第5話

「やあ。上手くやってるみたいだね」


 二度目もやはり唐突だった。

 上が白、下が空の空間で雨音は神様と相対していた。


「……私、寝ましたよね?」


 うん、寝た。確かに寝た。ちゃんと覚えがある。


「そうだね、大体二時間くらい経ってるかな。こっちに来た君をずっと見ていたけど、贅沢な暮らしはどう? 嬉しいでしょ?」

「根が庶民なので落ち着きません」

「うん? 人間は生活環境の向上を喜ぶと思ってたんだけどなあ」


 ぶつぶつ言う神様に、やっぱりどこかズレているなと雨音は思った。

 神様なので、人間とは違う見え方をしているのだろうか。


「人に依ります。それより、聖人はわざわざ異世界から連れてこなくていいって聞いたんですけど」

「まあね。聖人になれる資質を持った人間はこっちにも何人かいるよ」

「じゃあなんで私を連れてきたんですか? こっちの人を選んだ方が手間がないんじゃないですか?」

「そりゃあ、異世界から連れてきた方が人間達が喜ぶからだよ。今回も良い仕事したと思うんだよね、僕!」


 あ、分かった。この神様、ズレてるんじゃない。独善的なんだ。

 唐突に理解してしまった雨音は愕然とした。

 異世界の聖人ならこちらの人が喜ぶから、という理由で雨音を連れてきていて、雨音が迷惑に思うなど全く考えていない。

 しかも聖女に選んだのだから雨音も喜ぶはずだとさえ思っている節がある。

 独り善がりで押しつけがましい好意ほど迷惑なものはない。それを神様視点でやっているのだ、この神様。

 誰だこんなの野放しにしたのは。責任者どこだ。責任者って誰だ? コイツだ。詰んだ!


「ああでも、君今、ちょっとピンチかも。僕にはよく分からないけど、人間が喜ばないことになってる。起きた方がいいよ」

「え?」


 なおも雨音が脳内で罵詈雑言を並べようとしていると、神様は眉根を寄せてみせた。

 ピンチとは?

 困惑する雨音に神様は手を上げた。


「じゃ、たまに様子を見に来るから。頑張ってねー」

「ピンチって何! 責任者なら状況説明しっかりして!」


 覚えのある光が広がって目の前が白くなっていく。

 やはりまぶしさに目を閉じて――。


 ベッドの上でぱちりと雨音は目を覚ました。

 暗い部屋の中、自分の上に黒い影が覆いかぶさり、胸を触られている。

 認識した途端にぞわりと鳥肌が立って脂汗が吹き出した。誰かなのかは暗くて分からない。


「へっ、勿体ぶりやがって。モノにしちまえばこっちのもんだ」


 胸を強く掴まれる。

 生ぬるく荒い呼吸が鎖骨を撫でた。

 嫌だ気持ち悪い!!

 降ってきた言葉の意味を理解して雨音の恐慌が頂点に達した時、バリンッ、ガシャンッと大きな音がした。


「な、なんだ!? うわ!」

 

