第36話 徹夜で見守り

 三月の下旬。

 学校は春休みに入っていた。


 とうとう、その日がやって来た。


「ゆっきー! パンテちゃんが、羽化しはじめた!」


 今、およそ一ヶ月半ものサナギ期間をへて、パンテオン・ヴィルガオオカブトは成虫へ羽化しようとしている。


『わかった。僕はちょっとやることがあるから、そっちに行くのは少し遅れる』


「あたしひとりじゃ心細いわよ。早く来てよ、ゆっきー!」


 あせる桜子をゆっきーはなだめた。


『羽化が終わるまで、たぶん数時間から半日くらいかかると思う。すぐに何かあるわけじゃないから、あわてないで』


「それは、そうかもしれないけど……」


『先にいくつか準備しておきたいんだ。悪いけど僕が行くまでの間、パンテちゃんのこと、お願いしたい』


「うん……。でもなるだけ早く来てね」


『もちろん。じゃ、たのんだよ。何かあれば連絡して』


「了解」


 電話を切って窓から外を見た。

 現在、午後七時。

 すでに日は暮れている。

 春の強い風が吹きすさび、窓ガラスをガタガタゆらしている。

 桜子は一階のキッチンでコーヒーを煎れて水筒に入れた。父の栄養ドリンクも拝借する。

 今からだと、羽化は夜通し続くことになるだろう。

 徹夜して番をする。桜子はそう決めた。



 電話からおよそ三時間後、夜の午後十時。

 やっと、ゆっきーが御花見家にやってきた。

 彼はどこか疲れているように見えた。


「遅いわよ、何してたの、ゆっきー」


「遅れてごめん。桜子のお父さんとお母さんにも『こんな時間に?』って顔されちゃった」


 パンテちゃんの様子を見るために、ここ最近何度も訪れているので、ゆっきーと桜子の両親はすでに顔見知りである。


「あとで勉強会だって説明しとく。安心して、ちゃんと誤解がないように言っとくから」


「お二人とも、盛大に誤解してそうだったけど……」


 ちなみに姉は夜勤のため留守である。


 桜子が手を引いて部屋に上げると、なぜかゆっきーは顔を背けて体をちょっと離した。


「あ、ごめん、くさかった?」


 パンテちゃんから長く離れるのがいやで、今日はシャワーも浴びていない。

 恥ずかしくなって、自分の臭いをくんくん嗅いだ。


「いや、そうじゃなくて、服着て……桜子」


「ん? あ、ああ、あー、これね」


 桜子は家での普段着、つまり下着姿だった。


「実は家ではいつもこうなの。気にしないで」


「そうなんだ。でもやっぱり着てほしい」


「わかったわよ」


 いつもならちゃんと服を着てから会うのだが、パンテちゃんの羽化にテンパって、すっかり忘れていた。

 内心焦ったが、時すでに遅し。開き直ることにした。


 部屋に入るなり、ゆっきーは窓の外に目を向けた。

 桜子が上着を来てジャージをはく間もずっと、何かを探すように外の景色を見ていた。


「マジョルカは来た?」


「ううん、まだ」


 そうだ、羽化も気になるが、あの魔界の鳥の動向も気になる。


「羽化が始まったことに、あいつ、まだ気づいてないのかもしれない。でもこっちの監視をしているなら、そのうち気づくと思う」


「来たら、どうするの?」


「話し合い。それしかない」


 ゆっきーはベッドの下の衣装ケースを見た。

 パンテちゃんはサナギの皮を破り、少しづつ新たな身体を動かしている。


「羽化の最中に来ても、あいつだって何もできないはずだ。来るとしたら、羽化が終わって落ち着いたときだと思う」


 そしてそのときこそ、長い間待った魔界の使者との対決になる。

 桜子は強くうなずいた。



 こん、こん、とノックの音がした。


「ね、さくら、ちょっと」


「なあに、お母さん」


 ドアを開けると母が心配そうに立っていた。

 母の後ろには、父が眉間にシワを寄せて渋面を浮かべている(二人はちゃんと服を着ている)。


「お父さんとお母さんはもう寝るけど」


 母は娘を手招きした。

 桜子が近寄ると、母は声をひそめた。


「さくらたちは、何時まで起きてるつもりなの? 白藤くん、泊まらせてくださいって言ってたけど、ほんとに泊まってくの?」


「うん。今日は二人で徹夜するから」


「て……っ」


 母の後ろで父が悶絶した。


「だったら下にお布団しいとくから、白藤くんにはそこ使ってもらいなさい」


「ありがと、お母さん。でも、たぶんあたしの部屋にずっといると思う」


 父が手遊びしながら、あたふたしている。

 桜子は努めて、誤解がないように言った。


「今日はゆっきーと二人っきりで、徹夜で勉強会すんの。心配しなくても大丈夫だから。お母さんたちは寝ててね。急に入ってこないでよ」


 両親はそれを聞いて、そろって口をぱくぱくさせた。


「勉強……そうね、大事なお勉強よね」


 母はさらに手招きして桜子を近寄らせた。


「お父さんとお母さんも家にいるんだから、おっきな声出すんじゃないわよ」


「へ? わかってるわよ。寝てるところ、邪魔しないから」


「か、母さん、父さんはまだいいとは」


 額から脂汗を垂らして、父がぼそぼそと口をはさんだが、母は取り合わなかった。


「それと、さくら。あんた、持ってるの?」


「持って……る?」


 桜子は首をひねった。


「ほら、四角いシールみたいな、まるいものが入ってる、あれ」


「……」


 父が戸惑いをあらわにしている。

 泣き顔に似ていた。


「白藤くんでもいいんだけど」


「……はあ?」


 桜子は、両親がひどく誤解していることに気がついた。


「お母さんたち、もう行って! 早く寝て!」


 振り返って、ベッドの下の衣装ケースをチラ見した。

 パンテちゃんがサナギの皮の下でもぞもぞ蠢いている。


「こっちは緊張してんの! 変な話に付き合ってるヒマないから!」


「そうよねえ、緊張するわよね。そういう時は天井のシミを数え……」


「もーいーからぁ!」


「か、母さん、そんな、……くはっ、そんな、背中を押すような……はふっ、言わなくても」


 父は不規則で変な呼吸をくり返している。

 今にも気を失いそうだ。


「それで、持ってるの? なんならお母さんの貸したげるわよ」


「わ、わー、わー、わー!」


 耳を押さえて頭を振った。

 親のそんな話、聞きたくなかった。


 ふと気づくと、ゆっきーがそばに来ていた。


「僕、待ってますよ」


 父が泡を吹いて倒れた。


「ゆっきーっ!」


 なに言ってんのよおっ!


 思わず彼を睨んだ。

 母がゆっきーを凝視した。


「持ってるのね?」


「ブランケットは持ってきました。ここの床で寝ますので大丈夫です。おやつも飲み物も用意してあるので、どうかおかまいなく」


「……あらー?」


 父が手の甲で口元をぬぐいながら、力なく立ち上がった。


「ほ、ほら、白藤くんだって、そんなつもりじゃなかったんだよ、心配し過ぎ、気を回し過ぎだよ、母さん」


「はぁ」


 なぜか母は残念そうに首をかしげた。


 ゆっきーは一歩前に踏み出すと、


「実は、桜子さんが育てているカブトムシの幼虫がサナギから羽化しそうなんです。何時間もかかるので、いっしょについていてほしいと頼まれました。ご心配されているようなことはありませんので、安心してください」


 と、よどみなく説明した。


 両親は、おそらく無意識に、桜子の部屋のドアから後ずさった。

 姉が強烈過ぎるというだけで、父も母も普通に虫が嫌いなのである。カブトの幼虫と聞いて気味悪がったのだろう。


「そ、そうか、じゃあ、あとは二人で仲良くやんなさい。さ、母さん、行くよ」


「はー、つまんないわあ」


 父と母はようやく桜子の部屋を離れて、階段を降りていった。


「うまく説明したわね」


「本当のことだけどね」



 夜も更けて、十二時の日付けを回った。

 二人で静かに羽化を見守る。

 羽化のときにトラブルが生じることもあるようだが、正直そうなっても手が出せない。

 ここまで来ると、ただ見守り続けることしかできないのだ。

 幸いにして、今のところ羽化は順調に進んでいるようだった。


「もし……もしも、だけど」


「なあに」


「羽化のときに、その……星になったとしても、それは桜子のせいじゃないから」

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