第17話
「す、すみません。お怪我はありませんでしたか?」
思わず狼の顔を凝視してしまったが、じろじろ見るのは失礼だと気が付いた雨音は謝罪を口にした。
「連れが申し訳ありませんでした」
重ねて謝罪すると、大きな弓を背負った狼の女性は目を見張ってから、気まずそうに口を開いた。
「あー、アレくらいじゃ怪我なんてしないから、気にしないどくれ」
「ですが……」
「怒鳴って悪かったね、この辺りはアタシみたいなのにはあんまり良いところじゃないから気を張ってたんだ。荒っぽい連中が多いから、アンタたちも気をつけな」
「じゃあね」と言って早々に狼は立ち去っていった。
穏便に済ませられて胸をなでおろした雨音は、少年姿のベルが自分の服の裾を握りしめて俯いているのに気づいた。
「怪我はない?」
目線を合わせようと覗き込むと、ベルは泣きそうな顔をしていた。
「申し訳ありません。私のせいで、せ……お嬢様に謝罪をさせてしまって……」
「大したことじゃないから、大丈夫」
「でも、高貴な方が平民に謝罪するなんて……」
ああ、そっちだったかと雨音はベルの動揺に得心がいった。
身分の高い者が低い者に謝罪することは、こちらではあまりない事のようだ。
その感覚はいまいち分からない。
「気にしないで。私が謝って事が済むなら、それでいいの。馬車を探しましょう、ね?」
「……はい」
背中をなでて宥めれば、ベルは顔を上げてくれた。
しかし馬車探しは難航した。
運賃が予算より高かったり、各地を経由するのでイリストまで日数がかかったりと、雨音たちの条件に合う乗合馬車が見つからない。
その上困ったのが、馬車の主やその護衛に嘘をつかれることだった。
理由はわからないのだが、相手の言葉を聞くと「あ、嘘だ」と分かるのだ。
しかもそれは気がするという程度ではなく、確信と言っていい確度で雨音の脳裏にひらめく。
なんとなくランダール神のギフトのように思うがゆっくりと検証している暇はなく、ベルを連れた状態で確信のある危険を冒すわけにもいかず、イリスト行きの乗合馬車をすべてあたったものの、とうとう乗ろうと思えるイリスト行きの馬車がなくなってしまっていた。
「参ったな……」
折角王都を出られたのにここで足止めされるとは思わなかった雨音はぼやいた。
客を乗せた馬車が次々と出発していくので焦りがつのる。
他に馬車はなかっただろうかとぐるりとあたりを見回すと、こちらを見ている狼とぱちりと目があった。
服装からして先程の狼の女性だ。
ちょいちょいと手招かれたので近寄ると何故かため息をつかれた。
「少しくらいは警戒するもんだよ……」
「はい……? ええと、何か?」
「目的地はイリストかい?」
「ええ、できれば王都まで行きたいのですが」
雨音が答えると、狼は顔を寄せて小声で尋ねた。
「アンタたち、女の二人連れだろう?」
魔術で姿と声を偽装しているのを見破られて、雨音はぎくりとする。
バレると強盗や人攫いに遭いやすくなるとアマンダに聞かされているので、マズイかもしれないと心臓が飛び跳ねた。
「どうして……」
「そりゃあ、アタシは人間より鼻が利くからね」
マズルの先を指差す狼を見て、それはそうだなと納得した。
「まったく、警戒するなら呼ばれたときにするもんだよ。まあ、悪いようにはしないからついといで」
さっさと背を向けて先に行ってしまう狼の後を、慌ててベルと一緒に追う。
「お嬢様……」
「うん。少し心配だけど嘘は言ってないと思うし、もう選べる状況じゃないから、ついて行ってみよう」
「はい」
ベルとこそこそと交わした言葉も、もしかしたら狼には聞かれているかもしれなかった。
狼はイリストとは別の行き先の馬車に近づき、「ちょっと旦那ァ」と声を張り上げた。
幌のついた人を乗せる馬車は満員で、すぐにでも出発できそうな状態だ。
呼ばれて馬車の影から出てきたのは、小太りの人間の男性だった。
四十代くらいの年齢で鼻の下に口ひげを蓄えている。
