第28話 幼虫が逃げた!
桜子はゴミ袋を床にしいて、プラスチックボトルの中身をやさしく手でかき出した。
「い、いない。幼虫がいない!」
あわててスマホでゆっきーに連絡した。
「ど、どうしようっ、幼虫が逃げた? え、でも、こんなことってある?」
『落ち着いて、桜子』
「いないの、幼虫が! マットの土が散らかってて、どっか行っちゃったのかも」
『まれにだけど、幼虫が脱走することはあるよ』
「うそ、そんなことあるんだ」
『ぼくも前に経験がある。あわてないで、部屋をようく探してみて』
そ、そうだった。
桜子はスマホを片手に、自分の部屋をすみずみまで見た。
「いない……いないよぉ」
『カーテンの窓際の下とか、棚の裏とか』
「見たわ。見たけどいない。ゆっきーが逃げられたときはどこにいたの」
『生ゴミのゴミ箱のうしろにいた。カブトの幼虫は暗くてジメッとしたところが好きなんだ。パンテオンの幼虫も土のなかに住んでるなら、同じようなところにいると思う』
「暗くて湿ったところ? そんなとこ、あたしの部屋にないわよ」
『よく探して。もしいなければ、部屋の外に出たかもしれない』
「部屋の外? そんなことあるわけ……」
いや、待って。
今日、家に帰って自分の部屋に入るとき、ちょっとだけドアが開いていたような……?
『想像以上に遠くまで行ってることがある。意外なところに隠れてる可能性も』
桜子は気が気でなくなってきた。
ドアを手で押し開け、階段に続く廊下を見る。
目をこらすと、黒い土の粒がポツポツと落ちているのに気づいた。
「い、意外なとこって、どこ」
『玄関のくつの中とか、床に置きっぱなしのカバンとか』
「そんなところに?」
階段の一番上の段に、はいつくばって顔を近づけてみた。
だが何の痕跡も見つからない。
幼虫は階段を下りていったのだろうか。だとしたら、いつ?
かなり早い時間帯に脱走したのでは? 食べるものもなく飢えているのでは? 水分が足りず干からびているのでは?
「は、早く、早く見つけなきゃっ」
せっかく大切に育ててきたのに、こんなことで死なせるわけにはいかない。
ここでふっと、姉との約束を思い出した。
――小バエを発生させないこと。虫を逃がさないこと。
さあーっと血の気が引いた。
やばい、やばいやばいっ。
もし姉に見つけられたら大変だ!
転げ落ちるようにして階段を下りた。
スマホから『おーい、落ち着けって』と声がするが、動転してほとんど耳に入らない。
どこ? どこにいるの?
玄関に行って、すみまでくまなく見て回った。靴も全部ひっくり返して確認した。
いない。じゃあ、ほかのところだ。どこにいる?
そうだ、キッチン。あそこは湿っている。キッチンはリビングを通った先にある。
再びキッチンまで行こうとして、あれっと疑問に思った。
さっき……玄関にお姉ちゃんのくつがあったような……。
「あんた、どうしたの?」
「ぎゃあっ!」
つんのめって、手足をばたばたさせた。
「どうしたのよ、おっきな声出して」
「お、お姉ちゃん。いつ帰ってきたの?」
姉がリビングのソファーでくつろいでいた。
ソファーの背もたれに両手をけだるく乗せて、頭をのけ反らせている。
下着姿で足を組むのが、実にさまになっていた。
「ついさっき。今日は早上がりだから」
「お、おかえり、お姉ちゃん」
「ただいま、桜子ちゃん。で、何をあわててんの」
「えっ? ええっと、いや、べつになんでもないよ」
姉の目が冷たく光った。
急に空調の設定温度が下がったような錯覚におちいる。
「さ、さがしもの、さがしものしてるの」
「ふうん、そう」
気取られないように、桜子は何気ないそぶりでキッチンに入った。
目を皿のようにして見わたす。
冷蔵庫の横のスキマ、食器棚の下段、生ゴミを入れるゴミ箱のまわり。
どうしよう、どこにもいない……。
と、やおら姉が立ち上がった。
こっちに来る? いや、ちがうみたいだ。
リビングから出て、行く先はたぶん……。
「お姉ちゃん、待ってえ!」
だだだーっと走り寄った。
「なによ、うるさいわね」
「トイレ! あたしに先に使わせて! も、もれそうなの!」
「はあ? わたし、べつにトイレ行くわけじゃないけど。勝手にすれば」
なんだ、そうだったのか、と安心した。
しかしトイレはあり得る。あそこは暗くて湿っている。
幼虫がドアを開けてトイレに入るか? という疑問もあるが、一応確認しておかないと気がすまない。
万が一、姉に見つけられたらおおごとだ。
桜子は急いでトイレのドアノブに手をかけた。
「桜子ちゃん、ちょっと」
