第35話 来るべきときが
二月十四日。バレンタインデー。
「はい、ゆっきー」
「ありがと、桜子」
市販のチョコに、手作りの小さなトリュフチョコを添えて渡した。
あえて義理とか本命とか言わないが、ほかの人には渡していないので伝わるはずだと思う。
もっとも、今の桜子はそんなに浮かれた気分にはなれない。
「……まだわからないよ」
「うん……」
「またそっちに行く」
「うん」
気づかいはうれしかったが、桜子の心は決壊寸前だった。
ゆっきーと別れて、家へ続く山道を上った。
山道は葉を落とした木が立ち並び、寒々としている。
木の間を木枯らしが吹き抜けて、肩でそろえた髪を強くゆらした。
家に着くと、すぐに二階に上がって自室に入った。今日はゆっきーはいないので、遠慮なく服を脱いで下着だけになる。
桜子はベッドの手前に座って、重い気持ちで衣装ケースを見つめた。
「ね、パンテちゃん。さっき、ゆっきーにチョコ渡してきたよ」
部屋の空気は静かだった。
「そうだ、パンテちゃんにも特別に用意してあるのよ」
机の一番下の引き出しから、中型のプラケースを取り出した。
中にはハート型に盛り固めた土がある。
「ほら、これ。微細発酵マットで作った、特別製、バレンタインマットよ。中身は変わんないけど」
桜子は力なく笑った。
「どう? 喜んでくれる?」
———もう、返事は返ってこない。
異変が起きたのは、一週間前のことだった。
パンテちゃんはそれ以前からだんだんと動きがにぶくなり、食も細くなっていた。
そしてしきりに『ねむい、ねむいよぉ』とくり返し、ある日突然、土の奥に潜ったかと思うと壁際に大きな空間を造り始めたのだ。
唾液と(うんこと)マットの土を混ぜて粘土のようにして塗り固めた空間、サナギの部屋――『蛹室(ようしつ)』であった。
その蛹室で横になったあと、パンテちゃんは奇妙な運動をし始めた。
前後に体を曲げたり伸ばしたり、それは人間の腹筋運動に似ていた。
桜子はとうとうこの日が来たかと、心配しながら見守った。
それはゆっきーから前もって聞いていた、サナギになる直前の状態、『前蛹(ぜんよう)』になったのであった。
もうパンテちゃんは話しかけても答えなくなった。意識は混濁しているようだった。
サナギ化(蛹化)は二、三日で終わった。
数日後、ゆっきーを部屋に呼んで衣装ケースをそっと観察すると、蛹室の内部に大きな物体が鎮座しているのが確認できた。
サナギに変わったパンテちゃんの姿だった。
完全変態する昆虫は、サナギの時点で幼虫とは大きく姿が異なる。
丸みをおびたどっしりとした体躯。六本の折りたたまれた長いカギ足。
透きとおったベールのような外翅。
頭部には二つの丸い瞳、そのまんなかには一本の短い角。
正面から見ると、剪定ばさみのような太く短いアゴが生えている。
長い角が見当たらないのはメスだからか。
まるでカブトとクワガタの中間の姿。
それが魔界最強の甲虫、パンテオンヴィルガオオカブトのサナギであった。
ところが異変はそれで終わりではなかった。
はじめ茶色かったサナギは、だんだんと黒ずんできて、傍目にも生気をなくしていったのだ。
それを見たとき、ゆっきーはしばらく言葉をなくしたかのように押し黙った。
そして、ぼそっとつぶやいた。
これはよくない兆候かもしれない、と。
「よくないって、なによ……羽化不全するってこと……?」
サナギから羽化するとき、足が曲がっていたり、麻痺して動かなかったり、羽が閉じきらなかったり(羽パカ)することがある。
それを羽化不全という。
原因が幼虫のときにあるのか、サナギのときにあるのか、はたまた羽化そのものにあるのかは分からない。
「いや……。星に……なるかも……ってこと」
「え」
桜子は愕然とした。
桜子が幼虫に名前をつけようとしたとき、たしかゆっきーはこう言っていた。
カブトやクワガタなどの虫は、サナギのときに命を落とすことがある。だから名前をつけるのは羽化したあとのほうがいい——。
それを聞いて桜子は、幼虫のときだけの呼び名として「パンテちゃん」とつけたのだった。
その日、桜子は寝付けなかった。
どういうこと?
それ、どういうことなの?
そんな、まさかパンテちゃんが……。
大丈夫、大丈夫よ……。
サナギの黒ずみは日毎にひどくなり、ある日、サナギの端っこに白いものが浮かんだ。
白カビだった。
呼ばれて部屋に上がったゆっきーは、唇を噛んで目を落とした。
「え? う、うそでしょ?」
口は変なふうに曲がって笑い、指は勝手に震えた。
「何度か、こういう状況を見た」
ゆっきーはカブクワ飼育において、自分よりはるかに経験がある。
その彼が、そう、言っている。
「そんなわけない! あたし、ちゃんと」
ちゃんと……お世話した……。
虚脱してその場に座りこんだ。
うそでしょ?
