第16話

 宿屋の主人、アマンダは朝早くから店先を掃除していた。

 酒を出す食堂も併設しているので夜遅く朝早い仕事だ。

 もう慣れたが嫁に来た当初は苦労したものだった。

 人が少なくなったとはいえ酒場もある通りなので毎朝の掃除は欠かせない。

 店先に吐瀉物があろうものなら、ただでさえ少ない客を確実に逃してしまうからだ。


 そんなアマンダの宿屋に向かって警備兵が数人、駆け寄ってくるのが見えた。

 聖女がこの小さな宿屋に訪れてから警備兵をよく見かけるようになったので、目をつけられているのだろう。

 こいつらは聖女を迎えに来たような行儀の良い警備兵ではなく、職にあぶれていたチンピラ崩れが数合わせで採用された連中なので普段の素行も悪い。

 アマンダはうんざりと男たちを見た。


「検分だ。邪魔すんじゃねえぞ」

「なんだい、朝っぱらから!」


 乱暴にドアを開けた警備兵たちは、足音を立てて客室への階段を登っていった。

 アマンダも慌てて後を追う。

 検分とは要するに手配されている犯罪者などが隠れていないかを調べることで、警備兵が仕事をしているとアピールするために実施されることが多く、住民にとっては迷惑でしかなかった。


「開けろ! 検分だ!」

 

 片っ端から客室のドアを開けていく警備兵は、すぐに客のいる部屋に行き当たった。

 出てきたのは小柄でどこにでもいそうな少年だった。


「なんでしょうか」

「他にいるか? 全員出てこい」

「主人がおります……」


 警戒を露わにする少年の後ろから、こちらも小柄でごく普通の見た目の青年が現れる。


「おはようございます、こんなに早くから何かありましたか?」


 のんびりと言う青年は世間知らずそうで危なっかしい印象だ。

 廊下に出てきた二人を警備兵たちはじろじろと見回した。

 

「お前たち変わり身の術式を使っているな? さっさと解け、抵抗すんじゃねえぞ」


 持っていた魔術具の水晶が赤になったのを確認した警備兵の一人が言う。

 この魔術具は起動している術式を検知するもので、簡単な術式に限られるものの、犯罪によく使われる魔術を見破ることができた。

 少年に青年が頷き、二人は身につけていた魔石を取り出して術式を解除する。

 二人の姿が揺らめいた後、そこに立っていたのは気の強そうな栗毛の少女と、黒髪の大人しそうな女性だった。


「女の二人連れなもので、ご容赦ください」


 女性が謝罪する。

 安全のために、旅をする女性が変わり身の術式で姿を男に見せかけるのは良くあることだが、様子を伺っているアマンダはガラの悪い警備兵たちが自分の宿の客に難癖をつけないかと気が気ではない。

 かといって下手に抵抗すると目をつけられて、しょっちゅう検分に来るという嫌がらせをされる。

 

「おい、隊長は白い女って言ってたよな?」

「そうだな。ハズレかよ」

「いや待て、カツラかもしれねえぞ」


 ぼそぼそと相談していた男たちが一斉に女性を見やる。

 男たちの視線が集まった女性は顔をこわばらせた。


「あの、なにか――あっ!」

 

 警備兵の一人が女性の前髪を掴んで、ぐいっと引っ張った。

 

「お嬢様!」

「なんてことするんだい! うちの客に!!」


 突然の暴力を目の当たりにして少女とアマンダが同時に声を上げる。

 

