第2話 

 広いが人の少ない大きなビルの一階フロアに入ると、ミモザはエレベーターを探した。左右に目をやると、このビルとはかけ離れた雰囲気のラフなコットンシャツに薄茶色の裾が長いカーディガンを身につけ、黒いデニムのパンツを身につけた背の高い若い男性がいた。年齢は同じか少し上くらいか。髪もオイルさえつけていない感じだが、不潔なわけではなく、むしろナチュラルな空気を身にまとっていた。思えばそれが最初の違和感だったわけだ。

 一階フロアのヴェンダーの前にしつらえられたテーブルで立ったまま紙コップで何かを飲んでいたが、急に何気ないように、離れた場所にいるミモザに目を止め、その目を逸らすでもなく視線を固定した。ミモザは眉を寄せて顔を背けた。もとより、自分が先に彼を見つけて観察しており、その視線に彼が反応したと云う事は明白なのに、不快感がこみ上げてきたのだった。

 そのときにはもう、広いフロアの左手にエレベーターホールを見出したミモザは、靴音をわざと響かせながらそちらの方に向かった。

 エレベーターが降りてくるのを待ち、中に入って一息つこうとすると、急ぎ目に近づいてくる気配がある。

 ミモザは慌てて閉まりかけていたエレベーターのドアをまた開けたが、小走りに乗り込んできた人物を見て、後悔した。

 言うまでもなく、先ほどの男だったのである。

 彼は右手を軽く顎のあたりまで上げて、礼をいうジェスチュアをした。ミモザは無視して会場の11階のボタンを押す。

 少し待ったが言葉がないので、男を見上げると、彼は頷き、それでミモザは彼の行き先が同じ階であることを知った。最初戸惑ったが、11階の中にもいろいろの施設、会議室などもあろうかと思い、「閉」ボタンを押した。