呼び止められ、びくっと肩がふるえた。
おそるおそる振り返ると、姉が困惑した顔でこっちを見ている。
桜子は戦慄した。
姉はおっそろしく勘がいい。
虫が逃げ出したこと、それを探している真っ最中であることを見抜かれたのかもしれない。
「な、なぁに、お姉ちゃん」
「あんた……」
姉が、人さし指を桜子の手に向けた。
そこにはスマホがにぎられたままだ。
「誰と話してるの? さっきから男の子の声がするけど」
「えっ! あ、そ、そう! この前お姉ちゃんも会った、ゆっきー、えーっと、白藤くん」
「なんだ、あの子ね」
「そうそう! じゃあ、トイレ入るねっ。お姉ちゃんはちょっと向こう行ってて」
「男の子と電話したまま、トイレ入るわけ?」
「…………へ?」
「内緒話なら部屋でやればいいじゃない」
姉が何を言いたいのか、にわかにはわからなかった。
「べつにとやかく言わないけどさ。ちょっと、はしたないんじゃないの」
「あっ、いや」
かあっと、首から上が一気に熱くなった。
「お姉ちゃん、それってちょっと良くないと思うわ」
「ち、ちがっ、そうじゃない、そうじゃないのぉおお!」
『ぼく、お姉さんに誤解されたかなあ』
「だ、だいじょうぶよ、あたしがテンパってただけってわかってると思う」
結局、トイレにも幼虫はいなかった。考えてみれば当たり前のことだった。
桜子は意気消沈して階段を上り、自分の部屋に戻った。
はあーっとため息をつく。
いったい、幼虫はどこへ……。
『もう一度、部屋のなかを探してみたらどう?』
「ええ? だって階段に土が落ちてたのよ。絶対、部屋の外に行っちゃってるわ」
何気なく、部屋のすみに脱ぎ散らかしたセーラー服を見た。
こんもり盛り上がっている。
「んん?」
足の指で、そっと服のすそをつまんで上げた。
「うわ!」
『どうした? 桜子』
「……い、いた」
『いたって、幼虫? どこに?』
「あたしが脱いだ制服の下……。ど、どどど、どういうこと?」
桜子はセーラー服で丸めるようにして、幼虫を抱きかかえた。
「部屋の外に行って、また戻ってきたの? いつの間に?」
まあ、いいわ。
こうして見つかったんだから。
無事に幼虫が見つかって、桜子はほっと胸をなで下ろした。
『元気そう?』
「うん、元気にギイギイ言ってる。肌に張りもあるし、足も元気にばたつかせてる」
『そいつは、なにより』
「でもこれってカブトの幼虫? ちょっと見てくれない? 今、写メ送るから」
大きさは人の手のひらくらい。頭をもたげてアゴを鳴らしている。
「なんだかオタマジャクシみたいよね」
『そうだね。パーツパーツはカブトの幼虫だけど、全体のフォルムがオタマジャクシだ』
「パンテオンってこういうものなの? エロ鳥からなんか聞いてない?」
『いや、そういうことは言ってなかったなあ』
「ねえ、これってどうしたらいいの。またプラボトルに戻せばいいかしら」
『うん。とりあえず、そうしといて』
「この子、なんでマットから出てきちゃったのかしら」
『マットから幼虫が出ちゃうのには理由があるんだ。酸欠か、暑さか、マットに栄養がなくなったか、はたまた病気か。そいつはきっと栄養がなくなったからだと思う』
「まさかプラボトルのマットの養分を食べきっちゃったの? それってだいぶ先の話じゃ」
『思ってたよりずっと成長が早いみたいだね。元気そうなら、もうマット交換しちゃおう。これから発酵マット、そっちに持ってくよ。待ってて』
ほどなくして、ゆっきーが御花見家の玄関にやって来た。
当然だが桜子は服を着ている(また脱ぐのに面倒だなと思っている)。
「たいへんだったね。おつかれ」
「ほんとよ。お姉ちゃん帰ってくるし、まじでヤバかった」
桜子は、ゆっきーからマットの入った袋を受け取った。
「このマットが合うかどうかわからないけど」
「いいわ、ひとまず入れて様子見る」
「プラボトルから出てきたってことは、本来なら土だんごから出てくるところまで成長してるはず。だとしたら生命力はかなりついてると思う。そこに期待しよう」
そして「じゃ、よろしく」と言って、ゆっきーは帰ろうとした。
「あれ? 幼虫、見てかないの?」
「うん」
「え、なんで。せっかくだから上がって見ていったら?」
「う~ん……、ちょっとね。写真で見たからいいよ」
桜子が引き止めるいとまもあらばこそ、ゆっきーはそそくさと帰っていった。
「えー……。なんなのよ、いったい」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます