第3話

 やっとのことで礼服の着付けまで終わると、雨音は気疲れでグッタリとしてしまった。

 全てお任せでやって貰ったとはいえ、姿勢を崩さないようにだとか、顔を下げないようにだとか、色々と気を遣うのだ。

 服はドレスではなく、神殿長達が着ていたのと同じく白い豪華な刺繍のあるローブだった。

 コルセットで締め付けられないのは嬉しいが、足先まで裾が伸びており、踏んで転ばないか心配になる程だ。

 その上、頭に大きな白いベールを二枚も被らされた。

 内側からベールの外はうっすらと見えるが、外からこちらの顔を見ることは出来ないだろう。


 何故こんなものを、と思ったが、将軍が国王に雨音の顔を見せないよう言っていたのを思い出した。

 ローブの男性が案内の女性に耳打ちしていたのはこの事だったのか。

 理由は分からないが、王様に顔を見せるのはあまりよろしくないのだろう。

 愛妾がどうのと言っていたので最悪、囲われる可能性があるのかもしれない。

 例え相手が王様であっても愛人にされるのは御免被るので仕方がない。歩きづらいのは我慢することにした。


 そろりそろりと移動した部屋の玉座にはまだ国王はおらず、雨音は歩きづらさを見越して手を引いてくれた女性に促されるまま、身支度の間に教えられた姿勢を取った。

 両腕を胸で交差させて手を肩口に置き、片膝を立ててしゃがむ。

 地味に辛いこの姿勢は王に対する礼だという。

 顔を伏せるのも礼儀だというので、目に入るのはベールの向こうに透けて見える絨毯だけだ。


「国王陛下、ご入室!」


 いくらも待たないうちに国王入室の声が掛かる。

 同時に、どこか落ち着きのない衣擦れと気配が入室して、玉座のあたりで止まった。


「あー、そなたが聖女か」


 こちらに関心の無い、ぞんざいな口調だった。


「アマネ・ウスイと申します。国王陛下におめもじ叶いましたこと、光栄に存じます」


 これまた教えられた言葉をそのまま口に乗せる。

 雨音にしてみればほぼ死語のような敬語だ。


「うむ。存分に励めよ」

「承知いたしました」


 雨音が全て言い終わらないうちに立ち上がったのか衣擦れが聞こえ始め、やがて扉の閉まる音がした。

 国王はどうにも忙しない人だなという印象だった。

 顔すら見られなかったので、たったこれだけのために大仰な身支度をさせられたのかという徒労感もある。

 部屋の隅に控えていた女性に再び手を取られて退出し、連れて行かれたのは最初に通されたのとは別の部屋だった。

 対面式のソファのひとつに座り、ベールを外されてほっとひと息ついていると、お茶と小さなお菓子が盛られた皿がサイドテーブルに置かれた。


「この後は宰相閣下、王弟殿下、魔術技師長との面会になります。しばらくおくつろぎ下さい」


 お茶を用意してくれた女性がこれからの予定を説明してくれ、雨音の後ろに控えた。

 手を引いてくれた女性はベールを持つと素早く退出していった。

 世話になった礼くらいは言いたかったがそんな隙はなかった。

 喉が渇いていたので雨音はありがたくお茶に口をつける。お茶はとてもいい香りのする紅茶だった。

 こちらにも紅茶があったのかと驚くと同時に、空腹のままこちらの世界に召喚されたのを思い出す。

 途端に体に感じる重さが増した。緊張が続いて忘れていただけらしい。

 残業上がりの疲労困憊はこちらに来たことでリセットされたわけではなかったようだ。

 そう考えると、見た目は変わっても体自体は変わっていないのだなと雨音は納得した。


 ふらふらと室内の内装に視線を走らせていると、そういえばこの建物、国王が居て謁見の部屋があるということは王宮なのかもしれない、という結論に雨音はやっとたどり着いた。