「この会への参加者の方だったんですね。僕はてっきり、このビルのどこかのオフィスで働いている方かと思いました」

 ミモザは自分の僻みなのは分かってはいたが、少々嫌味に聞いた。

「ええ、ついこの間まで四谷のオフィスビルで仕事をしてましたから」

「というと、お辞めになったんですね」

「そりゃそうでしょう、フリーランスの交流会なんですから」

「まあそうですが、まだ副業としている方もいらっしゃる会なので」

 言われるとおりだが、大した意味のないことを偉そうに言われた気になる。

「成田さあん」

 急に嬌声に近い声がして、コスプレかと思うようなメイド服の女性が声をかけてきた。

「ああ、あぶみさん」

 成田というその男はにこやかに微笑み、続けた。

「またお会いしましたね」

「覚えていてくださったんですか。うれしい」

 鐙は赤く染めた長髪を振った。

「こちらの方は?」

 鐙がミモザを横目で見た。

「先ほどお会いした方ですよ。初めての方だし、まだお名前も存じ上げない」

「……なんで私が初めてだと分かるんですか」

「慣れてらっしゃらないから。違いましたか」

「いえ、そうですけど」

 つぶやくように言ったのち、ミモザは顔を上げ、気を取り直して名札を掲げながら微笑んだ。

「綾川ミモザです。あらためて、初めまして。よろしくお願いいたします。」

 そのあいさつは、鐙という女性の絡みつくようなおしゃべりで簡単にかき消されていた。

「あたし、とうとう開店にこぎつけそうです。居抜きでいい物件を見つけちゃって、阿佐ヶ谷に」

「ああ、それはよかったですね」

 成田はミモザのほうにちらちらと目をやって、気を使いながらも鐙の相手をしている。

 そういう成田の様子に、ミモザは気づいた。自分を気にかけるようすに嘘はないようだった。案外誠実な人柄らしい。はじめに抱いた印象はミモザの中でふわりと散った。

 そこでミモザも会話に加わろうとした。

「あぶみさん、ですか? あぶみさんはどのようなビジネスを?」

 すると鐙は弾けるように笑い出した。

「ブィジネェス。そんな大したものじゃないですよー。ラーメン屋を開店するんです。好きがこうじてとうとう」

 面食らってからミモザは少し気が引けた。そういうミモザの思いを察したかのように、鐙は赤い髪を振って、

「私くらいならもっとオサレなカフェとかやる……ああ、でもこの格好じゃメイドカフェにしかならんわ」

 そう言って一人あははと笑った。

「味は本物、メイドラーメン!」

「鐙ちゃんのキャラならうまくいきそうだ」

 そう言って成田も微笑んだ。

「綾川さん、係員の方かと思っちゃいました」

 そう言って、鐙は別の知人に呼ばれて去って行った。

 急に二人でとり残されることになったミモザは急にそわそわと落ち着かなくなり、「じゃあ、私も」と成田から離れようとした。ところが成田は片足だけをわずかに前に出してそれを牽制する。

「綾川さん、初めてならまず僕と交流いたしませんか」

 ぎくりとした。成田は声音よりもまじめな表情をしていた。

「え、はい……」

 背の高い成田に少し緊張する。ミモザも背は低い方ではなかったが、成田はかなり高い。190センチに近いのではないか。近くに来たときから、ミモザは実のところ軽い圧迫感を覚えていたのだ。

 ミモザを止まらせたにもかかわらず、成田はしばし沈黙した。それで余計に按配の悪い気分になったミモザは、はたと思いついて、ビジネスバッグの外ポケットから名刺ケースを取りだした。オリーブ色のシンプルな名刺ケース。会社員の頃から使っていたものだ。

「私、こういうもので……」

 名刺ケースの上に載せて名刺を渡そうと前に差し出したタイミングで、成田が少し上体をかがめてミモザをのぞき込むようにした。驚いていると、さらにびっくりするような言葉をかけられた。

「綾川ミモザさん、僕のモデルになっていただけませんか」

「モデル……」

 意味をはかりかねてミモザはただ復唱した。どういう意味か、いや、成田というこの男が何のビジネスをしているのかによって、その意味は大きく変わる。

 そこまで思いいたって、思わず裸身でポーズをとる自分を思い浮かべてしまったミモザは慌てて顔を逸らした。そう、このまま歩き去ればいい。ヒールの音をわざと高く上げて踏み出そうとして、また成田の牽制を受けた。

「ミモザさん」

 反射的にミモザは小叫びした。

「いきなり名前で呼ぶのは失礼だと思いませんか」

「あなた、自分がきれいなことをずっと自分で無視しようとしていますよね、綾川さん」

 頬に血が上った。ミモザは気性が激しいところがある。つまり、言葉より先に手が出るのだ。

 その出そうになった右手を左手で押さえる。

 眉根を寄せて成田の顔を睨みつけようとしたが、成田は右ポケットの中に手を入れ、心持ち顔を逸らしていた。

「私、こういうものですが」

 差し出されたのは、全面黄色に白と緑の小さな明朝体で抜かれた名刺だった。

「ドールデザイナー?」

 つい声に出してしまった。doll。何か胡散臭い印象が湧く。

「今、不信感を抱きましたね」

 的確に成田が突いた。

「だって……」

 ミモザは口ごもる。ミモザの中には、人形を作る若い男性にあまりよい印象は生まれなかった。人形というものにどこか恐ろし気な印象を抱いているためかもしれない。成田の方はミモザの頭の中に浮かぶイメージは承知しているといったふうに微笑した。

「僕のビジネスは大きく言えばモノづくりですね。これでも、プロの日本人形職人のもとで修業させていただいています」

「ああ、日本人形ですか」

 ほっとして応じた。きれいな着物を着たふっくらとした少女の人形、あるいはひな人形や五月人形のようなものが思い浮かんだ。

「いや、僕のつくりたいのはそういうある種類型化され理想化された様式美のような人形ではないんです。現代の日本女性の姿を映したような新しい日本人形、かな」

 ミモザは成田が何を言いたいのか、どのようなことをやろうとしているのか、ますますよく分からなくなってきた。しかも先ほどの「モデル」という言葉が引っかかる。それ以上に「自分の美しさを無視しようとしている」というあの言葉の真意が聞きたいし、聞いた時点では不快で不安な気分になっていた。

