シャ・ノワールの水曜日
霧嶌十四郎
Ⅰ.水曜日のアールグレイ
アイスティーはアールグレイだった。
カプチーノを愛しているかもしれない君に紅茶の話をするなんて、
良く晴れた真夏の水曜日は火曜日と変わらずに猛暑で、僕の注文は先週と変わらずボンゴレ・ロッソ。それなのに、丸底の背の高いグラスの中でほんの少し揺れるアイスティーがアールグレイというだけで、今日の予定がまるごと、つまり世界は変わってしまったのだ。
――そうか、彼は、だからアイスティーを頼むのだ。
僕が「水曜日のカフェ」と呼ぶ「シャ・ノワール」は小柄な女性の店主が一人で
店の一番奥の四人掛けのテーブルに、それなりに小綺麗なTシャツと夏向きの涼しげな半ズボンにビーチサンダルを合わせた青年が小一時間ほど居座っている。僕と彼とは少なくとも顔見知りで、僕は彼を「アイスティーの男」と呼んでいる。彼が僕をどう呼んでいるかは知らない。
アイスティーの男が水曜日のカフェに現れるようになったのは
おせっかいな僕はノック式のジェルインクのペン先をカチリと引っ込めて胸ポケットに差し、右手にアイスティーを、左手に手帳を持って席を立った。そして
「君がなぜアイスティーを注文するのか、僕なりに考えてみたんだ」
二十代半ばを過ぎた年頃の青年はちらりと僕を
「君は世界を変えようとして、だからアイスティーを飲んで窓の外を見る。どんな風に変わったか、確かめるためだ。そうじゃないかい?」
僕は不審者と思われぬよう
彼は左手にゴツゴツしたフォルムの黒いスポーツタイプのデジタル腕時計をしていた。まだほとんど新品のようだった。
「……残るのは、空のグラス」
彼は飲み終えたグラスを静かにテーブルに置いて、にやりとひきつったように笑った。
「もう一杯?」
「いえ、もう、十分」
立ち上がったアイスティーの男は想像していたより小柄だったが、姿勢は良かった。カードで会計を済ませる彼の背中には自信と
「夕立が来そうですよ」
空のグラスを回収にやって来たオーナーが僕に言う。外を見ると、確かに怪しい雲がゆっくりと迫っていた。残っている客は僕だけだった。
「来週彼が来たら、おかわりのアイスティーを出してやってよ。そうだ、パンケーキを追加しよう」
「もう十分って言ってましたよ。はちみつとメープルシロップは?」
「彼は空のグラスなんだ。チョコレートソースの気分だね」
女店主は手に持ったグラスを少し見つめてから「少し待ってくださいね」と厨房へ消えて行った。
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