 自分では冷静なつもりでも、意外といっぱいいっぱいだったらしい。

 疲れを小さな溜息で吐き出した雨音の耳に、ノック音が届いた。

 急いでカップを戻して居住まいを正していると、入ってきたのは体の細い、くすんだ金髪の男性だった。

 出迎えるために雨音は立ち上がる。


「クローツ国宰相、バルトロメウス・グリス・ホーファーだ」


 膝は付かなかったが、礼をした後に上げた顔は神経質そうだった。


「アマネ・ウスイと申します」


 会釈すると宰相はソファを軋ませる勢いで座った。雨音も座り直す。

 控えていた女性が、宰相が座るソファのサイドテーブルに紅茶を運ぶ。

 宰相は確か、政務関連のトップだったか。雨音は記憶の底の知識を引っ張り出した。


「まずは召喚に応じていただいたこと、感謝する」

「すべてはランダール神のお導きです」


 なので応じる応じないも私の意思じゃありません。

 そう言いたいのを雨音はぐっと堪える。

 なるほど、こちらの人からすれば、雨音は望んで聖女として召喚されたことになるらしい。


「これからのことだが、迎賓館に部屋を用意した。当面はそこで生活して貰うことになる」

「はい」

「魔術について知っていることは?」

「何も。魔術が空想の産物である世界から来ました」

「では教師を付ける。治癒魔術と浄化魔術を早急に習得して欲しい」

「承知しました」

「不足しているものは侍女を通してくれ」

「かしこまりました」


 将軍も酷かったが、宰相も中々に酷かった。

 雨音の心情をくみ取ることなく、一方的に話が進められていく。

 突然知らない世界に放り出された混乱も、聖女に祭り上げられた困惑も、ないものとしている。

 そんなものが雨音の中にあることすら考えていないのだろう。


「それから、貴殿の容貌は人を惑わせる。軽率な行動は厳に慎んで頂く」

「……承知しました」


 神殿長が言っていた尊敬と敬愛。それらが裸足で逃げていくような物言いに苦笑したくなった。

 この宰相は雨音を聖女としてコントロールし、利用することしか考えていない。

 使えないと判断すれば容赦なく切り捨てる類いの人間だ。

 さっさと話を切り上げたくて頷いた雨音を従順と見たのか、宰相は言いたいことだけ言うと退室していった。


 ひと息つく間もなく入室してきたのは、宰相よりも細身で暗い茶髪の男性だった。

 ゴテゴテとした装飾過多な服装に、次の予定は王弟だったか、と雨音は言われた予定を思い出した。


「いやはや、これは聞いていた以上の美貌。私の寝室に侍ってはくれないかね」


 初手からセクハラである。

 名乗ることもなく勧めてもいないソファにどっかりと座り、だらしがない顔でこちらに身を乗り出した。

 雨音の後ろの女性が来客用の紅茶を取り替える。


「聖女の勤めがございますので、ご希望には添いかねます」

「そんなもの、片手間に片付けられるだろう。どこか遠出でもしないか? ん?」

「私の予定につきましては、神殿にお問い合わせ下さい」


 神殿が雨音をどの程度庇うかは未知数だが、聖女の管轄が神殿である以上は雨音も迂闊な口約束は出来ないし、神殿長の聖女に対する言動を考えると王弟の無理な要求は渋るだろうと予想された。


「ちっ、そんなお堅いことでは男に好かれんぞ。女は可愛げあってのものだ。まあいい、神殿など王弟の私がひと声かければ勝手に口を縫い合わせる」


 セクハラ、モラハラ、パワハラの役満。

 こんなのが国王の弟なのかと雨音は呆れた。

 その上、手を握られそうになったので躱すと、代わりとばかりに膝頭を撫でまわされた。心底気持ちが悪い。


「なあに、悪いようにはしない。素直にしていればイイ思いをさせてやる」


 なおも撫でられている膝から、ぞわぞわと嫌な感覚が這い上がってくる。


「まだこちらに来たばかりですので、作法も知りません。不調法をしてしまうかと」

「心配するな、手取り足取り私が教えてやろう」


 ニンマリとした表情が何を考えているのか分かってしまい、気色悪さに吐き気がした。

 平手でも見舞ってやろうかと雨音が身構えた瞬間、扉がノックされた。


「どうぞっ」


 この際、王弟を止められるのなら誰でも良かった。

 どうかコイツをつまみ出してくれる人が入って来ますように!


「失礼いたします。おや、殿下」


 入ってきたのはパステルグリーンの髪の四十代くらいの男性だった。

 雨音の祈りが届いたのか、親しげに王弟に声を掛けたので、止めてくれるかもしれないと微かな希望が雨音の心中に差し込む。

 元いた世界ではあり得ない髪色のその男は、王弟に触れられている雨音を見ると目を細めた。


「初対面の女性に触れるなど、褒められたことではありませんよ」

「クリストフか。何の用だ」


 王弟の顔があからさまに、邪魔しやがってという表情に歪む。


「聖女様の教師役を申し付けられましたので、ご挨拶に。それよりも殿下、妃殿下がお探しでしたよ。早く向かわれませんと……」

「わ、分かった、すぐに行くっ」


 このハラスメント王弟、既婚者だったらしい。しかも恐妻家。

 いいことを聞いたな、と雨音は溜飲を下げた。

 退室の挨拶もそこそこに、王弟は部屋を出て行った。

 残された雨音とクリストフと呼ばれた男性は、顔を見合わせて苦笑する。


「魔術技師の方でしょうか」

「ご挨拶が遅れました。クリストフ・フーベルト・リューメリンと申します。魔術技師長を拝命しております。この度、聖女様の魔術の教師役を仰せつかりました」

「アマネ・ウスイです。助かりました、ありがとうございます」

「とんでもない。陛下も殿下も、美しい女性と聞くと見境がない方々なので、もしやと思い失礼ながら闖入した次第です」

「ああ、それで……」


 国王に会う際、顔を隠していたことを話すと、クリストフは重々しく息をついた。


「その件に関しては将軍閣下の判断は正しかったかと。陛下は先程、愛妾達を連れて離宮へ向かわれました。聖女様のお顔を陛下がご覧になられていたら、同行するようお命じになったでしょう」