 雨音の上の影は驚いたように窓を見た後、向こう側の壁に向って何かに吹き飛ばされて、ドスンッと鈍い音がした。壁に叩きつけられたのだろう。

 部屋の中で見えない何かが風のように強烈に吹き荒れているのを雨音は感じた。それが上掛けも家具もランプも全部を放り上げ、振り回してひっかき回す。

 木が弾けて割れる音、何かにひびが入る音が寝室内に響いた。

 雨音は何が起こったのか理解できず、ただ目を見開いてシーツを掴んだ。


「聖女様!? ……っ!」


 誰かが寝室に駆け込んできた。

 良かった、人がいた。

 雨音の気が緩むと、吹き荒れていた何かが弱くなる。


「ご無事ですか!? 聖女様!」


 ベッドに駆けつけて来たのは、灯りを持ったタバサと濃い赤毛のもう一人の侍女だった。

 ほっとすると、吹き荒れていたものがピタリと止まった。

 放り上げられていた家具が一斉にけたたましい音を立てて床に落ちる。


「だ、誰かが、私の上に、いて、胸を、掴まれて……」


 仰向けのまま硬直した状態で、雨音は必死に言葉を絞り出した。

 それを聞いたタバサが目を吊り上げて辺りを見回す。

 赤毛の侍女の手を借りて、雨音は体を起こした。

 はっ、はっ、と呼吸が浅く早くなっていて、手が震える。

 背中をさすってもらいながら、雨音は膝を抱えた。

 気持ち悪かったし、何より怖かった。


「う……、げほっ、ごほっ」


 吸った息と吐く息のタイミングが合わず、喉でぶつかってむせる。

 胸を掴まれた感覚を思い出しておぞ気が走った。


「この方はっ……!」


 部屋の隅でタバサが驚いて声を上げた。

 雨音を襲った犯人を見つけたらしい。

 突然、リビング側の扉が激しく叩かれ、自分でも驚くくらい雨音は肩を跳ねさせた。

 タバサが「アンヌ」と合図すると、呼ばれた侍女がさっと戸口から雨音を背中で隠す。

 それを確認してから、緊張した面持ちのタバサが扉に向った。


「どなたですか? このような時間に」


 誰何すいかにくぐもった声が答えたが、扉に遮られて内容は分からなかった。

 タバサが早足で雨音の元に戻る。


「クリストフ様がお見えです。お通しした方がよろしいかと」


 なぜ彼が? とは思うものの、目撃者は多い方が良い。雨音は小さく頷いた。

 アンヌが手早く乱れた髪を整えてくれる。

 扉が損傷して歪んでいたのか直ぐには開かず、内開きの扉は外から体当たりしてやっと開いた。

 警備兵二人を伴ってやって来たクリストフは部屋の荒れ具合に驚きながらも雨音に声をかける。


「夜分遅くに失礼いたします。こちらで魔力の暴発を感知したため転移陣を緊急使用して参りました。お怪我はございませんか?」

「は、はい……。でも、あの……」

「寝室に侵入者が。聖女様のお体に触れたそうです」


 アンヌが雨音の代わりに簡潔に説明すると、クリストフと警備兵に動揺が走った。


「なんとっ! それで侵入者は?」

「……こちらで気絶しております」


 タバサが窓のある壁の隅へクリストフを案内する。

 家具の残骸の間をタバサが照らすと、クリストフが狼狽えた声を上げた。


「殿下!? なんてことを!」


 クリストフが頭を抱えたのがベッドの上の雨音からも見えた。

 殿下、と聞いて思い出すのは王弟だ。

 正直声もよく覚えていないので確証はないが、可能性はあって余りあった。


「殿下を別室へ。鍵をかけて出られないように。それから警備の責任者を呼ぶように」


 警備兵にそう言ってからクリストフは何事かを呟く。

 すると複数の白い光に現れて、室内を明るくした。魔術なのだろう。

 部屋の中は思っていた以上の惨状だった。窓ガラスは全て割れ落ち、調度品は立っているものはなく、壁には大きな亀裂が走っていた。

 無事なのは雨音がいるベッドくらいだ。それでも上掛けと枕は吹き飛ばされて床に落ちている。


「聖女様も隣室へお移り下さい。この様子では部屋が崩れないとも限りません」

「はい……」

「お靴を」


 アンヌが室内履きを探して持って来た。

 その横を警備兵が侵入者を抱えて運んで行く。髪の色と背格好からやはり王弟のようだった。

 靴を履き、アンヌの手を借りてリビングへ移動する。意外と体は動いてくれた。

 リビングは先に灯りが点けられていて、ソファに座って雨音は小さく息をつく。

 アンヌは足早に部屋を出ていき、すぐにショールを持って戻って来た。

 それを肩にかけてもらい、そういえば薄手の寝間着のままだったと思い出す。


「大変心苦しく思いますが……聖女様、詳しい状況をお聞かせ願えますでしょうか」

「そんな、聖女様は憔悴されておられます! せめて夜が明けてからになさってください!」

「構いません。記憶がはっきりしているうちにお話しします」


 クリストフの要求に反駁はんばくするアンヌを雨音は止めた。

 記憶が曖昧になる前にというのもあるし、情報の共有は早い方が良いというのもある。


「ですが……」

「大丈夫。ありがとう」


 ぎこちなく微笑むと、アンヌは不満そうながらも口を噤んだ。

 どこから話したものかと思案して、結局雨音は夢で神様に会ったところから話すことにした。

 ランダール神との邂逅はクリストフにもアンヌにも驚きだったようで、二人は小さく息を呑んだ。

 目を覚ましてから見えたもの、聞いたこと、されたことを順序立てて全て話す。


「部屋の中は暗かったので、顔は全く見えませんでした。声を聞いても誰なのかまでは……」

「聖女様は今日、殿下とお会いになったばかりですので、そちらは致し方ないかと」

「とても嫌で怖いと思っていたら突然部屋の中で風のようなものが渦巻いて、家具や殿下を吹き飛ばして……あとはご覧になった通りです」


 雨音の言葉にクリストフは頷いた。


「渦巻いていたものは聖女様の魔力と考えられます。魔力を多く持つ人間の感情が高ぶり過ぎると、感情に魔力が乗って外部に漏れ出して暴走することがあります。これを魔力の暴発と呼び、年に数件は軽い怪我人が出て事故として処理されます。聖女様がお感じになられた嫌悪と恐怖がきっかけで暴発したのでしょう」

「魔力が暴発するほど恐怖されるなんて、おいたわしい……」


 淡々と講義のように説明するクリストフと、思いやってくれるアンヌ。

 今は二人の気遣いがありがたかった。


「あの、私はなにか罪に問われますか?」

「え?」


 雨音が気になっていたことを尋ねると、クリストフは驚いた声を上げた。


「事故とはいえ、王弟殿下を気絶させてしまいましたので……」


 この国は王権国家で身分制度が社会に組み込まれている。

 どんなにいけ好かない人物でも王弟は王弟。

 その人物に危害を加えてしまったことは事実なので、何かしらの刑罰が課される可能性は多分にあると雨音は考えていた。


「最終的には宰相閣下と将軍閣下の判断になりますが、殿下は普段からの素行の悪さもありますし何より、あなた様はこの世界を救うべくランダール神に遣わされた聖女です。古来より聖人を害そうとするものは処刑が通例となります。聖女様が罪に問われることはないでしょう」


 クリストフの言葉に安心するとともに、この世界での聖人の扱いが予想以上で雨音は目を白黒させた。

 害した、ではなく、害そうとする、だけで処刑。重すぎる。

 新しく聞かされた事実に呆然としていると、扉がノックされた。

 クリストフが対応して入って来たのは甲冑を来た警備兵で、警備隊長と名乗った。

 ここに王弟が侵入したことはすでに聞いているらしく、表情は硬い。

 

「今夜の警備はどうなっていましたか?」


 クリストフが尋ねる。


「通常通りの配置で警備をしておりました」

「私がこの部屋に着いた時、廊下には警備の者がいませんでした」


 食堂から戻った時には扉の両脇に二人、警備兵がいるのを見ていた雨音は、どういう事だろうと首を捻った。

 

「私に同行していたのは他の場所で警備にあたっていた者達です。人手が必要になることを予想して同行を命じました。元々この部屋を警備していた者は?」

「は、それが、王弟殿下に配置を外れるよう命じられ、持ち場を離れていたようです。その二名は現在、拘束しております」


 王弟が易々と寝室まで侵入できた理由はそれか、と警備隊長以外の雨音を含めた三人はため息を吐いた。

 

