第29話 赤ちゃんが?
月日はめぐり、十一月もなかば。
ゆっきーからもらったオオクワガタの幼虫もすっかり大きくなっていた。
菌糸ビンの壁には、元気な証拠である虫喰いのあとが縦横無尽に残っている。
桜子はベッドの下からプラスチック製の大型衣装ケースを引き出した。
パンテオンの幼虫は……、残念ながら三頭のうち二頭は星になってしまった。
ずいぶん落ち込んだが、残りの一頭、不思議なことにあの脱走した幼虫だけが元気に育っている。
ゆっきーからもらった『微細発酵マット』は、その残った一頭に気に入られたようだ。
日々、すくすくと成長している。
桜子は衣装ケースの横にまわり込み、幼虫の姿をのぞき見た。
幼虫はケースの壁に沿ってうごめき、横に閉じるアゴでマットをむしゃむしゃ咀嚼していた。
「おおきくなったわねー、パンテちゃん。あたしもうれしいわ」
桜子は虫に対してもふつうに話しかける女子である。
幼虫相手に学校であった出来事を話すのが、最近の日課だった。なんだかこっちの話を聞いているような気がするのだ。
このパンテオンの幼虫はマットに移し替えてから一度脱皮した。ゆっきーがマジョルカから聞いた話によると、パンテオンの幼虫は土だんごから出て数回脱皮するという。
脱皮した姿はずんぐりとして、でっかいサツマイモのように変わっていた。
サイズはぐーんと大きくなり、両手で抱えるほどだ。小型犬くらいある。
脱皮したことを伝えたとき、ゆっきーはとても喜んでくれたが、なぜかかたくなに見に来ようとしない。
「ゆっきー、なんで来ないのかなあ。興味なくしちゃったようには思えないんだけど」
しゃがんでほおづえをつき、「ね、なんでだと思う?」と幼虫に話しかけた。
ヴィ、ヴィ、ヴィ……ッ。
最近、幼虫は話しかけると奇妙な振動を発するようになった。
「ふふっ、あたしが言ってること、わかるの?」
ヴィ~~ン、ヴワアァオオオン。
振動を受けて、ケースがびりびりと震える。
「『さくらこ』って言ってみて。ほら、さ・く・ら・こ! なんちゃって、うふふ」
幼虫はひときわ大きく膨らんだ。
『……ザァ……』
「……ん?」
『サァ、ク~、ラァ、コ……ッ!』
「えええっ!」
その声はマットを揺らし、ケースを強くひびかせた。ホルンに似た、低い音の管楽器のような声だった。
桜子は急いでスマホを取り出し、電話をかけた。
「ゆ、ゆゆゆ、ゆっきぃーっ!」
あまりの驚きでスマホを落としそうになる。
『どうしたの、何かあった?』
「あ、赤ちゃんがっ」
『赤ちゃん?』
「赤ちゃんがしゃべった!」
「へっ? 桜子ん家って赤ちゃんいたっけ?」
「ばかっ、パンテオンの幼虫よ。しゃべったの! あたしの名前を!」
しばしの沈黙のあと、
『うっそだぁ』
「うそじゃないって! いいかげん、うちに見に来てよ!」
『うーん……、どうしよっかな』
「なにが問題なのよ。いいから来て!」
『そう……だね。マット交換して、一回脱皮もした。もう大丈夫だと思う。わかった、これからそっちに行くよ』
御花見家に来たゆっきーを、桜子はさっそく自分の部屋に上げた。
ゆっきーは幼虫を見るなり、すっとんきょうな声を出した。
「うわっ、思ってたよりでっかい」
「ほら、ゆっきーも話しかけてみて」
「めっちゃ威嚇されてるけど」
幼虫は、透明なプラスティックの壁の向こうでキバを振りかざしていた。
ヴオッ、ヴオッと、繰り返し、低い重低音をひびかせている。
桜子は幼虫とゆっきーの間に割って入った。
「パンテちゃん、心配しなくていーわよ。こっちは、ゆっきー。あたしの友だち」
片手を伸ばして、ゆっきーと肩を組んだ。
「これでわかってくれるかしら」
「うん、ひとまず威嚇はやめてくれたみたい」
ゆっきーはおそるおそるといった感じで、パンテオンの入ったケースに顔を寄せた。
「こんにちは」
あいさつに答えるように、ヴオオンと振動音が鳴った。
「いったい、どこからこんな音が……。わかった。これ、『気門』から空気を吐いてるんだ」
『気門』とは、昆虫類の呼吸器官である。
腹の横に点々と何個も並んでいる。もちろん幼虫にもついている。
「音が鳴るたび、マットの細かい土が幼虫のまわりを煙みたいに舞ってる。きっと気門から空気を吸ってアコーディオンみたいに膨らんでから、一気に気門から空気を吐き出してるんだ。そのときに振動音が鳴るみたいだね」
「へ、へえー」
さすが、ゆっきー。よく見てる。
「あれ、でも声は? たしかに『サクラコ』って言ったわよ」