「どうしたね、ラズ。そっちの人たちは?」
「悪いんだけどさ、アタシが乗る荷馬車の空いてるところに、この二人を乗せちゃくれないかい?」
「できなくはないが、乗り心地は悪いよ。あまりお薦めはできない」
「それはアタシが一番良く知ってるよ。旅に慣れてない女の二人連れなんだ、心配でね」
声をひそめた狼の言葉に、旦那と呼ばれた男は考え込んだ。
「ズアータ商会のことも知らないんだよ。ここらはアタシら冒険者でも最近は物騒だって言うし、頼むよ」
ズアータ商会というのは、雨音たちが乗ろうかと迷った馬車の商人だった。
運賃が安めでイリストの王都直通ということだったのだが、結局、商人の言葉が嘘だらけだったのでやめたのだ。
「イリスト王都直通」すら嘘だった。
「どこまで行くんだね?」
「とりあえずイリストに入れればと」
「うーん。最終的にイリストには行くんだけど、乗客は隣国のレシエンまでなんだよ。そこで荷を積む予定なんでね」
「レシエンのナーリウまででいいんじゃないかい? あそこならイリストに通じる街道があるし、馬車を乗り換えりゃいい」
「ナーリウですか?」
雨音が尋ねると狼と男性が詳細を教えてくれた。
クローツとイリストとの間にはレシエンという国があり、横に細長く突き出た領土が二国の間に挟まっているのだそうだ。
ナーリウはその突き出た部分にある街で、細いがクローツ、レシエン、イリストを跨ぐ街道が通っているので、よく使われるルートらしい。
この商隊はナーリウを経由してレシエンの王都に向かい、そこで乗客を降ろしてイリストへ行くとのことだった。
レシエンの王都を通過するとなると、無理を言ってイリストまで乗せてもらっても時間が掛かりすぎるし、手持ちのお金も足りないだろう。
二人に確認すると、その通りだと答えが返ってきた。
ナーリウで乗り換えれば大体十日ほどでイリストに入れるらしいが、レシエンの王都を経由すると二十日以上はかかると。
当然、運賃も一日ごとに増えていく。
「もしよろしければ、ナーリウまで乗せていただけませんか?」
今優先するのは一刻も早くクローツから脱出することだ。
ナーリウで別の馬車に乗り換えよう、と雨音は判断した。
「ああ、荷馬車になってしまうけれど、それでも良ければ構わないよ」
「ありがとうございます! ベスもそれでいい?」
「は、はい、お嬢様がよろしいなら」
すでに商隊の準備は整っており、出発時間も迫っていたらしく、雨音とベルは慌ただしく荷馬車に乗せられた。
護衛の冒険者らしき人たちもそれぞれ分乗して、馬車の列は動き始める。
昨夜からいろいろな事がありすぎて身を置く環境がいっぺんに変わってしまった。
小さくなっていく王都の大門を見ながら、雨音はようやくひと息ついた。
*・*・*・*・*
クローツ王太子の侍従であるグレアムは、主の命で王都の貴族街を歩いていた。
「迎賓館から聖女の姿が消えたらしい。しかも使用人たちは全員、魔術で眠らされていた」
そんな報せが朝早く、王太子の元に届けられたのだ。
馬鹿正直に迎賓館や王宮に問い合わせたところで、正確な情報を教えてもらえるはずもなく、結局は足で情報を稼ぐのが上策だった。
王太子の屋敷と同じく貴族街にある迎賓館は、監視の鳥を使って外側から確認しただけでも騒然としていた。
来客用の正面玄関にまで王宮の役人や魔術技師、警備兵が乗ってきた馬車が停まり、慌ただしく人が出入りしていた。
迎賓館の状況を確認したグレアムは、聖女の足取りを追うことにする。
最重要事項は聖女の身柄だ。
万が一にも聖女が王宮側に捕らえられてしまえば、クローツは侵略戦争へ突き進むことになる。
どこかに隠れているのなら、保護して王太子の屋敷へ連れて行かなければならない。
王太子の屋敷といえども完全に安全ではないので、その後どこかへ身を寄せて貰う必要はあるにせよ、まずは聖女の安全の確保だった。
しかしふと、「聖女は王都にいるのだろうか?」という疑問がよぎる。
王太子との短い会談で、自分の置かれている状況を正確に把握した聖女が、短絡的に王都に隠れ潜むだろうか。
いつもは静かな貴族街には騎士や警備兵が行き交っており、落ち着かない雰囲気だ。
将軍や宰相に反発して早々に国外に逃げた貴族が所有していた屋敷の前には、警備兵の一団が待機していた。
放棄されている屋敷を捜索するつもりのようだが、的外れのような気がしてならない。
しかし、王都の外に出るといっても大門は聖女の不在が発覚後、すぐに検問が敷かれているので簡単には通り抜けられないだろう。
「夜のうちに王都の外に……? だが、夜は大門は閉じている」
陽のある平時であっても大門は素通りできない。
入るときは入門税を払わなければならないし、出るときも手配者ではないことを確認するための人相のチェックがあるのだ。
一般には公表されていないが、魔術を使って通り抜けたり誤魔化したりできないように、それらを検知する術式も敷かれている。
「どんなに魔術に精通していても、大門で足止めされるはず。脱出……? ――まさかっ」
グレアムは王太子を守るために、あらゆる情報と手段をかき集めている。
その中には、民衆の間で暗黙の了解として秘密にされている事柄もあった。
聖女の行き先ではなく、王都から脱出する手段、ということに絞り込めば、ひとつだけ心当たりがある。
こちらの世界に来て一ヶ月も経っておらず、ほとんど迎賓館から外出していない聖女がそれを知ってるとは思えないが、あたってみる価値はあるかもしれない。
貴族街を出て平民の多い商業地域へ足を向ける。
大通りは相変わらず人影がまばらで閑散としていた。
目的地への道順を思い出しながら横道へ入ろうとした時、大通りの店の前に人だかりができていた。
どうやら警備兵と住民がもめているようだ。
そんなものは現在の王都では珍しくもないし、仕事中なので首を突っ込む義理もないのだが、店先の看板を見てグレアムの気が変わった。
「だから、何も知らないって言ってるだろ!」
「関係ねえよ! どうせ知らなくても知ってるからやめてくれなんて、泣き始めるんだからな!」
「なんの騒ぎだ?」
「ああ? なんだテメ――っ!」
制服を着ているだけで中身はチンピラと変わらない警備兵は、明らかに貴族然としたグレアムを見て固まった。
無礼を働けばただでは済まないということくらいは知っているらしい。
対して、警備兵と揉めていた平民たちは、グレアムの姿に身構えた。
難癖をつけに来たように見えたのかもしれない。
「なんの騒ぎだ?」
腰に下げた剣の柄に触れながら再度尋ねると、少し離れたところで暇そうにしていた上役らしい警備兵が駆け寄ってきた。
「これは閣下! このようなところにお運びいただかなくても、我々にお任せくだされば手配者は必ず捕らえますとも」
別に閣下でもなんでもないのだが、どうも口が軽い者のようなので黙って上辺だけの言葉を聞き流す。
「この下民たちは手配者を匿った疑いがあるので、連行するところでございます。すぐに行方を自白させますので……」
「手配者だと? 行方不明になったのは大変に高貴な御方だ。まさか貴様、卑しい犯罪者だとでも思っていたのか?」
「ま、まさか! そのような話は……」
警備兵の驚き方を見て、探しているのが聖女であることを聞かされていないな、とグレアムは判断した。
上におもねる態度が板についているような人間が、そこを間違えるはずがない。
「かの御方を匿ったのならば、この者たちは相応に遇さねばならない。協力を仰ぐのが筋ではないか?」
「それは……上に確認を致しませんと、私にはなんとも……」
額に冷や汗をにじませながら警備兵が責任逃れを口にする。
「ではさっさと確認をしろ。我が主は殊の外、不誠実をお
「はっ! 早急に! おい、行くぞ!」
軽く脅すと、警備兵は弾かれたように部下たちを連れて去っていった。
詰め所にいる上官にでも泣きつくのだろう。
泣きついたところで、こちらは主人のいる貴族であることしか開示していない上に、変わり身の術式で目立たない見た目になっているので、グレアムの身元にすらたどり着くことは不可能だ。
あれは誰だったのかと警備兵達が首をひねるだけだ。
邪魔者がいなくなったところで、ようやくグレアムはこちらを警戒している住民たちに向かい合った。
その内の三人は警備兵と敵対する意思を隠しもしなかった者たちだ。
「この宿の者はいるか?」
グレアムが目を留めたのは「跳ね狐亭」という宿屋の名前だった。
以前、迎賓館から抜け出した聖女が立ち寄った宿ということで、記憶に残っていたのだ。
おそらく警備兵たちの上官もそれを知っていて、ここに配下を派遣したのだろう。
「アタシですが、なにか」
挑むような目つきで中年の女が進み出た。
それを見てグレアムは内心でため息をつく。この女と、右と後ろにいる二人の男もだ。
三人とも何かに殉じる目をしていた。
将軍が台頭し始めて以降、表情は様々だったものの、こんな目をした者たちを何人も見た。
その者たちがあえなく散っていくさまも、何度も。
そして、主を守るためならば自分も同じ目をするのだろうとも思う。
「助力したお前たちが死ぬのは勝手だが、知ったら白雪の御方は気に病まれるぞ。それにお前たちはあからさますぎる。嘘が下手だな」
グレアムがそう言うと、三人はうろたえたように顔を見合わせた。
本当に嘘が下手だ。
カマをかけられたことにすら気づいていない。
「白雪の御方」とは誰か、と聞かなかった時点で知っていると言ったも同然だ。
雪よりも白い髪の聖女と、この三人が接触したのは確からしい。
だが今の自分は内偵中のため、身分を明かして情報提供を命じるわけにもいかない。
「……ダグという男を知っているか?」
グレアムの問いかけに、女の後ろにいる気の弱そうな男が、ぎくりと身をこわばらせる。
その反応だけで十分だった。
「そうか、ならいい」
やはり、聖女が裏のルートを使って王都を脱出しようとしている可能性が出てきた。
手引したのはこの三人だろう。
そうなると後は、聖女がまだ王都にいるのか、それともすでに脱出したのか、だ。
言葉の意味が分からず困惑している三人を置いて、グレアムは当初の予定通り横道に入った。
しばらく歩くとすぐに治安の悪い地域になる。
とはいえ帯剣しているグレアムに絡んでくるような人間は、そうはいない。
しかし城壁にほど近くなると、その少数派の男たちにグレアムは囲まれた。
それぞれ何かしら、手に武器になるものを持っている。
「こんなところにお貴族様が何の用だ? ひとりじゃあ、危ないぜ」
ニヤニヤと嘲りを口にする、堅気には見えない男に思わずグレアムは吹き出した。
「ずいぶんとゴロツキが様になっているじゃないか、オスワルド。ダグラスはいるか?」
剣の柄尻につけている房飾りのメダルを見せれば、オスワルドと呼ばれた男は目を見開いた後、片手で顔を覆った。
このメダルはグレアムの身分証代わりで、近しい者ならばこれを見せればグレアムだと分かるものだ。
「本当に、なんでこんなところに貴方がいらっしゃるんですか……」
「仕事だ」
「でしょうね、お変わりないようで。……こちらへ」
オスワルドが周囲に「客だ」と言うと、男たちは面白くなさそうな顔で三々五々、路地に戻っていく。
案内されたのは傾きかけた小屋だった。
中へ通され、予想通りの禿頭の男がいることを確認してから同じようにメダルを見せると、相手は驚いて人払いをした。
「まさかとは思っていたが、本当にお前だったとはな、ダグラス。息災のようで何よりだ」
「グレアム様、ご無沙汰しております」
三人だけになった小屋の中で、変わり身の術式を停止させて元の姿になったグレアムに、ダグラスは礼をとる。
かつてダグラスとオスワルドは警備兵として王宮に勤務しており、王太子クラウスと側近のグレアムとも気軽に言葉を交わす仲だった。
しかし将軍が実権を握ると、王宮警備の責任者が無能の貴族にすげ替えられ、警備隊の隊長だったダグラス以下、オスワルドたち隊員も経費削減の名目のもと、解雇されたのだ。
簡単に再会の言葉を交わしたところで、気を利かせたオスワルドが遮音の魔石を起動した。
「今日はどのようなご用向きで?」
「平民たちの間で噂されている、王都からの脱出ルートの管理者はお前だな?」
あらかじめ得ていた、ダグという名前と人相の情報から推測していたことを確認する。
「それは……」
「安心しろ、捕縛だの摘発だのはしない。そんな権限もないからな」
ダグラスはグレアムをじっと見ると、観念したように息をついた。
気苦労もあるのだろうか、元気そうではあるが、王宮にいた頃より顔の肉が落ちているように見える。
「ええ、まともに働けないあぶれ者の面倒を見ていたら、いつの間にか」
もともと面倒見の良いダグラスが、無法者とはいえ慕ってくる人間を見捨てられなかったのだろうということは簡単に想像できた。
そんなダグラスをオスワルドは特に慕っていたので、離れずにいるのだろう。
オスワルドは今も二歩離れた位置でこちらを注視しながら成り行きを見守っている。
「昨夜から今朝にかけて、それを使った者はいるか?」
「今朝、素人の住民の紹介で来た二人連れがひと組、使いました。見た目は変えてましたが、あれは若い女二人ですね」
「素性は流石に分からないか。ある方が王都を出られたかどうかが知りたいのだが」
「……実は、今朝からの騒ぎの当事者のようなことを言っていました」
「本当か!?」
「ええ。それから、こちらを」
思わず身を乗り出したグレアムに、ダグラスは懐から出した小さな布袋を見せる。
布袋からダグラスの手のひらに出されたのは、質の良い水晶やガラスのように透き通った魔石だった。
見るものが見れば、その魔石には魔力がはちきれんばかりに内包されていることが分かる。
食い詰めた平民がなけなしの魔力で作って売るような、魔力がほとんど含まれていないクズ魔石とは比べ物にならない。
「通行料に渡されたものです。これだけ上質の魔石をこの数用意できる人間が、金を持っていないはずがないんですが……」
「金を用意することができず、魔石で支払ったということか」
聖女が何も持たずに迎賓館から姿を消したとすれば、金を持っていなかったという条件は一致する。
あの平民たちが協力したとしても、裏稼業への報酬を金銭で用意することは難しい。
「しかも私の目の前で、鶏の卵くらいの大きさの魔石を作ってみせました」
その大きさの魔石は出回り次第、王宮が買い上げるような代物だ。
聖女は暴発が起こるほど魔力量が多いという情報を掴んでいる。作るのは可能だろう。
「私がお探している方で間違いないようだ。その方は、他にはなんと?」
「城壁の外の、乗合馬車が集まる場所を聞かれました。もう王都を離れているかと」
「そうか……」
王都を出てどこへ行くつもりなのか、このまま逃げ切れるだろうか。
思うところは多々あれど、グレアムが現状で探れるのはここまでだ。
持ち帰って主人の判断を仰ごう。
ふとダグラスを見ると、なんとも言えない顔をしていた。
「今朝会ったのが一体誰なのか、気になるか?」
「ええ、まあ。ですが、聞かないほうがいいのでしょうな」
「そうだ、悪いな。……正直なところ、どう転ぶのか予想が付かなくて扱いかねているところもある」
「左様で」
ダグラスにも情報網はあるだろうし、客の素性くらいは薄々気づいてはいるだろうが、まだ情報を渡せる段階ではない。
用事が済んだグレアムは、再び変わり身の術式を起動する。
「お前たちのことは主の耳に入れておこう。きっとお喜びになる」
ダグラスとオスワルドが突然解雇されたことに王太子は憤り、心配もしていた。
良くない知らせばかりの中、多少の慰めにはなるだろう。
「ありがとうございます。もしもの時は、我らをお使いください」
「ああ、その時は頼む」
主人は何があっても王宮と戦い続けるつもりでいるようだが、グレアムはいざとなれば、どんな手段を使ってでも主人を生かすつもりでいる。
追い詰められた場合は、王都を脱出するために聖女同様、ダグラスたちの世話になる可能性もあった。
小屋を出て貴族街の屋敷へ戻ると、すぐに王太子の執務室へ向かう。
聖女が行方不明になったことで将軍たちも無茶な動きはできなくなるだろう。
懸念事項だった夜会も開催できない。
こちらにとってはとても都合がいい。
なんとか聖女の足取りを追って、保護をしなければ。
それには将軍や宰相たちの動きを把握しなければならず、近々うってつけの人間と接触する予定があることを思い出したグレアムに、王太子のクラウスは硬い声でその知らせを口にした。
「魔術技師長のクリストフがセントランタ牢に収容された」
「そんな……」
教師役として聖女についていた魔術技師長は、政治的に中立であったことから宰相と直接会うこともできる人物だ。
少し前に聖女の安全について助力を請いたいと、数少ない王太子派の貴族を介して打診を受けており、明日、密かに面会する予定だったのだ。
聖女の安全は当然のことながら、グレアムは宰相の詳細な動向をクリストフから提供させようと考えていたところだった。
「表向きの罪状は王宮への反逆だというが、聖女様が姿を消したことに対する意趣返しだろう」
「クリストフが魔術を聖女様にお教えしたことで、迎賓館から二度も姿を消すことが可能になったから、ということでございますか」
完全に言いがかりだった。
聖女に魔術を教えるよう命じたのは宰相だ。
「堅牢な技術棟の一角を吹き飛ばして抵抗したそうだ。そちらにだいぶ、人員を取られたようだな」
「それで王都を捜索している騎士が少なかったのですね」
魔術技師長ともなれば魔術での広範囲の戦闘も可能で、同じく戦闘能力のある騎士や魔術師たちをそちらに宛てたのだろう。
結果的に王都は質の悪い警備兵で捜索するしかなくなり、聖女の王都脱出を助けた形となる。
普段温厚なクリストフが激しく抵抗したのは、それを見越したからかもしれない。
「『たった二冊の教本で自ら行動を起こされるとは』と高笑いしていたと聞いた。クリストフは随分と聖女様に入れ込んでいたようだな」
「しかし、セントランタとなると……」
クローツではセントランタ牢は最悪の牢獄として有名だ。
あそこでは囚人が生きたまま壊される。
面会も極端に制限されており、今後クリストフに接触するのは難しい。
手に入りそうだった宰相の動向を探る手段は、泡と消えてしまった。
「そうそう楽はさせてもらえないか……。そちらはどうだった?」
「は、ほぼ確実に、聖女様は王都を脱出されたかと」
グレアムは調べてきたばかりの事柄をクラウスに報告した。
ひと通り聞き終えると王太子は考え込む。
しばらく眉間に皺を寄せていたものの、大きく息をついて眉間を揉んだ。
「動かせる駒がない。手詰まりだな」
「せめて聖女様がどちらに向かわれたのか掴めれば良かったのですが……」
「我々に掴めなかったということは、王宮も掴めていないということだ。歯がゆいが、ランダール神の加護を祈るほかないな」
とはいえ、聖女の行方探しを完全に放棄するわけにもいかない。
まかり間違っても、王宮に聖女の身柄を渡すことはできないからだ。
「では、聖女様の捜索は辺境伯たちの協力を仰ぎ、継続する方向でよろしいでしょうか」
「ああ。それから、また将軍と宰相の屋敷に耳を潜り込ませたいな。この間処分されたおかげで難しいだろうが」
「手配いたします」
グレアムの仕事に潜入工作員の選定が追加された。
問題は山積みだが、将軍たちの計画の中心だった聖女が動いたことで戦争への道筋は一旦途切れたことになる。
聖女が稼いでくれた時間で反撃の準備もしなければ。
忙しくなるな、とグレアムは今後の方策を練りはじめた。
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