を振った。
そして僕は小さなペッパーミルで
彼女はスプーンを乱暴につかんで、僕ならとても食べる気にならないタバスコリゾットに突っ込むと、一心不乱に掻き込み始めた。
時々ゲホゲホむせながら、真っ赤な顔で、彼女はトマトリゾットを
――なるほど。きっと、そうだ。
僕はぐちゃぐちゃの彼女の物語を考えながら、目配せしてオーナーを呼んだ。
「いつものを」
そう言って、僕は女の子を指さした。
僕がやっと半分食べる頃、彼女はトマトリゾットを綺麗に食べ終えた。殺人現場のような気迫はなりをひそめ、彼女は空になった皿をうつむいて見つめていた。
「どうぞ」
テーブルに置かれたティーカップに、彼女は顔を上げた。「頼んでいません」という表情に、オーナーは僕の方を見て、
「あちらのお客様からです」
と、少し嬉しそうに言った。僕は急に、照れくさいというより焦ってしまって、いや、でも、今日はアイロンをかけたシャツを着ているし、と
「これは私から」
「ありがとうございます……」
オーナーが小さなカップに盛り付けたアイスクリームをロイヤルミルクティーに並べる。タバスコの効果か、女の子の顔色はずいぶん良くなったようだ。彼女は穏やかに微笑むオーナーを見上げて、少し視線を落とし、また見上げて口を開こうとした。けれど僕に見られていることに気づいて、まずアイスクリームを食べることにしたらしい。僕はばつの悪い気分になりながら、残りのチーズリゾットを見つめることにした。
「あたし、おなか
ナッツとチョコレートソースがトッピングされたバニラアイスを一口食べて、彼女は美味しそうに笑った。もう一度スプーンを口に運んで、今度はポロリと泣いた。
「あたし、大好きなんです。ナッツと、チョコと、バニラ」
びしょ濡れの理由を訊くほど僕たちは
しかし、ナッツとチョコとバニラとは僕の出る幕ではなかったな。イケてないオジサンが気取ったことをしてしまった、とみすぼらしく冷めたチーズリゾットをつついていると、彼女が僕の方を見て、
「今度つらくなったら、ナッツとチョコとバニラと、ミルクティー、買います」
と、笑いかけた。
彼女はアイスクリームのあとにミルクティーをゆっくり味わって、二十一時過ぎにぴったりの現金で会計を済ませた。
「また来ていいですか?」
「水曜以外に」
オーナーは優しい声で答えた。
僕は二杯目のミルクティーを飲みながら、手帳に「トマトリゾットの女」の物語を書き始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます