第6話
とろとろと眠りと目覚めの境を行き来し、タバサが起こしに来た頃にはそれなりに体力は回復していた。
頭の芯が重く感じるのは完全に寝不足のせいだが、連日の超過労働に慣れている雨音はいつもより長く休めたなと思った。
なにせ現在時刻は午前九時過ぎ。
昨日までなら出社していて当然、始業の時刻である。
「おはようございます。今日も良いお天気でございますよ」
タバサは朝から元気だ。
自分よりも早く起きているだろうに凄いな、と純粋に感心する。
「……おはようございます」
もそもそと雨音は起き上がる。
ベルがチェストの上に洗面器を置いて、水差しから中身を移していた。湯気が立っているのでお湯だろう。
その少女の動きがすこし
「おはようございます、聖女様。お湯をご用意いたしましたのでお顔をお洗い下さい」
「おはようございます。ありがとうございます」
ベッドから降りて棚に近づくとベルの様子もしっかりと見える。
顔色は悪くない。どうしたのだろう。
そう思った雨音の脳内に、『臀部:内出血』『睡眠不足』と言葉が閃いた。
閃いた言葉はそのまま、ベルの肩のあたりに文字情報としてタグのように浮かんでいる。
なんだこれ。
戸惑っている雨音にベルがおずおずと声をかけた。
「あの、聖女様……?」
「あ、ああ、ごめんなさい。なんでもないです」
洗面器のお湯を手ですくって顔を洗いながら、今のはなんだ、と雨音は再度自問した。
患部と症状のようなものが見える?
これは聖女の能力?
ベルが怪我をしている?
だから動きがぎこちなかった?
様々な疑問が雨音の頭に降り積もる。
洗面器の隣に用意されていたタオルで顔を拭き、あとでクリストフに聞こう、と決める。
不明点は色々想像するより、知っていそうな人に聞いた方が早いし確実だ。
侍女たちに髪を整えられて着替えさせてもらう間も、何人かに『睡眠不足』のタグが見えた。
彼女たちにはタグが見えている様子がなく、雨音にだけ見えているようだった。
鏡に映るまだ見慣れない、変わってしまった自分の顔に感じる嫌悪を表情に出さないように気を付けながら、朝の支度を終える。
朝食は昨日リクエストした通り、野菜中心の軽めのメニューだった。
ドレッシングのかかった茹で野菜に薄味のスープ、小さめの丸くて白いパンはふかふかと焼きたてで、カットされた果物もあった。
見たことのない野菜や果物もあったが、好き嫌いはない方なので雨音は美味しく完食した。
こんなに健康的な朝食を食べたのは久しぶりだった。
部屋に戻ってソファに座ると、タバサが真っ赤なリボンが掛けられた白い箱を持って来た。
開けてみると、箱の中にはギラギラしたピンク色のドレスが納められていた。
アンヌが気を利かせて広げて見せてくれるが、フリルをこれでもかと使い、金の糸で刺繍が施され、所狭しとピンク色のリボンが散りばめられたデザインは、はっきり言って趣味が悪い。
ファッションに疎い雨音でも分かる。
「これは……いえ、まず、なぜ私にこんなものが?」
「王弟殿下からでございます。恐らくお詫びの品かと……」
王弟、と聞いて雨音に昨夜の記憶がよみがえった。
努めて装っていた平静が剥がれ、腹の底から言いようのない憤りが突き上げて来て、雨音は服の裾を強く握る。
さすがのタバサも歯切れが悪い。
詫びというよりも懐柔だろう。ドレスや宝飾品を与えれば女性は機嫌を直すだろうという侮りがありありと透けて見えた。
同時にランダール神にも怒りが沸いてくる。
あの神様がこんな顔に変えなければ王弟に目を付けられることもなかったのだ。
「お返しするわけにはいきませんか?」
正直、詫びの品など受け取りたくなかった。
できるものなら本人に直接叩き返してやりたい。もっとも顔も見たくないが。
「下賜されたものをお返しするのは不敬にあたりますので……。あ、ですが、聖女様へのものですので献上品になりますから、この場合は……」
「……分かりました。どこか見えないところに仕舞っておいてください」
普段は最上位の扱いをしなければならない王族を下位に見なければならないせいで、タバサも混乱しているようだ。
雨音の言葉を受けて、アンヌがドレスを片付けに退室していった。
ふと、雨音は侍女達に尋ねてみる。
「こちらの流行は分からないのですが、あのドレスは、デザインとしてどう見えましたか?」
「……大変個性的なお品でございますね……」
代表してタバサが答えたが、他の侍女たちの反応も似たり寄ったりだった。
魂胆が見え見えな上、センスも悪い、と。
王弟として失格なのでは? いや、元々人間として失格だったな。
雨音は落ち着くために、長く息を吐いた。
*・*・*・*・*
雨音の精神が段々と落ち着いてきたころ、タバサが言いにくそうに口を開いた。
「聖女様、申し訳ございません、実はこのお部屋はまだ準備が整っておりません。これから調度品の運び込みを行いたいのですが……」
「え?」
聞くと、昨夜は急なことだったために寝室しか整えることが出来なかったらしい。
リビングや他の部屋にも色々と持ち込みたいのだとタバサは言った。
雨音はリビングをぐるりと見回す。
大きい窓と広い室内にふかふかのソファ。
昨日見て回った二階のリビングに比べれば家具は少ないが、築四十年、キッチン付ワンルームの狭い安アパートに暮らしていた雨音には十分過ぎる部屋に思えた。
「私には十分だと思うのですが、足りないんですか?」
「全く足りておりません。聖女様に相応しい部屋にしつらえませんと、見くびられてしまいます」
誰にだろう、と思うがどちらでも良かったので、雨音はそうですか、と適当な返事をした。
「じゃあ、私は邪魔になるので、外で庭を見ていますね」
一階にあるこの部屋には外に出られる大きなガラスドアがあり、そこから外の庭の様子が見えていた。
きれいに整えられていた庭を散策していれば時間も潰せるだろう。
「散策されるのはよろしいのですが、不届き者がまだいないとも限りません。誰かお連れ下さい」
タバサの忠告に雨音は頷いた。警備兵は増やしたと聞いても、この迎賓館が完全に安全だとは言えない。
一人でいるのは避けた方が良いだろう。
「それならベルを連れて行っていいですか?」
「もちろんでございます。ベル」
「は、はい」
突然指名されて、緊張気味にベルが返事をした。
「何かあったら、身を挺してお守りするのですよ」
「はい」
少し話をしたかっただけなのだが、ベルに余計なプレッシャーを与えてしまったようで、うまくいかないなあと雨音は胸中で零した。
外へ出ると穏やかな日差しと柔らかい風が頬に当たり、気持ちが良かった。
庭はそれほど広くはないが綺麗に手入れされ、奥には
雨音が庭の全体を眺めていると衛兵がベルに近づいた。
部屋の中からは見えない位置に立っていたようだ。
「ご散策ですか?」
「は、はい。この庭なら大丈夫ですよね?」
ベルの言葉に警備兵がどこかに合図すると、衛兵がもう一人やってきた。
「お供いたします」
昨日の今日なのだから警戒して然るべきだし、ついてきてもらえて良かったと雨音は思った。
警備兵がいれば、何かあってもベルも一緒に守ってくれるだろう。
雨音が庭の中を歩き出すと三人はその後ろを揃ってついてきた。
集団の先頭を歩くのは、はっきり言って落ち着かない。誰かの後を集団に埋もれて歩くのが雨音の常だったからだ。
足下の花壇に目をやると、植えられている花々は何種類かの株がランダムに配置されているのに、全体的には色の調和が取れていて不思議だった。
「ベル、この黄色くて小さい花の名前は分かりますか?」
「こちらはリロイと言います。王都の外れに大きな花畑があって、黄色い絨毯のように見えるんですよ」
「それは見てみたいです。きっと綺麗なんでしょうね」
そんな他愛ない話をしながら東屋に近づく。
このくらい遠ければ大丈夫だろうと判断して、雨音は警備兵達を振り返った。
「少しこの子と内緒話をしたいのですが、いいですか?」
「内緒話、でございますか……?」
普通、正直に内緒話などと言い出す人間はいないからだろう。警備兵は面食らったように尋ね返した。
突然のことにベルも驚いている。
「ええ、あの東屋を使おうと思います。警備に問題はありませんか?」
「承知いたしました。少し離れた場所に待機いたします。何かあればすぐにお呼び下さい」
「ありがとうございます」
礼を言って雨音はベルを促し、東屋に入った。
