第33話 大人になったら

 カサカサ、カサ……。

 パラ……パラ……。


 二種類の紙をこする音がする。


 桜子は下着姿のままベッドに寝そべって、スマホで電子書籍のマンガを読んでいた。

 ベッドの下から部屋の真ん中に引き出された衣装ケースの中では、中型犬サイズのイモムシが土の上に寝そべって絵本を読んでいる。

 飼い主とペットは似るという。

 いやむしろ姉妹、もしくは親娘か。

 姿形こそ違えど、寝っ転がって好きなことに興じるさまはそっくりだった。

 このイモムシは、魔界の甲虫、パンテオンヴィルガオオカブトの四齢幼虫、通称パンテちゃんである。

 去年の秋に友人のゆっきーから受け取って(奪い取って)以来、桜子が大切に育てている幼虫だ。


 いま、パンテちゃんは六本あるカギ爪のうち上二本を使って図書館から借りた絵本を読んでいる。

 そして残りの中と下の四本のカギ爪で、なんと器用に折り紙を折っていた。

 部屋の中で聞こえる二種類の紙の音とは、つまり絵本のページをめくる音と、折り紙を折る音なのであった。


 桜子は、ゆっきーが言っていたことを思い出していた。

 タコの知能が高いのは、そもそもの神経細胞が多いから、そして足一本一本にも小さな脳と言える『神経節』があるからだ、と。

 しかもこれがクラウドコンピュータのような機能を持つ可能性があるらしい。

 もちろんタコと虫は違う。

 だが脳や脊髄を持つ脊椎動物よりも、神経の構造はまだ近いと言える。

 虫にも複数の『神経節』がある。よく頭を潰された虫が足だけ動かしていて気持ち悪いなんて話があるが、これはその『神経節』が足ごとに存在するからできることなのである。


 タコの知能の仕組みから、ゆっきーはパンテオンの知能について推論を立てた。


 パンテオンは、神経細胞の数が桁違いに多いのではないだろうか。

 パンテオンの神経細胞の数はイヌやカラスよりもずっと多く、ヒトのこどもと同じくらいあるのでは?

 それは頭部だけではなく、神経節にも相当量割り振られているはず。

 その神経細胞の数と、複数の『神経節』の存在が、高い知能と驚異的な発達スピードをもたらしているのかもしれない。


 ゆっきーはそう語っていた。

 ヒトとはまったく異なる中枢神経システムを持つ知的生物、それがパンテオンなのだ。


『ねー、さくらあ』


「なあに、パンテちゃん」


『あたし、ゆーえんち、いきたい』


 うーん、遊園地かあ……。


「ごめん、それ、ちょっと難しい」


『ぶー』


 田舎でも遊園地は一応あるにはあるが、家からは遠すぎて車がないととても行けない。

 それに見つかるリスクを考えると、人の多い遊園地に連れて行くわけにはいかない。

 パンテちゃんは家族と遊園地に行くという内容の絵本を読んでいた。おそらくそのせいで行きたくなったのだろう。

 パンテちゃんは『つまんないのー』と不満そうな声を響かせて、また絵本を読み出した。同時に四本の足で折り紙の続きを折り始める。

 桜子はそれを見て感心するばかりであった。


 本を読むのと同時に折り紙折るって、ちょっとすごくない? 


 記憶力は良いし、計算も得意(しかも間違えない)、同時にいくつかのことを並行して行うこともできる。

 パンテオンの幼虫の知能は凄まじく高い。

 もはや小学校低学年レベルのことはできるようになっている。


 でも心配なとこも、あるのよねぇ。


 記憶力や計算能力が高い一方で、情緒的な面はいまいち成長が遅いように感じるのだ。

 こちらのほうは、いまだに幼稚園児ぐらいといったところだ。

 そのチグハグ感がむしろ、ヒトとは別種の知的生物であると感じさせる。

 桜子は少しでも情緒が育ってくれることを期待して、心をはぐくむのにおすすめとされる児童向けの本を図書館から借りて読ませているのだが……。


『じゃあ、ゆーえんちじゃなくてもいいから、きょう、どっかおでかけしたいー』


 本当は、「久しぶりに会った家族との思い出を胸に、強く生きていく少年の物語」に思いを馳せて欲しいのだが、興味は遊園地のほうに行ってしまったようである。


 桜子は息を吐いて微笑んだ。

 ヒトだって何年もかけて情緒を育てるものなのだ、あせらずゆっくり時間をかけよう。

 あまりに発達が速いので勘違いしてしまうが、この子はまだ産まれて一年もたっていない幼体なのだ。


「いいわよ、遊園地は無理だけど、お出かけしましょ。今日はいつもと違うところに行くわよ」



 一時間後、桜子とパンテちゃんは、近くの公園に来ていた。

 いつもの外出時と同様、ペットスリングキャリアを肩からかけ、毛布でくるんだパンテちゃんを抱き入れている。

 ここは公園と言ってもブランコやジャングルジムがあるようなところではない。

 昔の城跡に作られた広く大きな公園である。

 空気は冷たいが風はなく、空は青く晴れ渡って朗らかなお出かけ日和だった。


「ここ、ひさしぶりね」


 公園内には意外と人がいた。

 走り回っているこども、散策する若者、立ち止まって話しこむおばちゃんたち。

 犬の散歩をする人やジョギングしている人もいる。

 桜子は小さい頃、家族と何度かピクニックに来たことがある。


「メリーゴーランドとか、ジェットコースターとかはないから、つまんないかもだけど」


『ううん、そんなことないよ。さくらといっしょにおでかけ、したかっただけだからー』


 ふふっ、愛(う)いやつ。


 いちおう出かける前にゆっきーも誘ってみたが断られてしまった。

 最近は遊びに誘ってもちょくちょく断られる。

 べつに嫌われている感じはないし、断ったあとは何らかの形で必ずフォローしてくれるので特に心配していない。

 彼のことだ、何か考えがあるんだろうなあ、と思っている。


『あれ、なに? あそこ、いってみたい』


 パンテちゃんが毛布からそおっとカギ爪を出して指差した。

 その先には再建された城門がある。


「あそこから上の城跡に行けるの。小さな資料館しかないけど眺めはいいよ」


『いきたいっ!』


 この城は江戸時代、名君と呼ばれた殿様がいたことで有名である。その後、殿様は若くして幕閣に抜擢されたという。


 お堀にかかる橋を渡り、城門をくぐって、上へと続く坂道を歩いた。


「あ、あんた、また重くなったわね」


 パンテちゃんは今や12キロある。

 いや、この感じは、たぶんもっと。


 ふうふう言いながら歩いていると、遠くの空に鮮やかな緑色の鳥が飛ぶのが見えた。


 あ、エロ鳥。


 ゆっきーの言う通り、パンテオンの監視は続いているようだ。


 あいつも、ご苦労さまだわ。


 岩と砂だけの坂道を上りきると、また大きな城門があった。これも昭和に再建されたものである。

 大きな城門の下を通り抜けて、桜子はさらに上へと進んだ。

 頂上付近まで来て、一休みする。

 資料館の入り口が近くにあるが、さすがにパンテちゃんを連れて入ることはできない。


『わぁー、いーけしきぃ』


「どお? なかなかでしょ。この辺はあまり人がいないから、ちょっとだけなら顔出してもいいわよ」


『ほんと? じゃ、よいしょ』


 パンテちゃんはオレンジがかった頭を毛布から出して、眼下に広がる景色に目を向けた。

 目はヒトと同じく頭にあるらしい。色も識別できるようだ(ヒトが見ているのと同じ色かどうかわからないけど)。

 ちなみに耳は足にある。

 これは何度かゆっきーと試してみてわかったことだ。六本の足の付け根全てに聴覚器官があるらしく、どんなふうにこちらの声が聞こえているのか想像もつかない。


『こんなにひろいけしき、はじめてみたー』


 頭と足を毛布から出して、パンテちゃんはしばらく景色を眺めていた。

 土の中ばかりを見ているこの子は、高い場所から見下ろすこの光景を、どう感じているのだろう。

 たとえ彼らの神経システムがヒトとは異なっていても、初めて見る広い景色はきっと感動をもたらすはず……と思う。

 桜子も下に目を向けた。

 まばらに民家と工場と店が散らばり、その間を荒れた山のかけらが埋めている。

 一本の幹線道路が町を貫いて、細い枝のような道がいくつも生えている。

 遠くには深い河川が走り、山際に新幹線の架橋がかかっている。


 桜子の目に陽の光がかかった。まぶしさに目を細める。

 はぁーと息を吐いた。白いもやが渦巻く。

 冬の冷たい空気が心地いい。


『さくらあ、たかいたかいしてー』


「え」


 桜子は周囲を注意深く見渡した。


 む、無茶なことを……。


 それでも頼みを聞いてやりたいのが親心。

 近くに人がいないのを確かめると、毛布ごとパンテオンの幼虫を上に掲げた。


『ヴ、ヴーン!』


 パンテちゃんが足をパタパタさせて喜んだ。


『さくらあ、あたし、もっと、とおくにいきたいなあ』


「連れてってあげてもいいけど、もう少し待てば自分で行けるようになるわよ」


『ほんと?』


「ええ、羽化して大人になったら、自分の羽で飛んでいけるから」


 持ち上げている腕がプルプルしてきた。

 12キロをこえるものを持ち上げるのは、ちょっとつらい。

 そっと下ろして抱きしめた。


『そらとぶのって、どんなかんじかなあ』


「きっとすごく気持ちいいわよ、ふふっ、大人になるの、楽しみにしててね」

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