3章
●赤い服の女からその犯人を捜すように依頼があった。
寧々が自動車の当て逃げにあい、病院に入院したという。赤い服の女からその犯人を捜すように依頼があった。もちろんそれは兄である××からの意向でもある。
「あたしにとってはどちらでもいいのよ。」と赤い服の女は本音を言った。
「そうなのですか。」とオレは答えた。昼間だったが、ジントニックを注文した。
「そうよ、彼女がどうなろうと知ったことじゃない。」とカクテルを飲みながら女は言う。
「言いますね。」とオレは笑いながら答えた。
「ま、兄が放っておくわけないだろうし。」それに裁判にもかかわるわけだ。
「次は誰が狙われるかわからないですよ。」とオレは言った。
「そうね、そうかもしれない。」と赤い服の女はため息をついた。
「犯人を見つけ出すのは難しいかもしれません。」とオレも本当のことを言った。裏の世界のプロ仕事だとすると、到底犯人は見つかりっこない。
「そうなの?探偵さんでも不可能なことがあるのね。」と女は皮肉に笑った。
「金次第といきたいところですが。」とオレは答えてジントニックに口をつける。
「ま、当たってみてちょうだい。」と言うと女は立ち上がった。
「ええ、少なくとも彼女の命は守りますよ。」とオレは言って、後悔した。本当にそんな約束が守れる保証はどこにもなかったからだ。
「裁判が成立するまで、お願いするわ。」と女は言った。裁判が終われば用済みと言わんばかりだ。ただオレはそんなシンプルさが嫌いではなかった。
「わかりました。」と言ってオレは立ち上がり、軽く会釈した。
「兄もあなたには感謝していました。」と女は去り際に言った。
「ああ、お兄さんにもよろしくお伝えください。近いうちに伺いますので。」とオレは言った。彼女は手を上げて、去っていった。
「依頼があってよかったですね。」とバーテンが言ったので、オレはうなずいた。
「これでしばらくは食いくちがあるってもんだ。」とグラスをテーブルに置く。
「何か問題が?」とバーテンが聞くので、オレは再びうなずく。
「嫌な予感がするんだ。」季節は春になろうとしてるのに、妙に寒い晩だった。
寧々が入院しているという病院をオレは訪れた。彼女は危篤患者が入る個室から一般の病棟に移されたところだった。しかしオレが行くと、彼女はいっぱいの管をつけていた。意識がないのかと思ったが、オレが話しかけると彼女は目を開けた。
「大丈夫ですか。」とオレは言って、我ながら何を言ってるんだと思った。大丈夫なはずがない。
「ええ。」と彼女は力なく言った。
「答えなくても大丈夫です。」とオレは言った。そしてお見舞いの花を横のテーブルに置く。
「ありがとう。」と小さな声で彼女は言った。うつろな目、そして傷だらけの顔。
「いえ。」とても不憫だったが、それを表情に出さないようにしている。
「ああ。」と彼女は、指差した。そこには絵がかかっていた。
「ほう、誰の絵ですか。印象派のようだ。」とオレは言う。明るく、健康的な女の絵。メアリー・カサットかもしれない。
「持ってきてくれた。」と彼女は言って微笑んだ。正確には、微笑もうとした。
「誰が?」とオレは言ったが、それはナンセンスな質問だった。
「××さん。」と嬉しそうに寧々は言った。
「なるほど。」とオレはもう一度、絵を見た。もちろんレプリカだろう。
「裁判。」と彼女は言う。
「はい、裁判はしばらく出れそうにないですね。」とオレは察して言った。
「ええ。」と彼女は答えて、残念そうな表情を作った。
「治るまでは無理でしょう。」とオレは娘に言い聞かせるように言った。
「そう。」と寧々は言う。
「命があっただけよかった。」とオレは言いながら、次に刺客が来たら一たまりもないなと思った。
「うん。」と答える彼女も神妙だ。
「ボディガードはいないのですか?」とオレは聞いた。
「ううん。」と言いながら、彼女は曲がらない首を曲げようする。
「無理はしないでください。」もちろん病院に不審者は入れない。かと言って、誰でもやすやすと身分を偽ることは可能だ。
「ありがとう。」と寧々は答えて、目を閉じた。何を思っているのだろう。
「車の犯人の姿は見ましたか?」とオレは聞いたが、彼女は目をつむったままだった。
「すみません、これくらいにしてください。」そこで看護婦さんがやってきた。
「お大事に。」とオレは言ってその場を立ち去った。何も手がかりは得られない。
オレは××と会うことにした。保釈の身である奴だが、普通の生活はできているはずだ。待ち合わせのために麻布のバーに行くと、奴はすでにカウンターでグラスを傾けていた。
「どうも。」とオレが言うと、××は手を上げた。留置所にいるときよりもだいぶ元気そうだった。
「こっちへ。」と奴はソファのある奥へと連れて行く。
「どうですか。」とオレはあいまいな問いを投げかけた。
「どうもこうもない。」と彼は笑ってみせた。
「寧々さんは大変な目にあったみたいですね。」と言いつつ、お見舞いに行ったことは伏せておいた。
「ああ、奴らのすることといったら。」と××は天を仰いだ。奴らとはもちろん企業のことだろう。
「とんでもない。」オレは合いの手を入れる。
「どんなことでもする。金のためなら。」と彼は薄ら笑いさえ浮かべる。
「なるほど。」探偵稼業のオレがまっとうに答える権利も義務もない。
「金といってもはした金じゃない。」と彼は真顔に戻って言った。
「そうでしょうね。」とオレは答えたものの、それがどれくらいの金額なのかは想像だにできなかった。
「ミリオン・ダラー。」と彼は突然英語で言った。
「ミリオン、ドルでですか。」とオレは繰り返す。つまり億単位ということだろう。
「そう、莫大な金が動いている。そこには善悪は存在しない。」と企業戦士の顔になって××は言った。
「善悪。」とオレは再び繰り返す。
「これは経済学とも関係することです。金だけを信じていいのか、それともそこには何かしら倫理観、ルールが必要なのか。」と彼は言った。
「なるほど、ケインズですか。」とオレは問いかけた。
「そうとも言える。大きな目で見れば、やはりルールは必要。では、そのルールは誰が決めるのか。誰が有利で、誰が不利なのか。新しい事柄に対するルールは?そして秘密のルールがあるとすれば?」と彼はまくしたてた。
「秘密のルールがあるのですか?」とオレは端的に言う。
「もちろんある。どこにでも秘密がある。それもまた倫理観と重なる。秘密にするのがいい場合もあるから困る。」と彼は言って、手で顔を覆った。
「複雑なようですね、経済も。」とオレは他人事のように言う。
「しかも、そこに人の命がかかわるとややこしい。」と彼は言った。
「寧々さん。」オレは言う。
「金と命、どちらが重いのか。」その答えはすぐには見つかりそうにない。特に経済優先の社会では。
次の更新予定
狼たちのクレイジーな夜 ふしみ士郎 @fussi358
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