第37話 暁の羽化
「羽化のときに、その……星になったとしても、それは桜子のせいじゃないから」
桜子はふるふると首を横に振った。
「ちがうわ。そうなったら、あたしの責任よ。世話していたのはあたしなんだから」
「桜子の管理は問題なかった。途中、幼虫が逃げ出したりしたけど、おおむね上手くやってたと思う」
——それは、ゆっきーがアドバイスしてくれたおかげよ。
そう言おうとして彼の顔を見ると、沈鬱な表情をしていた。
「問題があるとしたら、桜子に渡す前の段階だ。あの時点ですでに不可逆的なダメージを負っていたかもしれない。事実、いっしょに渡した三頭のうち二頭はすぐ星になったんだから」
桜子は少し身を寄せて座った。
胸元からささやくようにして話す。
「ゆっきーはいつも考え過ぎよ。だいじょーぶ。パンテちゃんは生き残ったじゃない。あの子だけはダメージなかったのよ。だから羽化もきっとうまくいくわ」
「そうだね。ありがとう、桜子」
二人は夜通し、パンテちゃんのそばにいた。
春の夜がこんなに長いとは思わなかった。
時折り強い風が吹き、遠くで小さく雷の音がする。そんな春の夜だった。
電気をつけっぱなしにして文庫本やマンガを読み、眠気覚ましにコーヒーを飲んだ。
合間合間に羽化の様子を確認する。
まだ羽化は終わらない。
だが、確実に進んではいた。
ゆっきーはハンディカメラを設置して、羽化の様子を撮影し続けた。
しょぼしょぼとする目に淡い光が当たった。
窓を見ると、夜が白々と明け始めている。
窓から差す日の光を受けて、新成虫がうっすらとかがやきだした。
白みがかった金色のかがやきだ。
「きれい……」
羽化が終わりに近づいていた。
神秘的な光を放ちながら、ついにパンテオンの成虫が古い皮を完全に脱ぎ捨てた。
足が動き出す。
アゴをゆっくり開閉させる。
新しく生まれ変わった身体を確かめるかのような動きだった。
カラスの鳴き声が遠くに聞こえてきた。気がつけばすでに朝日は昇っている。
桜子は生まれて初めて完徹というものを経験した。眠気があるのにどこか頭は冴えている。妙な感覚だった。
羽化はもはやすべての行程を終え、白っぽい色素の足りない体を気怠そうに動かしている。
桜子は、羽化して目覚めたパンテちゃんと話をするのを心待ちにしていた。
「パンテちゃん、よくがんばったわ」
答えはなかったが、頭を少しもたげて桜子のほうに視線を向けたような気がした。
桜子とゆっきーは衣裳ケースをベッドの下からゆっくり引きずり出すと、緊張してこわばる手で蓋を外した。
パンテオン・ヴィルガオオカブトのメスの成虫が、二人の目の前にいた。
ゆっきーを始め、魔界からの依頼を受けた人たちのほとんどが失敗したカブトムシの羽化。
ゆっきーの手助けあってこそだが、それを飼育歴ほぼゼロの桜子が成しとげたのだ。
ゆっきーが「あぁあ」と感嘆の声を上げた。
パンテオンの成虫は、まんなかが大きく膨らんだラグビーボールのような形をしていた。
大きさは2リットルのペットボトルと並ぶ。おそらく30センチほどだろう。
額に伸びる一本の短い頭角、短いが太くがっしりとしたアゴは、サナギのときと同じだ。
目はつぶらでかわいらしく、その横でクシのような触角がぴこぴこ動いている。
胸にはサナギのときにははっきりしなかった何本もの小さな突起が、まるで王女のティアラのように並んでいる。
その下には虹色の丸い点がいくつもあり、これは本来甲虫にはないとされる『単眼』であろうか、さながらティアラを飾る宝石である。
外翅は鏡のように光を反射し、朝日を照り返して光り輝いている。
三対ある足のうち一番前の一対だけがやけに長く、先端のカギ爪が枝分かれして指みたいにぐっぱーぐっぱーと握ったり開いたりを繰り返している。
虫でありながら気品があり、どこか不可思議な特徴をそろえたカブトムシだった。
朝日を浴びて、成虫の体が少しずつ色素を帯びてきた。羽化したばかりの白色から、美しい琥珀色に――——!
「やったわね、ゆっきー」
「うん」
……カチャン。
外から物音が聞こえた。
振り返ると、待っていた客人がそこにいた。
窓から差し込む陽の光をバックに、派手な色合いの鳥がたたずんでいる。
「来たわね。今、窓を開けるわ」
桜子は窓を開くと、すぐにパンテちゃんを守るように寄りそった。
「ようやく顔を見せたわね、このエロ鳥」
「久しぶり、マジョルカ」
派手な鳥が、窓枠に足をかけた。
「アア、コウシテ話スノハ久シブリダナ」
面と向かって聞くのは数ヶ月ぶりになる、特徴的なボカロ声だった。
魔界の派手鳥は、翼を手のひらのようにして拍手をしてみせた。
バタ、バタ、バタ、バタ!
「イヤア、素晴ラシイ。『パンテオン・ヴィルガオオカブト』ノ羽化、見事ダ!」
「そりゃ、どーも」
「マサカ、ユッキーデハナク、桜子ガ成功スルトハナ」
「あたしひとりの力じゃないわよ」
「クケッ、謙遜スルナ。ダガコレデ、益々ハッキリシタナ」
マジョルカはひとりで勝手に納得した。
「はっきりした? なんのことよ」
桜子は首をひねった。
「ナンデモナイ。気ニスルナ」
「そう言われると、気になるじゃない」
「それはね、桜子」
ゆっきーが一歩進み出て答えた。
「『女のひとが飼うとうまくいく』ってこと。そうだろ? マジョルカ」
マジョルカは返事の代わりに、クチバシを交差させて、にまっと笑った。
「どうりでパンテオンのブリードがうまくいかないはずだよ。カブクワのブリーダーは大半が男のひとだからね」
たしかに、と桜子は思った。
自分みたいな女子の愛好家は、比較的珍しいかもしれない。
「カブトムシやクワガタは、こどもおとな問わず夢中になるのは、たいてい男だ。マジョルカたち魔界の依頼者たちは、結果的に男のひとにばかり頼んでいたはずだ」
マジョルカは、にまにま笑ったまま聞いている。
「女のひとにも依頼しはじめたのは、しばらくたってからだと思う。そしたらサナギまで成功するひとが出てきた。前に教えてくれた『サナギまで育てた三人のブリーダー』はみんな女のひとだった。たぶん、あのあとさらに成功するひとが出てきたんだろう。そのほとんど、もしくは全員が女のひとだったから、マジョルカたちも気づいたんだ」
マジョルカは大仰に翼を広げて、片目をギョロッと見開いた。
「ソノ通リ。ゴ明察ダ」
マジョルカはじろりと、神々しい光を放っているパンテちゃんを見た。
「モットモ、羽化ニマデ導イタノハ、桜子ガ初メテダガナ」
思わず桜子は会話に割って入った。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 男か女かで結果が変わるわけないじゃないっ」
「それが、そうでもないかもしれないんだ」
ゆっきーは一呼吸置いてから話し出した。
「男のひとの汗とかに含まれてる男性ホルモン、これがパンテオンの幼虫にストレスを与えているんじゃないかと僕は考えてる」
ポカンとした。
「は? だんせいほるもん?」
「男性ホルモンは、男のひとに多く含まれている化学物質のことだよ。テストステロンとかアンドロゲンとか。これは肉食動物からも分泌されてる。この臭いを嗅ぐと、小動物は野犬とかイタチとか天敵の臭いと勘違いして、強いストレスを感じてしまうらしいんだ。僕はパンテオンの幼虫も『男性ホルモン』の類いに強いストレスを感じるんじゃないかと思う」
おどろきのため桜子は目を見開いた。
「うっそ、まさかでしょ」
ゆっきーの顔を見る。真剣な表情だった。
「サナギまで育てたブリーダーが三人とも女のひとだった。偶然とは思えなかった。僕もまさかと思った。でも可能性はあると考えた」
「そう……それであたしに幼虫を託したのね」
「うん。そういうわけなんだ」
うなずくと、ゆっきーは話を再開した。
「パンテオンは魔界の森で最強だって言うけど、それは成虫だけの話で、幼虫はとても弱い。特に初齢幼虫は極端にストレスに弱くて、ちょっとしたことですぐ星になってしまう。男性ホルモンを天敵の気配だと感じたら、命の危機に陥ってしまうのは十分考えられる」
ゆっきーは魔界の鳥に質問した。
「マジョルカ、魔界の森にはオーガやトロール、ドラゴンがいるって言ってたよな? そいつらは、幼虫にとって天敵にあたるんじゃないのか?」
マジョルカは目を三日月にゆがめて、こくりと頭を縦に揺らした。
「肉食で、凶暴で、筋肉もりもりで、いかにも男性ホルモンばりばりって感じじゃないか。まったく同じ物質じゃなくても、似たようなホルモン様物質を分泌してるはずだ」
マジョルカはただだまって、ゆっきーの言葉に耳を傾けている。
「もちろん大事なことはほかにもある。サナギまで育てたというブリーダーたちも、成虫までは育てられなかったんだから……。初齢幼虫のときに摂取する微生物や、タンパク質も同じくらい重要なんだと思う。今回、パンテちゃんが無事羽化できたのは、運良く、たまたま、そういったいろんな推測とか試行錯誤がうまくいったからだ」
マジョルカは感心したように「ウムッ」、とうなった。
「サスガ、ユッキー、ト言ッタトコロダナ」
桜子はあわてて疑問をはさんだ。
「ても、でも……、あたしが育てても二頭、星になったじゃない」
「それは夜中に話した通り、僕がすでにストレスを与えていたせいだよ。それに女のひとが育てたら絶対大丈夫ってわけじゃない。そもそも『土だんご』から取り出すこと自体、極度のストレスなんだ。たぶん、パンテちゃんは特別強い個体だったんだろうね」
魔界の使者、マジョルカは翼をバサっと広げて窓枠から部屋の中へ飛び降りた。
「考察ハ、コノ辺デイイダロウ」
頭を下げて舐め上げ、低い声を出した。
「サテ、本題ニ入ロウ」
「え、なに?」
「……」
「ソコノ、パンテオンノ成虫、私ニ渡シテモラオウカ」
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