第8話
「先生が危険だとおっしゃったのは、空間を切り取る処理ですか?」
「はい、そうです。例えば転送対象を含む空間を切り取る際、対象物の上に手を置いていると手も一緒に切り取られてしまいます」
「大きな事故になりますね。防止するための処理を組み込めばある程度は回避できそうですけど」
ユーザが起こしやすい誤操作を予測しておき、誤操作があった場合は処理自体を実行させない、というのは良くある手法だ。
分かりやすい例はユーザが情報を入力する時の未入力や文字の半角全角のチェックだろう。
入力できていない項目があれば情報登録のボタンを押させない、押してもエラーを表示して登録処理を実行しないことで、不完全な情報の登録を防ぐというものだ。
「回避というと……?」
「魔術は素人なので実際にできるかは分からないですが、切り取る範囲内に生体がある場合は転送をしない、でしょうか」
「転送陣は人を遠方に送ることにも使われます。生体を禁止してしまうと人を送れなくなってしまいます」
「人まで送れるんですか? すごいな。であれば、切り取る範囲の境界を転送前にチェックして、物体が境界線上に乗っていたら転送しなければいいでしょう。これなら生体に限らず、巻き込みで切り取られるのを防げます。境界線を何かしらの方法で可視化しておけば使い勝手も良くなると思います」
入力された数字が登録可能な範囲内の数字かをチェックするプログラムを作るのも、登録可能な数字の範囲をあらかじめ画面上に表示しておくのも、雨音が仕事でよくやっていたことである。
魔術とプログラムという違いはあれど、基本的な考え方は似ているなと思った。
「なんてことだ……」
「実現は難しいですか?」
呆気にとられたようなクリストフの表情に、雨音が不安になって尋ねると、教師役を勢いよく首を左右に振った。
「いえ、いいえ。多少の時間は必要ですが充分に実現可能です。転送陣が開発されて以来、防げないと言われていた事故の対策がこんなにもあっさりと……」
「あ、あの、これは私が考えついたわけではなくて、たまたま仕事で学んでいたことがうまく当てはまっただけなので……」
転送魔術の事故防止に流用した、しきい値のチェック処理は別に雨音のオリジナルではない。プログラマーの間では当たり前に使われている共通の考え方だ。
あまりに感心されるので慌ててそんなに凄い事ではないと言い添えるが、クリストフの笑顔は崩れなかった。
「学んだことを目の前の問題に合わせて応用できるのは、実力のうちです。本当に素晴らしい」
「えと、や……、そんなことは……」
残業に次ぐ残業をこなしてやっと出来上がったソフトウェアを納品したところで、褒められることなどなかった雨音は嬉しいやら、落ち着かないやらで目をそらした。
感服しきった様子のクリストフに照れくささを覚えて、目の前の魔術陣に意識を移す。
「こ、この魔術陣、実際に動かしてみてもいいですか?」
「ええ、どうぞ。先程の注意点にだけ、お気を付け下さい」
「はい」
魔術陣の上に何か置きたいが、手元に何もなかったので小さな雨音は魔石を作り出して置いた。
ただの楕円形だと面白くないし、転送されたものが送ったものと同一であるのが分かりづらいので、魔石はお風呂に浮かべるアヒルの形にしてみた。
指に乗る程度の大きさのアヒルは、なかなかに可愛い。
魔術陣に魔力を流すと、対になる魔術陣の探索から転送までの図形が空中に現れて消え、左側の魔術陣に受け取りの図形が現れ、アヒルが移動した。
「ちゃんと同じものだ。すごいです!」
アヒルを手に取って、自分が作ったものであることを確認する。
今度は左側にアヒルを置き、右側へ転送する。転送されるとき、アヒルは陽炎のように姿が揺らめいて消え、受け取り側では揺らめきの中からアヒルが現れた。
ついでに雨音は、魔術陣をリビングの両端に置いて転送したり、壁を隔てた寝室からの転送もしてみた。
既に確立、運用されている技術なので問題なく転送されるのは分かっているが、雨音の世界ではまだ不可能な技術なので興味深い。
ソファに戻り、左右交互に転送する速度を段々と上げて遊んでいると魔術陣から黒い煙が出始めて、慌てて止めた。連続運用には向かず、クールタイムが必要なのだろうか。
「すみません、先生。壊れてないですか?」
「このくらいであれば問題はありません。聖女様は魔術にご興味がおありのようですね」
クリストフに魔術陣の状態を確認してもらい、雨音はボタン連打チェックの感覚で試していたのを反省する。
つい負荷をかけてみたくなるのは悪い癖だ。魔術陣が壊れなくて良かった。
「はい。魔術はあちらにはなかったので、楽しいです」
「では試しに、簡単な魔術を覚えられてはいかがでしょうか」
「えっ? 私、基礎を全く知らないですけど、覚えられるんですか?」
「初心者でも扱えるものですから」
「是非教えて下さいっ」
雨音の世界の人間なら子供の頃、一度くらいは魔法や魔術を使ってみたいと思ったことがあるだろう。
それが叶えられると思うと、年甲斐もなく雨音は勢い込んで教えを請うた。
「もちろんです。お教えするのは魔術障壁です」
「障壁……?」
「物理的、魔術的な働きかけを、ある程度防げる盾のようなものです。『全てを遮り内を守れ。守りしものを欠かすこと無きよう』」
クリストフが呪文を唱えると、ガラスのような透明な壁が雨音とクリストフの間に現れていた。
長方形の障壁は縁が白く濁った色をしているので大きさが分かりやすい。
「これが魔術障壁です。使いこなせるようになれば強度を上げて、様々なものから身を守れます」
その言葉に雨音は、今日の授業の一番の目的はこれではないだろうかと思った。
昨夜のように不意の暴力に晒された場合に自身を守る手段として、身につけさせようとしているのではないだろうかと。
クリストフが軽く手を振ると障壁は消えた。
「呪文を唱えると魔術が構成されるのを感じられますので、それに対して魔力を流して下さい」
「はい」
「では復唱を。『全てを遮り――』」
呪文を復唱すると防御の図形が白い光で目の前に描かれ始めるのを見て、雨音はピンときた。
魔術や魔術具が行使される度に見えていたこの図形は、魔術陣や呪文という形式に圧縮された、実際に実行される魔術の処理内容なのだ。
言ってしまえば、魔術陣や呪文は完成したソフトウェアやアプリケーションで、雨音に見えている図形はソースコードそのものだ。
感じる、とクリストフが言ったように、恐らく普通は目に見えないものなのだろう。
雨音にははっきりと見えている
「成功ですね。流す魔力の調整も問題ないようです」
「ありがとうございます。先生、色々試してみてもいいですか?」
「もちろんです」
クリストフが頷くのを見て、雨音はまず、目の前に浮いている障壁から魔力を取り除いてみることにした。
魔力が術式を行使するための燃料の役割をするのなら、術式に与えた魔力を奪えば機能を停止するはずである。
障壁が保持している魔力を全て指先に移動させて吸い取ると、思った通り障壁は綺麗に消えた。
仮説が正しかったことに満足して雨音が何度も頷くのを、クリストフは微笑ましく見ていた。
この聖女は想定していた以上に、魔術に対する適性があると思いながら。
ふと、魔力を抜けば障壁が消えるのなら、他人に障壁を消されてしまうのではと思った雨音がクリストフに尋ねれば、他人の魔力を操作するのは熟練者でも難しいとすぐに答えが返ってきた。
なので、雨音の魔力で作った障壁を、例えばクリストフが消すことはできないらしい。
疑問に対して即座に答えが返ってくるのがありがたい。マンツーマンで授業をして貰えるメリットはこういうところだ。
次に雨音は魔力で空中に直接、構成の図形を描いてみた。
ずっと気になっていたのだ。呪文や魔術陣を使わずに魔術のコードそのものを描いてみたらどうなるのか。
指などは使わずに、自分から伸ばした魔力を糸のように引き延ばして、記憶にある防御の図形を描いていく。
自分だけに見えているであろう、魔力の白い線で描ききった図形に起動用の魔力を流し込むと、先程現れたのと同じ魔術障壁が雨音の前に出来上がった。
「――っ!」
集中していた雨音は、クリストフと侍女達が息を呑んだのに気付かなかった。
続けてコード内の細かな設定を書き換えてみる。
図形には障壁が展開される起点や、サイズを指定している箇所があった。しかも、雨音にはその数値を変更することができた。
先程は下からせり上がるように展開された障壁を、中央から上下左右に広がるように展開させるようにしてみる。
本来であればこういった調整は、何度も術式を行使して慣れることで身に付くのだろう。
それはスピードメーターがない自動車で時速六十キロにピタリと加速、維持するのに似ている。
しかし雨音の自動車にはスピードメーターがあり、時速を六十と設定すれば加速と維持を勝手にしてくれるのだ。
真面目に魔術の訓練をしている人に申し訳なくなってくる。
「起動が遅いかなあ……」
何回か構成を描いて慣れてきた頃、雨音は術式の起動速度が気になってきた。
ソフトウェアやアプリケーションの起動速度はユーザからのクレームに直結すると言っていい。
あちらでは仕事で毎日そんなことに頭を悩ませていたので、魔術であってももっと早く起動できないだろうかと考えたのだ。
魔力で構成をいちいち描いているので起動が遅い。これを判で押すように一瞬で描ければかなりの時間短縮になる。
できるだろうかと自問した雨音は、できるな、と結論付けた。
理由は不明なのだが、授業が始まってから目にした魔術の構成図を、全て思い浮かべることができるからだ。
昨日王宮で会った使用人たちの顔はおぼろげなので、きっと魔術関連限定なのだろうが、妙に一部の記憶力が良くなっている。
どうせこれもランダール神のギフトだろう。雨音は深く考えないことにした。
糸のように伸ばした魔力で線を一本ずつ引くのではなく、魔力をインクに見立てて構成のイメージを空中に押印して魔力を通すと、設定どおりのサイズの魔術障壁が現れた。
「……」
上手くいきすぎて雨音はいっそ不安になる。経験則として、熟考せずに思いつくままに試した処理は大体、上手くいかないものなのだ。
半ばやけになってサイズ設定の違う構成を四つ同時に押印し、全てに魔力を流してみる。
雨音は四つのサイズ違いの障壁が同時に横並びに現れるのを渋面で見つめていたので、クリストフが唖然と口を開けているのを見逃していた。
もっと無茶な使い方をすれば
結局、しばらくこの方法で魔術を起動し続けて様子を見るしかないな、というところに落ち着いたのだった。
*・*・*・*・*
授業を終えて迎賓館を辞したクリストフは王宮の一室を訪れた。
目の前の執務机にはこの国の宰相が座り、報告を待っている。
「授業はつつがなく。記録通り、聖女様の魔術適性は群を抜いて……いえ、神に愛されていると断言できる程でした」
基礎すら学んでいない状態での魔術の無詠唱起動と多重起動。
保有する魔力が多すぎる故の不安定さはあるが、それは魔術行使に慣れれば解消され、他の追随を許さない魔術師となるとクリストフは見ていた。
「使い物になるのはいつだ?」
「治癒魔術については次回の授業で扱います。しかし、浄化魔術は聖女様のみが扱えるもの。私にはお教えすることが出来ません。神殿から詳しい者を派遣していただきたい」
「ならん。神殿を聖女に近付けさせるな」
神殿から聖女への接触を妨害しているのは、クローツ宰相だった。
本来、聖人の召喚は国家間の公平を期すために、複数の国が必要性と様々な約定を協議した上で召喚する国を決めて行うものだ。
国も種族も区別しない瘴気の脅威という観点から、例え敵国同士であっても聖人に関しては国家間の平等を重んじなければならないという不文律さえある。
それを破り独断で聖人召喚をしたどころか、国内にすら正式に聖女を迎えた旨の通達を、王宮はしていない。
宰相は聖女の存在を隠したがっているようにクリストフには感じられた。
その上、最低限の使用人と共に聖女を迎賓館に隔離し、やらかしてくれた王弟に対しても口頭での聖女への接触禁止を申し渡しただけで、事実上お咎め無し。
聖人に対する畏敬の念はとても見て取れない。
歴史上、数々の国を飲み込んだ瘴気に唯一、対抗できる聖人は国王以上に遇さねばならない。それがこの世界での共通認識である。
空気のように辺りを漂う瘴気は命あるものを衰弱させ、人や動物であれば死に至り、植物は立ち枯れる。
夜中、人里に瘴気溜まりが発生し、朝には近くの家で眠っていた家族全員がそのまま死亡しているのが発見された記録もあり、人々は瘴気を恐れた。
壊す、もしくは殺すことで消せるのならばまだ良かった。
各地に自然発生する瘴気溜まりには武器も攻撃魔術も通用せず、ただ聖人が扱う浄化魔術だけが消し去る事ができる。
今よりも瘴気溜まりが多く被害も大きかった時代は、聖人を文字通り神の使いとして人々は崇めた。
先代の聖者が死去してから八十三年。
発見される瘴気溜まりはどれも小規模で人の活動圏から外れているため、人間は瘴気の恐ろしさを忘れかけているがそれでも、聖人は敬うものであるという意識は受け継がれている。
それは勿論、クリストフもだ。
だというのに、この権力者は何を考えているのか。
「ではせめて、何かしらの資料を神殿から送っていただけませんか。浄化魔術の足がかりは必要です」
「分かった、手配しよう。聖女の様子はどうだ?」
「昨夜のことは何も。少なくとも私の前では落ち着いておられました」
「そうか。他には?」
「どうやら聖女様は高等教育を受けておられるようです」
価値の高い魔石を不用意に流通させる
他にも言葉の端々から、読み書き以上の教育を受ているとクリストフは感じていた。
「そうはいっても所詮、下位貴族の娘だ。大したことはなかろう」
「聖女様は貴族でいらっしゃったのですか?」
雨音の口から直接、労働階級であると聞いていたクリストフは思わず聞き返した。
「最低限の礼儀は知っているようだが、宰相の立場がどういうものかは理解していなかったな。知っていればもう少し私に敬意を払っただろうが」
「……そうでしたか」
こちらの世界を何も知らない聖女にこちらでの常識を求め、素性の確認すらしていない宰相に、クリストフの不信感は深まる。
そして、貴族ではないはずなのに高度な教育を受けている聖女の物腰と話し方を思い出して、クローツと聖女の国との格差を感じた。
宰相の執務室を退出して魔術技術局へと戻る馬車内で、クリストフは宰相とその後ろ盾である将軍から聖女を守る必要があると考えた。
先代で領地経営に成功した将軍の家は手段を選ばずに王宮内で勢力を伸ばし、古い血筋だが零落しつつあった家の者を強引に宰相に就けて、国内での影響力を盤石なものにした。
賄賂や武力での威圧を多用する将軍家に反感を持つ者は多いが、当初将軍を非難した貴族達が反逆罪を着せられて一族皆殺しになってからは声を上げる者はいなくなった。
そんな将軍と、将軍の手先でしかない宰相が聖人召喚を言い出し、ついに聖女を召喚してしまった。
完全にクローツの都合で元いた世界から召喚された聖女は、その時点でクローツによる拉致の被害者と言える。
召喚を強行した将軍と宰相の思惑が分からない以上、彼等から聖女を守る者が必要に思えた。
「出来るだけのことはしましょうか……」
聖女であることを抜きにしてもクリストフは雨音の能力を高く買っていた。
魔術を学び始めた者は大抵、目に見えて分かる成果を求めようとする。魔術障壁であれば固く、大きく、厚みを持たせる、などだ。
その全てを覚えたての術式に組み込もうとするため、ほとんどが構成に失敗して術式の起動まで至らないことが多い。
むやみに強力な攻撃魔術を試そうとする初心者もよくいる。
しかし雨音は魔術に強い好奇心を持ちながらも慎重だった。
基本的な魔術障壁のサイズから、少しずつ大きさを変え、厚みを変え、形を変えた後に、大きさと形、厚みと起点、と複数の要素を変更した術式を確認していた。
華やかな活躍の印象を持たれる事の多い魔術技師はその実、地道な推論と検証の積み重ねで術式を開発している。
雨音の姿勢はそんな魔術技師にふさわしく、聖女でさえなければ技術局にスカウトしたいところだった。
最終的に魔術障壁で立体を作られたときには流石に我が目を疑ったが。
あちらの世界の知識だという転送術式の事故防止案も、大いにクリストフの興味を引いた。
彼女の知識があれば、現在の魔術はもっと発展するかもしれない。そんな期待が脳裏をよぎった。
そのためには聖女の安全が不可欠だ。
国の上層部に不信感のあるクリストフは、意図的に雨音の無詠唱起動と多重起動を宰相に報告しなかった。
それがどんな影響を及ぼし、聖女の不利益に繋がるか分からなかったからだ。突出した才能が政治的に悪用されるのは防ぎたい。
聖女自身にも注意を促しておいた方が良いだろう。
先々代のクローツ王に才能を認められ、招聘された魔術技師長は、王宮の変質を嘆きながらも聖女の保護を決心した。
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