第5話 渡り鳥両親
くこー、くこー、くこー………
空の彼方、山に反射した艶のあるハスキーな調べが、幾重にも聞こえてくる。
この時期になると、朝夕はひっきりなしにこれが聞こえてくるようになる。云わば風物詩であろう。彼らの声は、家の中にいても聞こえてくるほど、深く鮮明だ。
「……お? どこだどこだ」
朝食中にも関わらず、箸を置いてじいちゃんが家の外に飛び出していく。つられて私も、お茶碗を置いて一緒に外に出た。
日が昇ったばかりの空は、雲ひとつ無いほど澄んでいる。まだまだ空気はひんやりとしているが、風は無く穏やかである。彼らにとっても絶好の飛行日和であろう。
くこー…くこー…くこ~……
鳴き声は響き渡っているが、姿が見えない。
じいちゃんと二人で、空を見上げたまま辺りを捜索する……。
「あ! いたいた。……じゅう、に羽……かな」
「……おぉ~、見えた見えた! あぁ…向こうにもいるな……」
あたしたちの視線の先、青い空に弧を描いて朝日を浴びる一団が、東から西へ……。
彼らは毎朝のように、うちの前の空を飛んでは何処かへ飛び去って行く。
そして、夕方になるとまた西から東へと帰っていくのだ。
春が近づいたため、白鳥の群れが北を目指す準備を始めるのだろう。毎朝のように往復しているので、本格的な「渡り」ではなく………おそらくは、準備だろうと思う。
「どぉれ……、どこだい?」
ばあちゃんも、遅ればせながら窓を開けて、その姿を見ようとしている。
あたしは、指さしてその群れの方向を教えてあげた。
「あぁ~、見える見える………。今朝は、いっぱいだね」
三人で、その姿を眺めて数を数えたりしなながら、しばらく空を見上げていた。
うちのある場所は、ちょうど白鳥の飛行するルート上にあるのだろう。冬間近と、今のような春が近づく頃。頻繁に彼らが上空を飛んでいくのを観察することができるのだ。
別に珍しいものではないが、見かけるとなんだか得した気分になってしまう。
営巣地が近いわけでもないので、普段は全く見ることのない鳥だということも手伝ってか、うちの家族はみんな白鳥が好きだ。
……いや、一人だけ。兄はあんまり興味が無いようではあるが。
渡りというのは、単純に言えば食べ物と住むところを求めて生息地を移転する行動である。
鳥の他にも、海に下る魚類なんかの生態は渡りに分類されるのかもしれない。
魚類のそれは、成長段階に合わせて一生のうちに一度の移動(若しくは一往復)に限定されるものである。渡った先で命を終える、ということもあるだろう。
一方の渡り鳥は、周期的で多くは一年に一度のサイクルで概ね決まった場所への移動を繰り返す生態だ。渡った先で、新たに伴侶を見つけ新たな命を生み、そしてまた故郷の営巣地へと帰ってくる………。
そんな、渡り鳥の生態に想いを馳せていると──ふと、自分の両親のことを連想してしまった。
「───母さん、今年は帰ってくるのかな?」
あたしが何気なくつぶやく。すると、それを聞いたじいちゃんはあからさまに不機嫌そうに、
「ふんっ。来るんだか来ないんだか……いつもはっきりしないやつだよ、あいつぁ………まったく」
そう言って憤慨していた。すると、ばあちゃんの方は愉快そうに……。
「はっはっはっ……。気が向いたら、帰って来るべぇ。連絡くらいは寄越すべぇよ」
そう言って笑っている。好対照である。
───あたしの両親は、はっきり言って変わり者の部類に入るだろう。
うちの家族構成を知った人は、大抵が……子供を捨てて何処かに消えた、ダメな親を想像するだろう。実際、半分はその通りなのだから仕方がないだろうけど。
だが、その手の問題親と決定的に違うのが、「家族全員がそれを了承している」という点だ。(じいちゃんはどうか知らないけど……)
うちのじいちゃんばあちゃんの子供は四人いるのだが、その全員が女で男は一人もいない。その為、長女であるあたしの母親が婿を迎える形で結婚し、家にそのまま住んでいたそうだ。
両親とも、最初はうちに住んで一緒に暮らしている普通の親であった……らしい。
だが、もともと周囲に人がいることがあまり好きでなかったらしい母親は、出稼ぎと称してちょくちょくアパートを借りて隣町などで一人暮らしをすることが多かった。うちに、残されたことになる夫の……私の父は、しばらくは義理の両親であるじいちゃんばあちゃんと同居しながら生活していたのだが、やがて母を追ってアパートに転がり込んで、向こうで楽しく暮らし始めた。
あたしが生まれたのは、両親の生活の軸足が隣町に移ってからなので、正直な所……一緒に暮らしていた記憶は殆ど無い。たまに家に来て、ご飯を食べて楽しく会話してお金を置いてまた去っていく、という程度の印象である。
誤解しないでいただきたいのだが、家族間の関係性はすこぶる良好である。気まずいとか、あまり会いたくないとか、なんなら嫌い……なんてことは全く無い。
いや、次男(三人兄妹で、兄とあたしの間に一人男子がいる)は母に似たのか、あまり関係性は密ではなく、彼は高校を出ると一目散に東京へと出ていった。別に仲が悪いわけじゃないのだが、あいつも変わり者だからいまいち何を考えているのか……わからないところがあるのだ。
両親は、普段家にいないだけでその他の点ではむしろ優秀と言っていい人間だ。仕事もそつなくこなすし、人柄もいい。なにより、あたし達家族にはちゃんと生活費として毎月仕送りをしてくれる。
注目しなければならない点としては、別居しているからこそ関係性が良好である、ということが挙げられるであろう。
……実は、同居中の家族関係は、今ほどいいものではなかったらしい。
母は、神経質なところがあって、仕事と家庭の両立が上手くできずにストレスを抱えていることが多かったという。だから、仕事場である隣町に借家をして、そこで平日は暮らして週末に帰って来る、という生活スタイルにしてみた所、それにいたくハマったらしいのだ。
うちは、じいちゃんばあちゃんもいるし、あたしが家事をこなせるくらいの年齢になってからは、母は一年中家に帰ってこないという生活スタイルが定着していった。
だが、流石に婿である父だけを家に残しておくというのは酷な話だ。マスオさんだって、サザエさんが家に居てこそなのである。
で、そこはみんなで話して、「行っておいで」と母の元へ送り出してあげた、というのが現状なのである。
まぁ、小さい頃は両親が家にいないということで、変な目で見られることもあったのだが、あたしよりもっと大変な家庭事情を抱えた子だって、いくらでもいたのだ。
なにより、家庭内が円満であってくれるのだから、これほどありがたいことはないと思っている。世間体を気にして家庭内を険悪にすることに、一体どんな大義があるのか。……もし、世の頭の硬い連中がこれに異論を唱えるならば、小一時間でも問い詰めたい気分なのだ、あたしは。
昔、兄がいじめられたのも……いわゆる「おじいちゃん子、おばあちゃん子は三文安い」などということわざのイメージが悪く働いたせいだと思っている。それが証拠に、いじめに荷担していた奴らの親は、決まってうちの家族を中傷したり批難したりする人間だった。
子は親の背中を見て育つ……とはよく言ったものだと、その時は思ったものだ。
実際、甘やかされるどころか兄は家の仕事を率先してやってくれていたのだ。あたしが生まれてから、大きくなるまでは殆ど兄が家事をこなしてくれていたのだから……。
「───白鳥だって、年一回必ず返ってくるのに……あいつときたら……」
じいちゃんは、白鳥の飛び去った空を眺めながら、そんなことをぼやいて家に入っていった。
あたしは、全然……気にしたこともない家庭の事情だけれど、昔の人であるじいちゃんの世間体は、あまり良いものではなかったのかもしれない。そう思うと、少し不憫だ。だから、両親が出来なかった家族の普遍的な楽しさというものは、あたしが作り出すのが役目だと思っている。
別に、あたしは世の中の物差しに沿った幸せの形なんか、これっぽっちも欲しいとは思っていない。自分で納得しているのだから、せめて世間のくだらない固定観念であたしのささやかで幸せな暮らしに水をかけないでほしい、というのが願いだ。
「──気が向いたら、そのうち返ってくるよ。あ、今度来るときには果物とかいっぱい買ってきてもらおう。あたし、電話してみるから」
すると、これもお決まりの返事で……。
「電話代勿体ねぇから、いらねぇぞ。果物も、別に……」
じいちゃんは、そんな事をいう。
……素直じゃないところは、じいちゃんに似たのかな。
母の、本当は優しいところを思い出しながら、あたしも家に足を向ける。
入り際、振り返ってもう一度空を見上げた。東の空からは、登ったばかりの太陽が眩しい光を景色に注いでいた。
「うん、今日は天気がいいから、おふとんを干そう……。じいちゃん! 今日は、おふとん干すからね~」
あたしはそう言って、温かい家の中に戻っていく。
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