第6話 婆不幸娘
「ばあちゃん、どっか行くって言ってなかったけぇ?」
私の横で、車のジャッキを操作しているじいちゃんが、唐突に聞いてきた。あたしは、十字レンチを両手で回しボルトを緩めながら、朝食の時に交わした会話を思い出す。
「ん~……と、病院行くって言ってた、かな。……予約してたって」
返事をしながらも、あたしの手は止まらない。やがて、タイヤのボルトが四本とも外れて拘束を解かれた冬タイヤ。しかし、冬の間ずっと役目をこなしていたタイヤは、固着していてそれだけでは外れてこないのが定石。このタイヤも、当然のように貼り付いたままだ。あたしは、拳骨で軽くタイヤの横っ腹を小突いてやる。すると、小気味の良い音を立ててタイヤは外れ、私の手に去就を委ねてきた。
例年であれば、五月の連休が過ぎるまで雪の不安があるこの地方。しかし、今年は気温の上がり方がいつもと違って、まるで夏のような様相である。お陰で、タイヤ交換をするあたしも、隣でジャッキの上げ下げをしているじいちゃんも、揃って半袖姿である。まだ四月だと言うのに……。
「んじゃあ……、これ済ませねえと乗っていけねぇな」
今交換しているのは、ばあちゃんの車。
毎年、タイヤ交換はあたしの担当なのだ。以前は、全部じいちゃんがやってくれていたのだが、近年では身体が堪えると言ってあたしに任せることが多い。
未交換のタイヤは、残り一本。
最後の交換タイヤの残り溝を確認した後……あたしは交換作業を始める。
この作業は、難しくはないのだが気をつけなければならない事が何点かある。それについては、幼馴染の整備士の男の子から詳しく聞いていた。お陰で、この交換作業だけはちょっと自信があるのだ。自分でやれば、お金の節約にもなる。
田舎に住んでいるだけあって、うちでは一人一台車を持っている。全部クルマ屋に頼んだらそれだけで二万円くらいはかかってしまうだろう。都会の人が見たら、なんて無駄なことを! と思われるのだろうが……。田舎に住んでいると、車が使えない生活など想像もしたくない、それほどに不便なのだ。歩けばいいじゃないか、などと宣う人もいるがこんな田舎で歩いて用足しをしていたらそれだけで一日が終わってしまう。車での移動は、いわば時間を買っているようなものなのだ。
「……これ終わったら、あたし送っていこうかな」
最後の一本の交換が終わり、テスト走行をして異常がないかを確認する。そのあと、もう一度増し締めだ。これも、例の男の子に教わった大事なことだ。
「あー、そのほうがいいが……。さて、素直に送らせてくれるかねぇ……」
じいちゃんが、ため息交じりにそんな事をいう。そしておそらく、二人共が同じ懸念を抱いているだろう。
ばあちゃんは、とにかく自分のことは自分でしないと気が済まない人だ。そのため、たまに送っていってあげる、と言っても「いい、自分で運転する」と言って聞かないことが多かったのだ。最近では、流石に運転に自信が無くなってきたのか送迎させてくれる事も多くなってきた。しかし、自身に関わること……特に通院に関してだけは自分で行くと言って聞かないことも多かったのだ。
あたしは、
ばあちゃんは、お世辞にも運転が上手な人ではない。これまで乗ってきた車は、無事に天寿を全うできた方が少ないのではないかというほど、よくぶつける人だったらしい。それでも、人をはねたり自分が怪我をしたりすることが無かったのだから、運がいいと云うかなんというか……。
しかし、いつまでもそんな幸運に頼っている訳にもいかないだろう。最近では足の調子も悪くなってきている。……足が悪いからなおさら車が必要、というのがばあちゃんの弁であるが、そんな足で運転などさせられようはずがないのだ。
今はまだ、近所を移動するくらいなら大丈夫なのかもしれないが、それも時間の問題であろう。いつかはかならず来る、免許返納というイベントを前に心の準備をさせておくことが必要だろうと、あたしは密かに考えていた。
それには、ばあちゃん自身が「送迎される」ことに慣れてもらう事が必須であると、あたしは思い至ったのだ。
べつに、ばあちゃんは運転が好きな訳では無い。誰かに頼んでどうこうしてもらうという……
タイヤ交換を終えて、空気圧も確認。
そこまで終えて、ふと顔を上げると、ばあちゃんが着替えを終えた姿が家の窓から見えた。
「ばあちゃん、送っていくからちょっと待ってて~」
あたしは、窓越しにそう声をかけた。何かしら聞こえたようではあったが、たぶん内容までは伝わっていないだろう。最近では、耳も遠くなってきているのだ。
それでも、テスト走行に出ている間は待っていてくれるだろう。なにしろ、ばあちゃんはこの車しか運転できないのだから。そう思って、そそくさと車に乗り込み近所を軽く流して走らせてくる。……その後、再びタイヤのボルトを増締めして、タイヤ交換作業は完了だ。
……………………
「それじゃ、行ってくるね」
「ああ、気をつけてなぁ」
留守番のじいちゃんに声をかけて、ばあちゃんと二人車に乗って出発する。
今年は件の通り気温がすこぶる高い。家の前の桜は例年になく開花の兆しを見せており、梅は既に散り始めているほどだった。
少し走ると、道路脇で電話線工事の車両が停まっており、誘導員が旗振りをして通行車両を誘導していた。その脇を通り抜けたところで、不意にばあちゃんが声を上げた。
「あ……手帳忘れた……!」
手帳というのは、血糖値の測定結果を記録しておく手帳だ。病院に行くときは毎回持っていくものだと思っていたが、ばあちゃんは「成績が悪いから見せたくない」らしく、病院から言われない限りは持っていかないようにしているそうだ。
「あ、うん。戻る?」
あたしは、声を掛ける。
するとばあちゃんは残念そうに、うん……、と首肯した。
あたしは、すぐ脇の他人の家の入口を使って車を反転させる。他人の家の前で、こういうことをしても怒られないのが、田舎のいいところだ。なにしろ、村全体が顔見知り。知らない人間など一人もいないのだから。
もともと、忘れ物の多い人だったが、最近は特に多い。こういう事があるから、ばあちゃんは人の世話になりたくないらしい。一人で運転しているなら、腹は立っても自分で引き返せば済むことだ。だが、乗せてもらっていると罪悪感が先に立って言い出せないこともあるという。しかし、こういう部分まで含めての「慣熟期間」である。あたしは努めて、苛立ちを見せないように、感じられないように振る舞う。あたしが苛立ったように見えたら、ますますばあちゃんは自分で行くと言い張るだろうから。
ばあちゃんの慣れでもあり、あたしの慣れでもあるなと、この時は認識を新たにした。
家に戻ると、じいちゃんが笑って出迎えた。
「ずいぶん早かったなぁ、はははっ」
もちろん、理由など分かっているだろう。家に慌てて飛び込んでいったばあちゃんに「何忘れたんだ?」と声をかけている様子が伺えた。
ばあちゃんが戻ってくるまでに、車を反転させておく。一連のこの手の作業は、とにかく面倒臭さが先に立って、ものすごく時間がかかったように感じられるが、実際のところは大したことが無い。先程の引き返したところまで戻っても、五分と失っていまい。
もう一度、今度は忘れ物がないか確認して、再び病院を目ざして走り出す。
先程の工事中の誘導員が、少し好奇の目でこちらを見ているのが分かったので、あたしはにこやかに会釈をして通り過ぎた。
「あの車なにしてんのだろ、って思ってるだろなぁ」
と、ばあちゃんが少し恥ずかしそうに笑っていた。これで、誘導員の前を都合三度も通ったことになるからだ。
「余計に旗振らせた分、お金払おうか」
と、あたしは冗談を含めて笑って返すと、ばあちゃんもそれにつられて笑っていた。
道中、何事もなく……隣町の交差点まで来て、信号待ちをしていると───。
「あや~、
ばあちゃんが、道路脇を見て歓声を上げた。
あたしもその方向を見ると、おそらく歩き始めたばかりであろう、小さな子供が母親に連れられてよちよちと歩いているのが見えた。
「
その子はあたしの、膝上くらいしかない、ほんとうに小さな男の子だった。
あやぁ……いやぁ……と、ばあちゃんは変な感嘆の声をあげながら、車が走り出して見えなくなるまでその親子の姿に見入っていた。
その親子の姿を……あたしは黙って横目に見送った。
ちいさなちいさな……子供に、心が動きそうになりつつ、あたしにはその母親の姿を真っ直ぐに見つめることができなかった。
あたしには、結婚する意志がほぼ無い。自分のような引っ込み思案で屈折した人間が、誰かと所帯を持つなど想像もできないからだ。
当然、子供も持つことはないだろうと思っている。
その事は、ばあちゃんたちも知っていることだ。だが、それで納得しているわけでは、もちろんないだろう。ひ孫が見られないというのは、ばあちゃんにとっては容認できないことであろうから。
だが、あたしはばあちゃんのために結婚したり子供を持ったりということは、たぶん出来ないと思う。世間体を一切気にしないあたしの性格は、ばあちゃんたちも分かっているとは思う。だが、それで諦めきれるかというと、そんなことはないのだろう。
ばあちゃんのため、などと言ってはいたが……この送迎だって、実際は贖罪……いや、そんないいものじゃない、言い訳のためにやっていることだ。
人並みの歓びを、祖父母に提供することが出来ない、あたしなりの言い訳。
そうでもしなければ、あたしはこの家に居る資格は無いだろう。稼ぎもろくに無く、結婚もしない……。そんな娘を飼っておく余裕など、本来うちにあるはずがないのだから。
「───さくら、満開だねぇ」
あたしは、自分の心に湧いた黒い思考と後ろめたさを追いやるために、道路脇に咲き誇っている桜に縋った。
「あぁ……、やっぱりこっちは早いねぇ」
ばあちゃんも、知ってか知らずか、それに応じてくれた。
桜の色に、罪悪感を感じるあたし───。
これももう、毎年のことだ。
あたしは、親不孝者、ばあちゃん不孝者だ。
それは間違いない。
そんなあたしが、言い訳をしながら春を迎えることに、どうかしばらくは気づかれませんように……と、ハンドルを握りながら願わずにはいられなかった。
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