「う……ん、仮説だけど、気門の形を変えることができるのかもしれない。それなら人間の声帯のように声を作ることができると思う。全部の気門で声を出してるとすると、スピーカーみたいな響きの音になるのも説明がつく」
ゆっきーの表情がキラキラしだした。好奇心の火が灯ったようだ。
「ね、桜子。ちょっと、よく見てみていい?」
「ええ、どーぞ」
ゆっきーはパンテオンの幼虫をじっくり観察し始めた。
――自分の部屋に男の子がいる。
その光景を、桜子は不思議な気持ちで見ていた。
ゆっきーを部屋に入れるのは、再会してからはじめてだった。
と言うか、男の子を部屋に入れること自体はじめてである。
こっそり彼の横顔を盗み見る。
年の割にあどけない。少年の面影が強く残っている。
白藤雪ノ丞という男の子は、自分にとって気になる存在である。
スポーツは苦手のようだが、勉強熱心でよく本を読む。
冷静で、めったに怒らず、人の気持ちを考えて行動する。
そして自分……御花見桜子との関係を、とても大切にしてくれている。
彼はあたしのこと、どう思ってるんだろう。
それはいつか本人に聞いてみたい疑問である。
「桜子」
「どうしよっかな」
「桜子」
「いつか……」
「さくら」
「聞いてみよっかなあ」
「こ」
「ん?」
「おーい、桜子」
「あ、ごめん、ぽーっとしてた」
「『ぽーっと』? なに、熱でもあるの?」
「ああ、いや、ちがうちがう。あはははは、『ぼーっと』、よ。『ぼーっと』。言い間違えたの。それでなに? どうしたの?」
「これ、オスメスどっちだと思う?」
「え、わかんない。どっちだろ」
以前に『おしりの印』を探してみたことがあったが、よくわからなかった。
「どっかに目印になるものはあると思う。あとは大きさ。でも一頭だけだと比べようがない」
そのとき、窓になにかキラッと緑と紫に光るものが見えた。
マジョルカだ。
「あ、あのエロ鳥、また来てる」
「あいつ……」
「よく来るのよ。この子が気になるんじゃない? 入ってこればいいのに」
「自分から出てったから、バツが悪いんだろ」
するとゆっきーは「ひらめいた」といった様子で、片目をくわっと開いた。
「桜子、ちょっとこの飼育ケース、窓のほうへ向けるよ」
「なんで? まあいいけど」
ケースの壁際にいる幼虫が、窓から丸見えになる形になった。
「ちゃんと向こうから見えるといいんだけど」
そうつぶやくとゆっきーは咳払いをして、大きな声を張り上げた。
「この幼虫、大きいほうかなー? 小さいほうかなー? わかるんだったら、誰か教えてくれないかなー。大きかったら窓ガラスを一回、小さかったら二回、叩いてほしいなぁー」
そして彼は耳に手をそえて声をひそめた。
ほどなくして、ガラスを小突く音が聞こえてきた。
――コン、コン。
「二回だ。小さいみたい。たぶんメスだね」
「はあ?」
んな、あほな。
桜子は唖然とした。
それでほんとに合ってるのか。
だいたい、こんなめんどくさいやり取りするくらいなら、直に話をすればいいのに。
「まあ、いずれ、あいつとはまた顔を合わせることになると思うよ」
「そう言わず、今会いに行けば? どうせ窓の外につかまってるんだし」
――ギクッ。
「ほら、ギクッとか言ってる」
「いやあ、ちょっとね」
ゆっきーは窓とは反対側を向いて、桜子を手招きした。
近づいた桜子に耳元でささやく。
「向こうから来るまでほっとこう。あいつとは本音で話したいんだ。今、無理に会っても適当な返事をするだけだと思う」
「ん、オッケ。わかった」
「あいつの目的はきっとパンテオンの成虫だ。だからこの幼虫が羽化したときにアプローチしてくるはず」
「まさか、あの子をさらうつもりかしら」
「かもね。あいつがどう出るかは、予想がつかない。できるだけ穏便にすましたいけど……。とにかく、この幼虫を無事育てることが先決だよ」
「ええ、そうね」
カブトムシは非常に長い期間、幼虫の姿ですごす。
どうやらエロ鳥との対決はかなり先のことになりそうだ。
「この子ってあとどれくらいで成虫になるの?」
「前にあいつに聞いたことがあるけど、なんか要領を得ないんだ。『花に実がついてから、種が芽吹くまで』とか、『人の衣服が二回、変わるまで』とか」
「別の階層だと時間の流れがちがうのかしら」
「と言うより、時間の感覚や概念がちがうんだと思う」
魔界のことをよく知らないから確信は持てないが……。
なんとなく半年くらいかな、と桜子は感じた。
「幼虫のこと、たのんだよ、桜子」
「まかせといて。ここまで育てたんだから、最後までやりきってみせるわ」
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