それを確認して警備兵達は東屋を挟むように少し離れて配置についた。
「ごめんなさいね、ベル。ちょっと話を聞きたいのですけど」
「あ、あの、私、何かお気に障ることを……」
見るとベルは真っ青な顔で両手を握りしめて俯いていた。
反応が過剰だ。
雨音は内心で眉をひそめた。
まるで叱責を覚悟したかのような様子だった。
「ベル、叱ったりしないから落ち着いてください。教えて欲しいことがあるの」
「はい……」
ほっと表情を緩めるベルに雨音も安心して、口を開いた。
「もしかしてベル、怪我をしていますか……?」
尋ねたかったのは、今もベルの肩に浮いているタグの内容だった。
怪我をしているらしい箇所が箇所だったので、二人きりで話をした方がいいと判断したのだ。
『臀部:内出血』『睡眠不足』
睡眠不足は理由が想像できる。昨夜、寝ているところを起こされて仕事をしたからだろう。
しかし、お尻を内出血している、というのは聞かないと分からない。
「えっと、その……」
「言いにくいのですけど、お尻をぶつけた、とか」
「……昨日、新しい寝室を整えた後、タバサさんに……」
「え?」
「鞭で打たれました……」
雨音は絶句した。
タバサに鞭で打たれた? どういうことだ?
「……理由を聞いてもいいですか?」
「私が眠そうにしていたから、聖女様にお気を遣わせてしまったと……」
「私が気を遣った?」
心当たりがなくて雨音は聞き返した。
ベルが眠そうにしていたのは覚えているし、そういう年頃なのだから気にしていなかった。
雨音だって十代の頃はやけに眠かったのを覚えている。
だから、微笑ましいくらいにしか思っていなかった。
「私達侍女も朝は遅くて構わないと……」
「ええっ?」
それは断じて気遣いではない。
雨音からすれば、彼女達の超過労働に対する補填だ。労働者の正当な権利と言っていい。
そこまで考えて雨音は、それはむこうの世界での考え方であると思い至った。
こちらの価値観ではないのだ。
そうか、労働者の権利がまだないのか。
雨音は納得して、少し憂鬱になった。この価値観に慣れなければならないのだろうか、と。
「でも、それだけで鞭で打つなんて……」
いくらなんでもやり過ぎではないだろうか。
そう尋ねると、ベルは迷った様に口を開閉した後、意を決したように話し出した。
「エイダさんに言われました。タバサさんは聖女様の侍女頭になれて、有頂天になっているって。聖女様に自分が仕事をできるところを見せて褒められたいんだって」
エイダは確か、濃い金髪の侍女だ。
そして、タバサと他の侍女達との間にあった温度差を理解した。
道理でタバサ一人だけがやけに張り切っているように見えたわけだ。
「だから荒探しをされるし、ちょっとしたことで怒られるから気を付けなさいって……」
「そう……。もう一つ教えてください そういうことで体罰を受けるのは、この国では普通なのですか?」
「……はい。私、以前は側妃様にお仕えしていたんですけど、そこでも失敗するとぶたれました」
雨音には到底受け入れられないことだが、これがクローツの常らしい。
これは自分も気を付けないといけないなと雨音は再び思った。
ちょっとした思いつきが影で誰かを傷付ける結果になりかねない。
昨夜聞いた、聖人を保護する目的の処刑といい、どうも自分は思った以上に面倒な立場になってしまったらしい。
「教えてくれてありがとうございます。今聞いたことは誰にも言わないから、安心してくださいね」
「はい。……あの、どうして私が怪我をしていると分かったんですか?」
「私も今日気がついたんだけど、ベルの肩の所に怪我をしてるって書いてあるんです」
「えっ?」
ベルが自分の両肩を交互に見詰める。
「私には見えないです。聖女様だからですか?」
「よく分からないから午後の講義で聞こうと思って」
「すごいです、聖女様は本当に聖女様なんですね!」
きらきらとしたベルの眼差しが居心地悪い。
聖女がどういうものなのか、本当に自分は聖女を務められるのか。
漠然とした不安に、雨音は曖昧に微笑むしかなかった。
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