「申し開きのしようもありません。騎士階級の者でしたら拒否も出来たのでしょうが……」

「平民の多い警備兵では難しいでしょうね……。それも含めて、この件は私から宰相閣下に報告します」

「あの、宰相閣下に報告されるのでしたら、私からも一つ」


 立ったままこちらを見るクリストフを雨音は見つめ返した。


「夢でランダール神にこう告げられました。私が純潔を失うと、聖女としての力も失うと」


 嘘だ。

 あの神様はそんなことはひと言も口にしていない。

 だがもう、あんなに怖くて気持ちの悪い思いをするのは嫌だった。

 王弟が侵入に成功したと聞きつけて、同じ目的の男たちに毎晩のように寝室を襲撃されるかもしれないと怯えるのも嫌だ。

 聖女の力がなくなると思わせ、警備を厚くさせたかった。

 こちらに来たばかりの聖女が力を失って利用価値がなくなるのは、クローツとしても避けたいところだろう。

 嘘をつくことに躊躇いはあったが、自分を守るためと雨音は割り切った。


「承知いたしました。宰相閣下にはそのように」


 クリストフが頷く。

 多分、彼には嘘がバレている。

 先ほど夢でランダール神に会ったと話した時に何故言わなかったのかと、疑問に思われて当然だ。

 それでも頷いてくれた。

 安堵した雨音が目礼すると、クリストフは全て分かっているように微笑んだ。


「それでは、私はこれで失礼いたします。明日……いえ、本日午後は魔術の講義を予定しておりましたが……」

「お時間が許すようでしたら、予定通りお願いできませんか? 何かしていた方が落ち着きますので」

「では、予定通りに」


 クリストフと警備隊長はお辞儀をすると退室していった。

 隔離されている王弟はクリストフが王宮に連れ帰り、警備隊長は別の警備兵を増員して付けると言っていた。

 正直扱いに困るので王弟を回収してくれたのは嬉しいし、警備兵もいないよりはいた方がよっぽど良い。

 一息ついた雨音はソファの後ろに立つアンヌに振り返った。


「アンヌ、今話したことですが……」

 

 アンヌも雨音の嘘に気付いているはず。

 そう思っていた雨音にアンヌは膝を折った。


「私ども侍女がお仕えしているのは聖女様でございます。聖女様が仰ったことが私どもの全てでございます」

「……ありがとう」

 

 不安は残るが少なくとも二人は雨音の味方がいる。

 よかった、と雨音は滲んだ涙を瞼を閉じて隠した。


 暖炉の上の時計は午前二時を指している。起きてから体感で二時間くらい経過しているはずだ。

 これからどうしよう。

 寝室は使えないし、ここで夜が明けるまで座っているのだろうか。

 雨音がぼんやりと考えていると、扉がノックされてタバサが入って来た。


「お待たせいたしました。別室をご用意いたしました」


 どこに行ったのだろうと思っていたら、タバサは別の部屋の用意をしていたらしい。

 部屋を滅茶苦茶にしてしまったせいで余計な仕事を増やしてしまったな、と思いながら代わりの寝室に移った雨音は、侍女たちが勢ぞろいしているのに驚いた。

 どうやら総出で準備してくれたようだった。

 急きょ起こされたのだろう、ベルはどこか眠そうにしている。


「一階のお部屋で申し訳ないのですが、他に私たちが詰められるお部屋がないもので……」


 タバサが言うのは夜間に侍女が待機する部屋のことだろう。

 今回はその部屋があったことでかなり助かったので、侍女の部屋があることにこだわるのは仕方ないと言える。

 警備兵も一緒に移動してきてくれていた。


「いいえ、こんな時間にありがとうございます。……明日の朝は少し遅く起きてもいいですか?」

「ええ、勿論でございます」

「では予定より二時間遅く起こしてください。その分、皆も遅くて構いません。きちんと寝てください」


 仕事に寝不足が大敵なのは雨音も良く知っている。

 侍女たちの顔が幾分明るくなったのが見えた。


「承知いたしました。警備の者を増やしたとのことなので、安心してお休みくださいませ」


 タバサが膝を折ると他の侍女たちもそれに倣い、しずしずと寝室を出て行った。

 雨音は整えられたベッドに座って体を後ろに倒す。

 体重を受け止めたマットレスの柔らかさは最高だったが、完全に目が冴えてしまっていた。

 それでも体は休めておこうと、室内履きを脱いでベッドに入る。

 サイドテーブルで灯されているランプは少し迷って点けたままにした。

 結局のところ雨音は深く眠ることができず、夜明けごろになって少し微睡んだだけだった。

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