こんな、こんなあっさり……。
ゆっきーが、何を思ったか、顔を上げてくんくんと臭いを嗅ぎ出した。
ベッドの下の衣装ケースに顔を近づけて、また何度か鼻をくんくんと鳴らす。
「ゆっきー?」
「まだ、あきらめるのは早いかもしれない」
ハッとして彼の顔を見た。
「本当に星になってたら、臭いが変わるはず。何かこう、いやな臭いに。だけどマットの発酵臭とキノコの菌糸の臭いしかしない。このまま、もう少し……もう少しだけ様子を見よう」
桜子は小さくうなずいた。
「無事かどうかは、どうやったらわかるの?」
「動けばはっきりするんだけど……」
「動くの? サナギが?」
微動だにしないイメージだったので驚いた。
「サナギはグニグニ動くよ。蛹室に入り込んだダニとかから身を守るためって言われてる」
「わかった。動けば大丈夫なのね」
わずかな希望は残った。
ゆっきーは帰り際、玄関で一度振り返って「あ、それと」と何かを言いかけた。
だが続きを口にせず、首をふるふると振ってから、うつむいて帰ろうとした。
「どうしたの? まだ何かあるの?」
「いや、今言うことじゃないから……」
「べつに、いいわ。なに?」
「あのね……サナギになる昆虫は、中でどろどろのスープみたいになるんだ」
「うん、聞いたことある」
「そのときに、ニューロンも再配置されるらしいんだ」
「ニューロン、さいはいち……?」
いきなり、なんの話かと思った。
「神経細胞の場所がリセットされるってこと。つまり、成虫には、幼虫のときの記憶はないんだって……。うまく羽化しても、パンテちゃんは桜子のことも、僕のことも、覚えていないかもしれない」
桜子は固く唇を結んだ。
「ごめん……こんなこと、言いたいわけじゃなくて……」
「〜〜〜〜〜っ!」
どんっ。
手をぐーにして彼の背中を叩いた。
自分で聞いておいて、腹が立った。
「……ごめん」
ゆっきーはうつむいたまま、体の向きを桜子のほうへ戻した。
「桜子……きみにパンテオンの幼虫を預けたのには理由があるんだ。でもまさか、あそこまで知能が高い生き物だなんて思わなかったんだ。きみを悲しませることになるなら、何が何でも自分でやるべきだった。本当にごめん」
「今さらいいのよ。そんなことは……っ」
彼の服をつかんだ。
「あたしだって、覚悟はしてた。分かってた。まだ誰も人工飼育に成功していない種だって。いつ何があってもおかしくないって。でもすっかり忘れてたのよ……パンテちゃんと過ごすのが楽しくって」
うつむいたままのゆっきーの顔を、下からのぞきこんだ。
桜子は、あっと声を上げそうになった。
ゆっきーの目は赤く充血していた。
そうだ、悲しいのは自分だけじゃない。
「あ……あたしは、信じる」
「桜子」
「信じて待って、それでも……………………。そのときは、また二人で話しましょ」
「そう……だね」
そして今、桜子はパンテちゃんのサナギが入った衣装ケースの前に座っている。
パンテちゃん。
パンテちゃん、もう話せないの?
最後に何話したか、あたし、よく覚えてないよ……。
これで終わりだなんて思いたくないよ。
思い出が去来する。
「パンテちゃん」
声に出して呼びかけた。
「パンテちゃん、大丈夫よね? 神さまにもお願いしたもんね」
「おみくじだって、大吉だったじゃない」
「あたし、パンテちゃんが作った折り紙、全部とっておいてあるのよ。また作ってよね」
「大人になったら、空飛んで遠くに行きたいって言ってたわよね」
「オードリーの甥っ子とも会わないとね……。あの子とも、約束した……し」
段々と声がかすれてきた。
鼻をすする。
ほほを涙が伝った。
「お父さんにスイーツ、ごちそうしてもらうんでしょ? 遠慮なんかしなくていいからね」
顎から涙が垂れた。
ぽたっ。
ぽたたっ。
「お姉ちゃんともまた話したいでしょ? ああ見えて情が深いのよ。……正体バレたって、きっとお話してくれるわ」
とめどもなく涙があふれてきた。
それをぬぐいもせず、流れ落ちるに任せた。
「ゆっきーとのデート、後押ししてくれての、パンテちゃんじゃない。あたしたちのこと、見届けてくれないの?」
桜子は首を振った。
髪が乱れて首に巻きついた。
ううん、あたしたちのこと、おぼえてなくてもいい。
完璧に羽化しなくてもいい。
足が曲がっていてもいい、羽が閉じてなくてもいい。
だから、お願い。
もう一度、あたしたちの前に姿を見せて。
………………。
あ……れ。
桜子は蛹室の内部に違和感をおぼえた。
サナギの向き、こっちだったっけ。
サナギの向いている方向がいつもと違う気がするのだ。
凝視していると、
びくんっ。
とサナギが跳ねるように動いた。
その拍子に白カビが剥がれて落ちた。
「パンテ……ちゃんっ!」
サナギは桜子の声に呼応するかのように、続けて何度かびくんびくんと動いた。
「あ、あ、」
サナギはまた動きを止めた。だが、これで生きていることは明らかになった。
「よ、よかった、よかったあ」
まだ涙は止まらない。
桜子はスマホを手にして、ゆっきーに電話をかけた。
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