第22話 ありがとね

 前回のあらすじ :


 桜子のお姉さんは大の虫嫌い。

 ゆっきーはお姉さんに、桜子にまた虫を飼わせてあげてほしいと頼み込む。




「今度はできるだけご迷惑をおかけしないようにします。ぼくが協力します」


「いやよ。虫が家にいるっていうだけで、肌が粟立つから」


「でも、桜子さんは」


 ニジイロの幼虫をプレゼントしたときの、桜子の顔を思い出した。


「とてもうれしそうだったんです」


「うれし……そう……?」


「はい、ようやっと自分の好きなものが手に入ったという感じで、とっても喜んでいました。できればまた飼わせてあげたいんです。なんとか許してもらえませんか」


 姉は眉をひそめた。

 そしてそのまま黙り込んだ。

 ゆっきーは知らず息が上がってきた。

 今日わざわざ会う約束をしたのは、この話題に会話を持ってくることが目的だった。

 だけど、うまくいっただろうか。

 急ぎすぎなかっただろうか。

 話の流れが不自然じゃなかっただろうか。

 とにかくもう言ってしまった。口から出た言葉は回収できない。

 ふぅーっと、姉は鼻から短い息を吐いた。


「だめね」


「だめ……ですか」


 ゆっきーは、なんとかもう一押ししてみようと思った。

 すると間髪入れず、姉が「例えばね」と続けた。


「例えば、よ」


「は、はい」


「あなたが大のイヌ好きで、でも家族の誰かがイヌのこと大嫌いだったら? がまんしろって言って、イヌを飼うの?」


「いや、それは……」


 そんなこと……そんなことは無理だ。

 それは傲慢で、自分勝手なことだ。


「できない……です」


 ゆっきーは姉の言いたいことが理解できた。虫を飼うときも同じだと言っているのだ。

 姉はまっすぐゆっきーの目を見て言った。


「わかった? そういうこと」


「はい……。わかりました」


 ゆっきーは天を仰いだ。

 やれるだけのことはやった。

 ここから先は桜子の家族の問題だ。自分の入る余地はない。

 ごめん、桜子。


「じゃあ、わたしはもう帰るわね。あなたも帰りなさい」


 沈黙するゆっきーを一瞥すると、姉は歩き出した。

 姉はゆっきーの横を通りすぎるとき、一度止まってこうささやいた。


「……白藤くん、あの子と仲良くしてくれて、ありがとね」


 はっとして、ゆっきーは姉を見上げた。


「あとね、幼虫を捨てたのはわざとじゃないの。そんなのが中にいるなんて知らなかったのよ」


「そう……ですか」


「信じてくれなくてもいいけど。じゃあね」


 そう言うと、姉はスタスタと律動的な歩調で山道を上っていった。

 ゆっきーは姉を見送った。

 姿が見えなくなるまで、その場にずっとずっと立っていた。 


 カナカナカナ――。

 ヒグラシの声が遠くに聞こえた。

 夕陽が沈みかけ、辺りが暗くなる。

 機械的な「オイ」という呼び声が聞こえて、ゆっきーはようやく我に返った。


「なんだマジョルカ、まだいたのか」


「ズットイタ。ソコノ木ノ上デ見テイタ」


「そうか」


「ユッキー、唇ガ青イゾ」


「え、うそ」


 手の甲で口をゴシゴシと乱暴にこすった。


「うわ、爪の色が」


 指の爪がチアノーゼみたいに暗い色になっている。

 手で顔をさわるとヒヤッとした。

 こんなにびびっていたのかとおどろく。


「あー、恐かった」


「オイオイ、大丈夫カ」


「あんなに圧迫感のあるひと、はじめてだ」


「ウム、ノー天気ナ桜子ノ姉トハ思エナイ。私モ恐イト思ウ」


「おまえと話すところ、しっかり見られてた。別階層の生き物ってバレてなきゃいいけど」


「油断ハ禁物ダナ。気ヲツケヨウ」


 それにしても終始感じていた奇妙な冷気、あれはまさか姉が発する『圧力』なのだろうか。

 あの冷たい雰囲気にあてられて、体が勝手に寒気を感じていたのかもしれない。

 夕陽がジリジリと照りつけてくる。

 暑さでまた汗が垂れてきた。

 さて、桜子になんて説明しよう。

 がっかりする彼女のことを思うと、気が重くなるゆっきーであった。



 その日の晩、桜子から電話があった。


「ああ、桜子。ちょうどメールを送ろうと思ってた」


『ゆっきー、お姉ちゃんと話してくれたのね。ありがとう』


「いや、結局役に立てなかった。ごめん」


『そんなことない。お姉ちゃん、ちゃんとあたしにあやまってくれた」


「そう、そりゃよかった」


『ゆっきーが話をしてくれたおかげよ』


「そうかな」


『そうよ、そうでもなければ、あのお姉ちゃんがすなおにあやまるわけないもん』


「お姉さんと仲直りできた?」


『うん、まあ、いちおーね。幼虫を死なせたことは、まだ許してないけど』


「あの、そのことだけどさ」


『ええ、聞いたわ。幼虫が中にいるの知らなかったって。小バエがたかってくるのがうっとうしてくて、顔そむけてゴミ袋に入れたからわかんなかったって』


「ビンとか土の中に、クワカブの幼虫がいるなんて、ふつう知らないからね」


『でもあたし、どうかなぁって思うわ。ほんとはうっすら気づいてたんじゃないかしら』


「まあ、その辺は信じるしかないよ」


『あ、あとね、条件付きなら、また飼ってもいいって』


「んっ?」


『虫、飼ってもいいって』


「え、うそ。だってお姉さん、だめだって言ってたよ」


『内緒で虫を飼ったこと、あたしもあやまったの。それであらためて頼んでみたわけ。そしたら『小バエを出さないこと』、『虫を逃がさないこと』を条件にオッケーしてくれた』


「そう……そうか、やったじゃん」


『うんっ!』


 ゆっきーは、なんだか胸のつっかえが取れた気持ちになった。


『これもゆっきーのおかげね』


「いや、ぼくじゃ説得できなかったよ」


『ゆっきーが一度、頼んでくれたからよ。いきなりあたしが頼んだって聞いちゃくれないわ』


「ほんとにそうなら、がんばって話をしたかいがあったかな」


 今日のことは、じぶんとしてはかなり勇気を出したほうだ。

 正直、あの姉と面と向かって話をするのはもう御免こうむりたい。


『ねえ、こんなことがあったあとで、節操がないと思われるけど……』


「なに?」


『またね、幼虫を飼いたいの』


「うん、いいんじゃない」


 今回の事件は、しばらく虫を飼う気をなくしてしまってもしかたがない出来事だった。

 だから、しばらくそっとしておこうと思っていた。

 だが本人がその気なら問題ない。


『ニジイロはね、さすがにあの子たちのこと思い出しちゃうからやめとく。オオクワガタがいいかしら。ゆっきーも前におすすめって言ってたしね』


「それなら、うちにいい幼虫がいる。ぜひお迎えしてほしい」


『またもらうの、わるいわ。少しでいいからお金払わせて』


「いいんだよ。今度のことはぼくもわるかった。おわびと、飼育オッケーのお祝いだ」


『そんな……じゃあ、またおそうじに行く。困ったとき、お手伝いする』


「わかった、そのときはお願いするよ」


 電話ごしに、『うふふっ』と笑みがこぼれるのが聞こえた。


『ね、ゆっきぃ……』


「ん」


『ねえ、ゆっきー』


「なんだよ」


『ありがとね』


「オオクワの幼虫もけっこうたくさんいるんだ。だから気にしなくていい」


『そっちじゃなくて! …………お姉ちゃんとのこと』


「ああ」


『ゆっきーが間に入ってくれなかったらヤバかったと思う。あたし、お姉ちゃんのこと、ずっと憎んでたかもしれない。生き物を簡単に捨てるだなんて、人間性を疑って、お姉ちゃんのこと二度と信じなくなったかもしれない』


「あ……うん」


『そうならなかったのは、ゆっきーがお姉ちゃんときちんと話してくれたから』


 話しているうちに、桜子の声はかすれてきた。

 最後にちょっとハナをすする音がした。


『ありがとね、ゆっきー』

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