第30話 どうせなら有効活用

 季節は冬になった。


 十二月。

 寒い外から帰ってきた桜子は、自分の部屋に入るなりTジャに着替えた。

 本来なら冬でも裸族なのに、である。


「パンテちゃん、新しい土にしてあげる!」


『わぁーい、ごあんだあ!』


 今日は桜子ひとりでパンテオンのマット交換をする予定だった。

 Tジャに着替えたのは、体が汚れないようにするためだ。

 幼虫が巨大になってからはゆっきーといっしょに交換していたが、彼が出かける用事があるため桜子ひとりですることになった。

 できればふたりでやりたかったが(すごい重労働なので)、幼虫がしきりに空腹をうったえるのである。

 それも人間の幼児言葉で。

 カブトの幼虫が、人間の幼児言葉で。

 だから、できるだけ早くマットを交換してやりたいのだ。

 桜子は毎日、幼虫に話しかけていた。

 人間の赤ちゃんに実際に読み聞かせするような絵本も読んでやったし、スマホで赤ちゃん番組も見せてやった。

 そのせいか、ここ最近ボキャブラリーが格段に増えた気がする。

 高い知能があるというのもうなずける。

 このまま教育していけば、小学生くらいの知能はすぐ身につきそうだ。

 桜子はブルーシートを部屋いっぱいに広げた。

 ゆっきーから借りてきたトロ船(合成樹脂製の大きなケース)に、新しいマットを目一杯入れて水を加え、攪拌する。

 そしてベッドの下から衣裳ケースを引き出して蓋を開け、パンテオンの幼虫を取り出した。

 幼虫の体型は、まるででっぷり太った犬のようである。大きさはもはや中型犬ほどだ。なんだか太りすぎのダックスフントかウェルシュコーギーを思わせる。

 丸々とした胴体が長く伸び、そこに黒い頭と横開きのアゴ、六本のカギ足がついてうごめいている。

 桜子は幼虫を腰のあたりで抱えるようにして持ち上げた。

 最近、彼女はパンテオンの幼虫がかわいくてしょうがない。

 愛情があふれて幼虫に名前をつけてあげようとしたが、それはゆっきーに止められた。

 名前をつけるなら羽化してからのほうがいい、と。

 なんでもカブトムシやクワガタは、サナギから羽化する際に星になることがあるらしい。

 順調に育っていても、最後の最後に命を落とす危険があるのだ。


「『パンテちゃん』は胎児名ってことにするわ。無事に羽化したら、ちゃんとした名前をつけてあげるからね! 楽しみにしててね」


『ヴ、ヴーン』


 甘えるように幼虫が音を発した。

 衣裳ケースのマットをブルーシートにぶちまけて、中を雑巾できれいに拭きとる。

 そのあと、用意しておいた新しいマットをスコップで入れていった。

 量がかなりあるため、何度もスコップを往復させる。

 大変な作業だ。やはりひとりでやるには重労働である(今さら後悔しても遅いが)。

 仕上げに古いマット(うんこ入り)をスコップ三杯ほど入れた。

 こうすることで有用なバクテリアが繁殖し、幼虫も前の土の匂いがして安心するらしい。


「さ、新しいベッドよ」


『あいがとお』


 パンテオンの幼虫を再び抱きかかえ、衣裳ケースに入れたマットの上にそっと置いた。

 ヴン、ヴン、ヴ~ン♪ ヴ・ヴ・ヴ・ヴ、ヴ~~ン♪ と、童謡のリズムを発しながら、幼虫はうれしそうにマットの中へもぐっていった。

 幼虫が完全にもぐりきるのを確認してから、桜子はブルーシートの上を片付け始めた。

 体をずっと動かしてるせいで冬だというのに全身ぽかぽかである。Tシャツの背中はジットリと汗ばんでいた。

 ようやく作業が終わって時計を見たところ、家に帰ってから二時間以上たっていた。

 部屋にはマット特有の、キノコの匂いと土の発酵臭が混じった臭いがただよっている。

 くんくんと空気の臭いを嗅いでみた。


 うん、大丈夫。これくらいなら換気すれば気にならない。


 懸念されていた小バエも、古いマットにはわいていなかった。

 ひたいの汗をぬぐい、一息ついたところにノックが聞こえた。


「桜子ちゃん、ちょっといいかしら」


「んー、はいはい」


 きいぃっ、とドアがすこぉしだけ開いた。

 わずかな隙間から、姉の目と唇が見える。


「な、なに? お姉ちゃん、ちゃんとドア開けたら?」


「いやぁよ、だって虫の気配がするもの」


 虫の気配ってなに?

 そんなに嫌がらなくてもいいのにと思うが、嫌いなものはしょうがない。


「で、お姉ちゃん、なにか用?」


「リビングに小バエがいたの」


 桜子は思わず飛び上がりそうになった。


「虫を飼っていいとは言ったけど、小バエは出さない約束よね?」


「えっ、えっ、あたしの部屋にはいないよっ」


「そう。それならいいけど」


 姉がのぞく隙間の下のほうに、なにかがキラッと光った。

 そのときようやく桜子は、姉が包丁を握っているのに気がついた。


「ちょっ、やだっ。お姉ちゃん、なんで包丁なんか持ってるの!」


「だってお母さんが仕事でいない日は、いつもお姉ちゃんがごはん作ってるでしょ」


 そう言って姉は、包丁を持っている手をぐいーっと持ち上げた。


「いや、だから、なんで二階まで持ってきてるの……」


「お姉ちゃんね、虫、嫌いなの。桜子ちゃん、知ってるわよね?」


 ごくりと桜子はつばを飲み込んだ。


「うん……知ってる……」


「もし小バエを出したら、飼ってる虫も処分してもらうわよ」


「わ、わかってる」


「お姉ちゃんね、この前のことは本当に悪いと思ってるのよ。生き物をゴミとして捨てるだなんて、いけないことよね。どうせ処分するなら有効に活用しなきゃ」


「ゆ、有効? 活用?」


「そう、たとえば……」


 姉は包丁をひるがえした。


「命を……いただくのよ。ほら、カブトムシの幼虫は栄養があるって話じゃない」


 ひぃいいいいいっ!


 あまりのセリフに全身の毛が総毛立った。


「だっ、だだだ、だめ、食べるだなんて、絶対にだめえっ」


「うん。だから気をつけてねってこと。……ま、お姉ちゃんは食べないけど」


 パタンと姉はドアを閉めた。

 桜子はヘナヘナと崩れ落ち、何が何でも小バエだけは出すまいと心に誓った。

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