「ちっ地毛か、やっぱりハズレだ」

「ほかに客はいたか?」

「いねえよ。こいつらだけだ」


 殺気立っているアマンダたちを余所に警備兵たちが言い合っていると、外から別の警備兵が階段を乱暴に駆け上がってきた。


「おいお前ら、北地区だ! 上物のショールが落ちてたから応援に来いって命令だ!」

「逆方向じゃねえかよ。スラムじゃねえだろうな」

「分からねえけど、とにかくしらみ潰しにしろって話だ」

「何やったんだ? その白い女。ってか、白いやつなんているのか?」


 心底やる気のない様子で警備兵たちは宿を出ていった。


「二度と来るんじゃないよ!」


 音を立てて宿の入口のドアを閉めたアマンダは、急いで二階へ戻る。

 そして、女性たちが泊まっている部屋のドアをノックした。


「アマンダですっ。ご無事ですか!?」

 

 ややあってから部屋のドアが開かれて中に入る。

 二人部屋の片方のベッドに座る女性が落ち着いた様子でいるのを確認して、アマンダはようやく肩の力を抜いた。

 ドアを閉めた少女が素早く女性の脇に立つ。


「あいつら、聖女様になんてことを!」


 黒髪の女性の正体は聖女の雨音だった。そして脇に立つ栗毛の少女はベルだ。

 昨夜遅くに迎賓館を抜け出して宿の裏口にやってきた二人は、アマンダとケントの親子に保護されていたのだ。

 窓を塞いでいるせいで暗い室内に、打ち付けた板の細い隙間から朝の陽が差している。


「正体がバレなかっただけ、良しとしましょう」


 雨音とベルは変わり身の術式を二重にかけて、警備兵たちには外側の術式を解除して見せたのだった。

 今も二人は警備兵たちに見せた女性の姿のままでいる。

 

「本当に、クローツはどうしちまったんでしょう。昔は警備兵ももっとしっかりしてたのに」


 言っても詮無いことなのだが、アマンダはどうしてもぼやいてしまう。


「ああいえ、そんな愚痴はどうでもいいんですよ。それよりもこれから、どうしますか?」

「捜索が始まっているということは、私の不在がもうバレているということです。できるだけ早く、ここを発ちたいと思います」

「ええ、それがいいと思います。もういちど検分に来るかもしれませんから」


 警備兵などではなく王宮の優秀な役人が来てしまえば、隠し通すのは難しいだろうとアマンダも同意した。

 北地区に落ちていたというショールは聖女の仕込みだ。

 昨晩のうちに魔力で作った鳥に、持ってきていたショールを北地区に運ばせたのだが、それだって時間稼ぎにしかならない。

 そのときドアが控えめにノックされて、部屋の三人に緊張が走る。

 

「母さん、オレ。ケント」


 ドア越しの声にホッとして、アマンダはドアに近づいた。


「一人だろうね?」

「うん」


 一応の確認をしてからケントを中に入れる。


「検問はあったかい?」

「うん、いつもより役人が多かったし、緑色のローブの魔術師もいた」


 アマンダに言われて王都の出入り口である大門の様子を見に行ってきたケントは、見たままを伝えた。

 まだ早いこの時間から検問があるのは珍しいことだった。


「王都から出る人全員、一人ずつ調べてるみたいだった」

「緑色のローブの魔術師は王宮の魔術師です。魔術で姿を消しても、その魔術自体を感知されてしまうかもしれません。聖女様、大門は使えないと思ったほうが……」

 

 ベルの言葉に雨音が頷く。


「そうですね。ではやっぱり、ジェフさんが準備してくれているルートで王都を出ましょう」


 雨音たちが夜遅くに転がり込んできたにも関わらず、アマンダはザックやジェフを巻き込んで、昨晩のうちに二人が王都を脱出する準備を整えていた。

 世界を救ってくれるという敬愛すべき聖女から、クローツにいられなくなったので国を出たい、王宮は頼れないと聞かされれば奮起せざるを得ないだろう。

 聖女に頼られたという事実だけで舞い上がってしまうような高揚を覚えた一方で、ここまで聖女の信用を失った王宮に激しい憤りも感じた。

 クローツを出なければならない理由を聖女は頑として口にしなかったが、アマンダたちのためだと言われて納得するしかなかった。

 今の王都はそういうことが多すぎた。


「分かりました。ではすぐにお食事を用意しますね」

「ありがとうございます」


 一階の食堂で、塩で煮ただけのポリッジを出すと、聖女は文句も言わずに口にした。

 侍女のベルも少し眉をひそめて、それでも黙々と食べていた。

 もっと食材があればまともな物を出せたのに、もっと懐が暖かければ良い食材を買えたのに。

 本当に、最近はそんなことばかりだとアマンダは思う。

 

 食べ終わると二人は部屋に戻り、暫くすると旅支度を整えて男性の姿で降りてきた。

 動きやすく丈夫な男物の服も外套も、侍女が背負っている荷袋やその中身にいたるまで、全て夜のうちにアマンダたちがかき集めた物だ。

 古着屋のザックは店に置いていても売れないからと、ほとんどの装備を提供してくれた。

 それでも最低限の物しか用意できなかったため、心配は尽きない。

 異世界から召喚されたという聖女と貴族の世界しか知らない少女が、国を出るために身ひとつで旅をしようというのだ。

 常識的な判断ができれば、大半の者は止めるだろう。

 

「本当はあたしが付いて行けたら良かったんですが……」

「そこまでして頂くわけにはいきません。失敗したらどうなるか分かりませんから」

「乗合馬車は必ず、商隊が客を募集しているのにしてください。冒険者が護衛についてますから」

「分かりました。何から何まで、ありがとうございました。もし役人が来ても私達のことは何も知らない、で通してくださいね」

「ええ、分かってます。どうかご無事で」


 周囲に怪しまれないよう、あくまでいつも通りにと聖女に言われているので、外まで見送ることはできない。

 せめて出口まではと、アマンダは二人の背中を見送った。



 *・*・*・*・*


 

「それじゃあ予定通り、古着屋さんに行きましょうか、

「はい、


 二人でクローツを出る旅をするにあたって、打ち合わせていた名前で雨音がベルを呼ぶと、少年の姿のベルもその通りに返した。

 クローツ王都の外れの父子家庭で育った娘が、父を亡くしたことで唯一の使用人を連れ、親類を頼ってイリストへ向かうという筋書きだ。

 父親は娘を溺愛していたので家の外に出すことがほとんどなかったために世間知らず、というおまけつきだった。

 そんな父親が愛しい娘のために話し相手兼世話役として雇ったのが遠い親類のベル、もといベス、ということになっている。

 使用人にですます口調で話す主人はいないと、雨音からベルへの話し方も変えることにした。


 二人の目的地はイリストの王都だ。

 昨夜、アマンダにザックとジェフも加わって宿の部屋で相談した結果だった。

 敵の敵は味方、ということで、何かとクローツが敵視しているイリストならば、クローツから守ってくれるだろうという目算だ。

 大きなランダール神殿もあるらしいので、そこに駆け込もうという計画である。

 ちなみにクローツ王都のランダール神殿はというと、最近やけに警備兵の数が多く、毎週行っている慈善活動すら王宮に禁止されているらしいという噂から、駆け込んでも雨音の安全は保証されないだろうという結論に至った。

 王都の神殿がその有様では、地方の規模が小さい神殿も期待できないだろう。


 人が動く時間帯になったせいか、以前来たときよりも人の多い大通りを歩いてザックの古着屋を目指す。

 早くから活動する人たちをターゲットにしたいくつかの店はすでに開店していた。

 窓のない宿の部屋で一晩を明かしたために、景色が少し眩しく見える。


「おはようございます。雨着はありますか?」

「おう、あるぜ」


 古着屋に入ると、カウンターに座っていたザックがニヤリとして待ち構えていた。

 昨夜のうちに変わり身を使った姿を見せていたので、すぐに雨音たちだと分かったようだ。

 

「裏でジェフが待ってる。気ぃつけてください」

「お世話になりました。もし役人が来ても――」

「後をつけられてる気がするって言うから裏口から逃した、ですね。分かってます」

 

 昨晩の打ち合わせで教えた台詞をザックは口にした。

 アマンダの宿に泊まった事になっている雨音たちの存在が疑われる可能性も考えると、足取りを辿られることもあるだろう。

 ここに来るまでに誰かに見られている事もある以上、ザックがそんなヤツは知らないで押し通すのは無理があると考えた結果の台詞だ。

 こんなところであちらの世界での不審者対策が役に立つとは思わなかった。

 古着屋の裏口から出ると、ジェフが落ち着きなく待っていた。

 

「こっちです」


 王都を出るには大門を使うのが一般的だが、ごく一部の表を歩けない人たちが使う別の脱出口がある、ということを長年王都に住んでいる三人は知っていた。

 しかもジェフはその出入り口を管理している集団を知っているごろつきが顔見知りだということで、渡りをつけてもらったのだ。

 裏通りでも顔を覚えられると困るので、雨音はマントのフードを深く被り直した。

 

「王都から出たい人がいるって話はしたけど、ろくでもない連中なんで……」

「連絡をしてもらっただけで十分です。私ではそういう人たちを見つけられませんから」


 そうして連れて行かれたのは、路地奥の薄暗い小さな十字路だった。

 陽が当たらないせいでひんやりしているのが不安を誘う。

 そこに立っていた人相の悪い男にジェフが話しかけた。


「さっき話した人たちだ」


 男は雨音たちを一瞥して頷いた。

 ジェフがろくでもない、と言っていた通り、あまり関わり合いになりたくない雰囲気がある。


「お前たちはコイツを持って、ついてこい」


 雨音とベルに男が渡したのは、認識阻害の魔術陣が刻まれた魔石だった。

 

「お前はここまでだ。帰れ」

「で、でも、この人たちは……」

 

 男にそう言われたジェフは食い下がる。

 どうやら心配してくれているようだが、雨音はここから先はベルと二人で行くつもりだった。

 自分に関わることでジェフたちには随分と危ういことをさせてしまっている。

 王宮が探している雨音を逃がす手助けをしたと知られれば、将軍や宰相が彼らに何をするか分からなかった。

 これ以上巻き込むことはできない。


「大丈夫です、ここまでありがとうございました」


 雨音が言うと、ジェフは顔を歪ませた。

 いつまでも頼り切りではいけない。

 ここからは自分で道を切り開かなければならないのだ。

 

「気をつけてくだせえ、どうか……」

「お世話になりました。ジェフさんもご無事で」


 別れの言葉を交わし、男が魔石を起動したのを見て、雨音たちも術式を起動した。

 二歩ほどの距離ならば男の姿が分からなくなることはないので、できるだけ離れないように気をつけてベルと共に男のあとへ続く。

 細い裏道を通り、簡素だったり、崩れかけている建物の多い地区を通り抜けると、王都を守る城壁が触れられる近さにそびえ立つ場所に出た。

 人けはあるものの、こちらを警戒していたり、逆に無気力に座り込む人が目につく。

 頭上の遥か高くに城壁のてっぺんが見えた。

 こんなところに脱出口があるのだろうかと雨音が考えていると、城壁に貼り付くように建てられている小屋に到着する。

 戸口の前にはどうみても堅気ではない雰囲気の厳つい男が立っていた。


 ここまで連れてきた男が術式を解除したので雨音たちもそれに倣い、魔石を返却すると小屋の中に通された。

 中には数人の男たちがおり、ここまで連れてきてくれた男同様に全員ガラが悪そうで、雨音は緊張して口の中が乾いた。

 ベルも怯えて雨音の陰に隠れる。

 小屋の奥の石壁の前には木箱が積み上げられていた。

 窓は天井近くに小さなものしかなく、ひとつしかないドアの前には屈強の男が塞ぐように立っているので、完全に逃げ場はない。

 男たちの中でひと際威圧感のある男が口を開いた。

 

「二人で間違いねえな?」

「はい」


 頷くと、禿頭のその男は雨音たちを睨みつけた。


「ウチは秘密厳守だ。飯の種をおいそれとバラされちゃ困るんでな。おい」


 禿頭の男が隣の男に声をかけると、雨音たちの前に魔術陣が刻まれた木の板が差し出された。


「保険として誓約をしてもらう。ここの秘密を喋ったら指が落ちる呪いだ」


 呪いと聞いたベルが雨音の服の裾を掴む。

 魔術陣にざっと目を通して、男が言った通りの効果であることを確認してから雨音は頷いた。


「わかりました」

「そっちのチビもだ」

「……はい」

 

 もう後には引けないのを分かっているベルも、ためらいながら頷く。

 板を持っている男に言われるまま雨音が魔術陣に右手をおいて魔力を流すと、人差し指に嫌な感じのする黒い糸のようなものが何重にも巻き付いた。

 特に痛みもないので、これが呪いかな? と見ていると、途端に糸が宙に溶けて消えてしまった。

 雨音に続いて魔力を流したベルの指にも糸は巻き付いたが、消える気配はない。

 黒い糸は男たちにもベルにも見えていないようで、雨音の指に糸がないことを指摘する者は誰もいなかった。


「通行料は聞いてるな?」

「聞いています」


 ベルを振り返ると背負っていた荷袋から小さな布袋を出しているところだった。

 この男たちは当然、ボランティアで雨音たちに協力しているわけではない。

 後ろ暗い逃亡者に脱出口を提供して、金品を巻き上げているのだ。

 

「こちらに」


 じゃらりと音を立てる袋を、取り巻きの一人にベルが渡す。

 中身は雨音が作った魔石だ。

 ジェフが十分だと言っていた数の倍の魔石が入っている。


「こいつは……」


 取り巻きから受け取った袋の中身を確認した男が、言葉を途切れさせた。


「足りませんか?」

 

 雨音は手の中で更に魔石を作り、男たちに見せた。

 鶏の卵ほどのサイズの魔石は以前、クリストフに一級品だと言われたものだ。

 それを見た取り巻きたちが目の色を変える。


「お頭、こんなデカい魔石を作れるんなら、コイツを人買いに売っぱらった方が――」

「馬鹿野郎! 欲かくんじゃねえ! そんなことしてみろ、すぐに足がついて俺たちの首が刑場に並ぶだけだ」

 

 お頭と呼ばれた禿頭の男の言葉に、雨音はほっとした。

 足りなければ男が頷くまで魔石を作ろうとしていたのだが、それが別の危険を呼び込むところまでは想像できていなかったのだ。

 もし襲いかかってきた男たちを魔術で眠らせて危機を逃れても、脱出口を教えてもらっていないので手詰まりになってしまう。

 最悪の事態は回避できたようだった。

 つくづく自分は悪事に向かないなと雨音は思った。

 雨音は手の中の魔石を魔力に変えて吸収する。

 お頭はバリバリと頭を掻いた。

 

「いつもは詮索なんてしねえんだがよ。テメエ、なにもんだ?」

「そう言われも……。ああそういえば、どうも私はひと晩で有名人になったようです」


 朝早くから雨音を探すためだけに王都の警備兵が動員されているのだから、そう言って差し支えないだろう。

 それを聞いた男は察したらしく盛大に舌打ちをする。


「チッ、そういうことか。おい、さっさとどかせ。こんなヤツら、一秒でもここに置いときたくねえ」

「うっす」


 取り巻きの男たちが壁際にあった木箱をどけ始める。

 高く積まれていた木箱が全て移動されると、隠されていた石壁には人ひとりがどうにか通れる隙間が空いていた。

 どうやら自然にできた亀裂を、ツルハシなどを使って広げたようだった。

 まさかと思って雨音は頭目の男を見る。


「この壁、城壁だったんですか……」

 

 小屋の石壁だとばかり思っていたのは、城壁そのものだったのだ。

 そして、城壁に貼り付くように建てられているこの小屋は隙間を隠すためのものなのだ。

 隙間の向こうも小屋が建てられているらしく、木板の壁が見える。

 王のいる城を守るためにある城壁に穴を空けたなどと王宮に知られたら、ここの男たちは斬首どころでは済まないだろう。


「おら、早く行け」

「あ、ついでに乗合馬車が集まっている場所を教えてください」

「……ちゃっかりしてやがる。外の小屋を出たら左斜め前の方向に行け。そのうち見えてくる」

「ありがとうございます」


 お頭に手振りで追い払われて雨音は隙間に体を滑り込ませる。

 後ろを確認すると、ベルも緊張した表情でついてきていた。

 大体十歩くらいで通り抜けて城壁外の小屋に出る。

 こちらの小屋の中にも男たちがおり、雨音たちが到着するとすぐに木箱を積み上げはじめた。


「お嬢様……」

 

 ベルが呪いの巻き付いた右手をさすりながら不安そうにしている。

 その手をとって人差し指に雨音が触れると、巻き付いていた黒い糸は簡単に解けて宙に消えた。

 もしかしたら聖女には、呪いを解く能力があるのかもしれない。

 

「大丈夫、もう心配ないから」


 雨音はそっとベルに囁いた。

 不思議そうな顔をするベルを連れて小屋の外に出た雨音の前に、意外な光景が広がった。

 城壁の外にはたくさんの粗末なテントが張られ、多くのひとたちが行き交っていたのだ。

 さながら、あちらの世界のニュースで見た難民キャンプのようだった。

 焚き火で朝ごはんを煮炊きする女性、まだ眠そうにしている子ども、仕事に向かうのかもしれない男性。

 王都の大通りでは希薄だった人の生活がそこにはあった。


「外にこんなに人がいるなんて」

「あっ、聞いたことがあります。王都は物価も家賃も高いから、地方から仕事を求めて集まってきた貧しい人たちは城壁の外に住んでるって」

「そういうこと……」


 ベルの説明に頷く。

 整備された村や街と違って、開けた土地にテントが集まっているだけの場所での生活は不便だろう。

 細い通路の脇にゴミが溜まっているし、うっすらと腐臭や排泄物の匂いなど、あまりいいとは言えない匂いもする。

 それでも、城壁の内側よりもずっと人の熱気を感じられた。


「行きましょうか」

「はい」

 

 いつまでも立ち止まっていると怪しまれるので、お頭に教えられた方向へ向かう。

 迷路のようになっているテント群の間を通り抜けて、何度か行き止まりに突き当たり、やっとのことで馬車が集まる広場にたどり着いた。

 広場にはたくさんの人が集まっているが、それほど遠くないところに王都の大門が見るので、そこにいるという王宮の魔術師に見つからないか雨音は不安になった。

 呼び込みの声に混じって馬が鼻を鳴らす音が聞こえる広場を進み、人の間に紛れ込むようにできるだけ大門から離れる。


「あっちにイリスト方面に行く馬車があるみたいです」


 呼び込みを聞きつけたベルが、馬車の集まる一角を指差した。

 人を乗せられそうな幌をつけた馬車の他に荷物を載せた馬車もある。

 あれがアマンダの言っていた、商隊の乗合馬車だろう。

 

「私、運賃を確認して――あっ」

「どこ見てんだい!」

 

 これでなんとかクローツから出られそうだ。

 そう思っていた矢先、駆け出そうとしたベルがそばにいた人にぶつかってしまった。

 ここで騒ぎを起こしたくない。

 慌てて謝罪しようとした雨音はぶつかってしまった人に視線を向けて、ぽかんとしてしまった。


 狼の頭に人間の体。

 失礼を承知で言ってしまえば、狼人間と呼ばれるような存在がそこに立っていたのだった。

 

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