 それに成田の言い方は気障のようにも聞こえるし、どこかミモザの底にある黒い記憶をうずかせるところもある言葉だったのである。

「現代女性の日本人形?」

「ほら、ますます不信感を強めましたね」

 成田はおかしそうに笑う。

「でも、不思議とは思いませんか。なぜ、今を生きる人々の姿をもっとアートにしようとしないのか」

「アート」

「そう、自分にとっては『人形』というのはアートです。変な想像しちゃだめですよ。ようするに、彫刻と同じように考えてください。そうすればエロい発想も出ないでしょう?」

「え、え?」

 言い当てられて、かつ腹が立ってミモザは口ごもった。

「私、もう失礼します」

 と言って成田から離れようとしたとき、目の前にタブレットの画像が差し出された。

「これが僕の作品です」

 小学生くらいの男の子と、高校生くらいの女の子のまさに人形。しかし直立している姿ではなく、小学生はバスケのボールを今まさにシュートしようとしているような姿勢、女子高生はジャケットタイプの制服で、片手で本を手にしている。

「今の僕はまだ目指す仕事までは行っていません。今主なターゲットにしているのはファミリー向け。早い話がお子さんのそのときの姿を留めておきたい親御さんの意向を受けて、その子の好きなことをしている姿を人形にしています。始めたばかりなので点数は少ないですが、ファミリー向けはファミリー向けで、お子さんの成長記録を留めおくような人形制作サービスを考えています」

「今時、いくらでもスマホで写真も動画も残せるのに、こういうの、需要あるんですか」

 にわかに起業家の興味関心が湧いて尋ねるミモザ。

「あるんです。僕も意外でした。一体一体手づくりなので、時間もかかり、今予約待ちの方が何家族かあります」

「へぇ」

「こういう取り組みはそれはそれで楽しいものですし、ご家族の……とりわけ親御さんのお役に立てるなら、今後も続けていきたいとは考えているんです。ただ、僕として今後主要なターゲットにしているのは成人女性です。ご自分の意思で、今の自分を形に残しておきたい方。たとえ人形でも、そのときの自分を後から懐かしんだり成長を確認したりしていけるような女性の方です。そのために、より美しくつくることができるように、今仕事の合間に日本人形に関しても勉強しているところです」

 こんなことがビジネスになるのか、ミモザはまだ半信半疑ではあったが、成田のアイデアは悪くないと思った。

 しかし、最初の言葉「美しさを無視している」というのは、当人の意思さえ無視しているものではないか。再び警戒心が鎌首をもたげる。

「でも、どうして私なんか。もっと生き生きしている女性はたくさんいますよ。それこそ、起業家精神を持って、プロのモデルや俳優にアタックしたら?」

 語尾がきつい声音になった。

「それじゃ面白くないでしょ」

 急にフランクになる成田。

「そういう方は、プロとして自分をつくり見せているんです。それは立派な仕事です。でも、僕がモデルにしたいのはそういう人たちではない、ふつうの人です」

「でも、あなたがいうように、その、私き、きれいでは」

「きれいですよ。そんな、型通りのビジネススーツで映える方、いわば制服を超えるような生命力を見せる方はそういないんです」

 成田は女性の観察家か、とミモザはさらに距離をとろうと考えたが、それでも彼の言う自分の姿を脳裡に浮かべずにはいられなかった。

「まあ、実際にはそういうビジネススーツよりは私服の方がいいですけどね。お気に入りを着てきてください。そのほうがあなたらしさが出るから」

「ちょ……ちょっと待って」

「話は早く進めるのが僕の主義で」

「まだOKとは言ってません」

「まだ?」

「揚げ足をとらないでください」

 そういいながら、つい上目遣いに睨んだ自分がすでに成田に負けていることをミモザは理解していた。

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