8 聖女入国

 ナタ・デ・ココを乗せた船は、以降はなんのトラブルもなくエキドナ側の国境を守る城へ帰港した。

 航行中はせまいながら個室をあたえられた。ただし、ドアの外には見張り役か護衛役かの兵士が付いていた。

 彼女は椅子の背にもたれかかり、ぼんやりと右肩をさすっていた。

 上半身に包帯が巻かれているが、傷口は完全にふさがっていた。

 落ち着いてくると、腕をなくしたという喪失感に襲われる。ココは右利きであったため、板を削って左手で文字を書いたときも苦労した。これからはなんでも左手一本ですることに慣れなくてはならない。

 ココは大きなため息をついた。

 ふと、ドアの外で話し声がした。つづいてノックする音が聞こえると、彼女が「はい」と返事をするよりも早くドアが開いた。

 ショートカットの黒髪と、それとおなじ色のくりっとした愛らしい瞳がのぞいた。エキドナ王国の王太子アルバートだった。後ろには赤毛のグレゴリー・ペダンがいる。


「休息中に邪魔してすまない。殿下がお話ししたいとのおおせなので」


 グレッグが言った。


甲板デッキに行こう。こんなところでは気が滅入るぞ」


 王子が屈託のない表情でつづけた。


「いろいろ話を聞かせてくれ」


「ご所望でしたら」


 ココは腰を上げた。たしかに個室にこもっていても気が滅入るだけだった。




 雲が晴れて青空が広がっていた。

 空の青、森の緑、茶色に淀んだ川。目に入るものはほぼその三色だった。

 ココは王子のあとについて、余る裾を片手でたくし上げながら甲板を船の舳先へさきまで走った。

 皆、道を開ける。グレッグは邪魔にならないように後ろに下がって立っていた。

 アルバート王子は十二歳。並んで立つとココと背丈は変わらないか、王子が少し低いくらいだった。

 近くにいた小船が加速し、前の船を追い越してどんどん先へ進んでカーブで見えなくなった。


「船の到着を知らせに行ったのだ。もうすぐウガイ城に着く」


 王子が物知り顔で説明した。

 ココはふり返って後方を見た。転覆していた船は起こされて、一艘は放置されたが、一艘は遅れながらもなんとか自力でついてきているようだった。


「ウガイ城から救援が来るだろう」


 ココが心配そうにしているので王子は言った。


「そうしたら引っぱってもらえる」


 ココはうなずいて前に向き直ると王子にたずねた。


「ヴァンバルシアにはどんなご用事で?」


 国王がわざわざ出向くというのはよほどのことである。


「婚礼だ」


「婚礼?」


「王太子ランデル王子の結婚式に呼ばれたのだ。他国の王もみんな来ていた」


「結婚……もしや、花嫁はババロアですか」


「ああ、そんな名だったかな」


 王子はあまり興味が無いようである。


「なんでも、大聖女のまま結婚するのがめずらしいと話題になっていた」


 たしかに、ココの知るかぎり大聖女が結婚するのは引退してからである。

 ババロアは、まだ二十歳。十分大聖女をつづけられる歳なので、王族の気が変わらないうちに先に結婚だけ決めておくというのはありそうな話であった。

 大聖女が王太子と結婚するために早期に引退するということはある。王族は子どもがたくさんいたほうが望ましいため妻は若いほうがいいのだ。今回の場合は、次期大聖女がまだ決まっていないが結婚はしておきたいのか、ババロアが大聖女の座に固執して退きたくないのかだろう。ほかにも政治的な理由があるのかもしれないが、六年間、外界の情報が入ってこなかったココには推し量ることはできなかった。


「婚約じゃなくて結婚なんですね」


「婚約はあてにならんからな」


 王子は、船の進む先を眺めながら素っ気なく言った。


「それにしても怪物どもはすごかったな!」


 それから、急に目を輝かせてココのほうを向いた。

 王子は魔物の出現に対しては興奮冷めやらぬといった印象だった。

 年齢からしても、結婚式より怪物のほうに興味をそそられるのだろう。


「あの火の玉はそなたが呼び出したそうだな」


「はい……少々無茶をしました」


「いや……ほんとうにすごかった」


 声は平静であるが、目は大きく開かれて気持ちの高ぶりを示していた。

 死者が出ているのであまり嬉しそうに話してはいけない、と一応は自重しているようすである。

 しかし、少々興奮の度合いが過ぎるようにココは感じた。思い出して話しているうちにどんどん神経が高ぶっているように見える。

 邪神は見たものに悪い影響をあたえ、ときには狂わせたり命を奪ったりする。すぐにではなくとも、だんだんと王子の精神を蝕んでいく可能性はある。


「なかなか見れるものではない……!」


「ええ、とても稀有けうな存在です」


 一生のうちになかなかお目にかかれるものではない。お目にかかりたくないものの一位でもある。

 そう言いながらココは、王子の背中にそっと手を当てた。怪我を治す要領で心の傷も治せないかとなけなしの霊気を送る。

 荒くなりかけていた息づかいはすぐに落ち着いてきた。


「大丈夫ですか? 殿下」


「ああ、すまない。少し興奮しすぎたようだ」


「あのような怪物を見たあとですから無理もありません」


 この様子だと、船に乗っていたもので邪神を見たものは全員カウンセリングを受けさせたほうがいいのではないかとココは思った。あとであの救護の指揮をとっていた男に話してみよう。


「それにしても、腕一本犠牲にしてわれわれを救ってくれるとは」


 王子はココの肩口に目をやった。


「臣下が命をかけて私を守ってくれるのは役目だとしても、国民でもない見ず知らずの他人がそれをやってくれるのは、それこそ稀有なことだ」


「あれはとっさのことだったので……」


「父上に言われてよくそのありがたみがわかった。まだ若いのにそこまでやれるのはすごい」


「まあ、若いといえば若いですけど……」


「ほんとうに感謝する」


「そ、そんなに感謝なさらなくても大丈夫です」


 王子の真摯な瞳に見つめられて、ココは白い頰を紅く染めて答えた。


「ん?」


「え?」


 突然、王子が驚いたようにココの身体をまじまじと見た。


「身体が……光ってる?」


 ココの身体がかすかにほんのりと温かい光を帯びていた。


「ああ、これは」


 ココも自分の左手を確認した。


「殿下があまりにすごいすごいとお褒めになるから」


「私が……?」


 自分がなにかやったのか、と王子も自身の手を見た。


「愛情を注がれると霊力が高まって身体が光っているように見えるのです」


「レイリョク?」


「そうです、聖女にとって霊力はとても大切なものです」


 自分はもう聖女ではないけれど、とココは思いながらつづけた。


「追放される前のわたしを世話してくれたかたも、たくさんの愛情を注いでくれました。それまでのわたしは一年以上、口を聞くこともできなかったのに、おかげでいまはこうして殿下とお話もできるようになりました」


「ええと……つまり」


「元気になっているのですよ、殿下に褒められて」


「そうかそうか、もっと元気になれ!」


 王子は完全に理解したようではなかったが、ココの手をとると楽しそうに上下に振った。


「そ、そんなに急にはなりません……」


 屈託のない笑顔を見て、上下に揺さぶられながらココも思わず笑みをもらした。


「まあ、すっかり仲良しさんね」


 背後から声がした。

 目を向けると高貴な衣装を着た女が立っていた。

 グレッグが道を開けて頭を下げている。

 ココはまちがいなく王妃だろうと思った。


「母上、お気づきになられたのですか」


 それを証明するように、王子が女に駆け寄った。


「心配かけたわね」


 王妃は目を細めてやさしげな表情を王子、そしてココに向けた。

 彼女が近寄ってきたのでココは膝を着こうとしたが、王妃はその手をとって立たせた。


「この子の母のケイトです。お礼が遅くなってしまってごめんなさいね。私ったら気を失って倒れていたものだから」


「そんな、お礼などもったいない」


 王妃は、かしこまってうつむくココの肩に手を乗せ、膝を折って目線を合わせた。


「いいえ、私たちを助けるために右手を犠牲にされたそうね。お礼のひと言ふた言ではすまないわ」


 正面から見つめる慈愛に満ちた瞳は、どこか世話をしてくれた大聖女を思い出して、ココを懐かしい気持ちにさせた。


「陛下がお礼はなさるでしょうけど、不足があったら遠慮せずなんでも私に言ってくださいね」


「はい、ありがとうございます」


「それにしても——」


 王妃はすっと膝を伸ばすと、王子をふり返った。


「アルバートにおなじ年頃の話し相手ができてよかったわ」


「いえ……わたし、二十歳……」


「これから良いお友だちになってくださいね」


「……はい」


 王妃に手をとってそう言われればなにも言い返すことはできなかった。


「なんだ、皆ここにおったのか」


 ふたたび背後から声がした。

 グレッグがまた頭を下げている。その向こうからエキドナ王レイモンドが臣下を連れてやってきた。


「父上、ウガイ城です!」


 アルバートが前方を指差す。

 川岸にエキドナ王国の西側を守る城が見えた。


「うむ、とんでもないトラブルに見舞われたが、なんとか帰ってこれたな」


 王はココの横に並ぶと、その背を軽くポンと叩いた。


「そなたのおかげだ。エキドナへようこそ、ナタ・デ・ココ」


 ココは甲板から城壁を眺めながら、無意識に右の肩口をさすっていた。すでにそれが癖になってしまったようである。

 片腕をなくした喪失感はこれからもたびたび襲ってくるだろう。しかし、その都度「かれらを救えたのだから」と自分に言い聞かせることで乗り越えられるような気がした。

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