「そうですか……。あ、すみません、どうぞお掛けになってください」


 国王、王弟、宰相、将軍と、四人の人となりと考えると、この国はあまり良くないのかもしれない。

 そんな国で聖女の勤めを果たすことはできるのだろうか。いや、まともに勤めさせて貰えるのだろうか。

 周りが雨音に聖女の勤めを期待しているのなら、足元が固まるまではその勤めを優先した方が自分の為になる。

 しかし、この環境でそれは可能なのか?

 つらつらと考えていると、雨音はクリストフにソファを勧めるのをすっかりと忘れていた。

 慌てて勧めると、クリストフは首を横に振った。


「聖女様の御前で座るなど、畏れ多いことです。どうぞお気になさりませんよう」

「そう、なのですか……」


 前二人の態度が態度だっただけに、よく分からなくなって、雨音は言い淀んだ。


「今のお立場に戸惑われておられますか?」


 雨音の困惑を見てとったクリストフが柔らかい口調で問い掛ける。


「はい……。私の国では立場の上下はありますが、身分制度は廃止されてだいぶ経ちます。知識としてはありますけれど、実感はありません。それに、こちらで言えば私は労働者階級の平民です。人の上に立つ教育は受けていません」


 召喚されてから今まで雨音は考えないようにしていたが、かしずかれてあれこれと人に世話されると快適さよりも、申し訳なさの方がどうしても先に立つ。

 こればかりは生まれ育った環境によるもので、平然としていろという方が無理な話だった。


「それでは、心構えだけでもお教えいたしましょう。魔術ばかりではなく、そちらも聖女様には必要と思われますので」

「ありがとうございます。助かります」


 ようやく雨音のことを考えてくれる人と出会えて、肩の力が抜けたような気がした。

 頼れる人がいるというのは心強い。


「それでは、明日また迎賓館でお目にかかります。本日はもうご予定はございませんので、ごゆっくりお休みください」


 そう言って、クリストフは退室した。

 彼とはうまくやっていけそうだ。


 もう予定がないなら、当面生活するという迎賓館に移動するのだろうか。

 そう思いながら淹れなおして貰った紅茶に口をつけていると、お仕着せのような服装の青年がやってきて、馬車で移動する旨を伝えてきた。

 馬車は初体験だな、と呑気にしている雨音に、青年は緊張した様子で馬車まで案内すると告げた。

 王宮からやっと出られる。

 窓から差す陽を確認すると、既に夕方になっているようだった。


「美味しかったです。ごちそうさまでした」


 雨音の後ろにずっと控え、紅茶を淹れてくれた女性に声を掛けると、女性は驚いたのかみはってから膝を折った。

 自分の立場や胸中がどうであれ、世話になった人への感謝を忘れるようにはなりたくなかった。

 王弟に絡まれていたのを止めず、ただ控えていただけなのも、雨音は特に気にしてはいない。

 恐らく使用人の彼女の立場では王族をたしなめるなど、出来るはずもないと理解しているからだ。


 お仕着せの青年の後に続いて部屋を出る。

 廊下を何度か曲がり、正面玄関であろう広間から外にで出た。

 玄関口には左右に降りる外階段が設置されており、その右側の階段を降りると、馬車が横付けされていた。


「お手を」


 青年が白い手袋に包まれた手を差し出してきた。支えに使え、ということのようだ。

 雨音は邪魔になるローブの裾を見苦しくならない程度に持ち上げ、青年の手を支えにして乗り込んだ。

 直ぐに扉が閉められて、程なくしてから手綱の音と共に馬車が動き出す。

 やっと一人になれた。

 座ったまま両脇の座面に手をついて、雨音は頭を下げた。


「はー……」


 自然と大きなため息が漏れでる。

 神様、異世界召喚、聖女、国王ほか重鎮、魔術、身分。

 こちらに来てから大体半日、見たものも、考えることも多すぎた。

 あちらでアパートに着いたのが二十三時過ぎだったはず。そこから更に半日と考えると、完全に超過労働だった。

 緊張で半分麻痺していた疲労が、どっと襲い掛かってきた。

 これ以上は表情を取り繕うのも難しい。

 そもそも、召喚される前から雨音は疲労困憊していたのだ。

 ガラガラという車輪の音に反してあまり揺れない車体に感謝する。

 激しく揺らされたら吐いていたかもしれない。


「ごほっ……ぐ、ぅ」


 現に軽く嘔吐いてしまい、雨音は手で口を覆った。

 反射的に涙がにじむ。

 眉を寄せて荒い息を吐き、早く目的地に到着することを祈った。

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