● 中野ブロードウェイのバーに戻る。


 中野ブロードウェイのバーに戻る。コートについた雪をはらってオレは白い息を吐く。

「外はまだ雪ですか。」とバーテンが聞いてくる。

「ああ。」とオレは座りながら言う。

「いつもの?」とバーテンはジントニックを作ろうとする。

「いや、今日は焼酎のお湯割にしてくれ。」とオレは言った。

「ええ。」と言葉少なく彼は言った。

「誰か連絡は?」とオレが聞くと、彼は思い出したように紙を渡してくる。

「前にも来た女の人です。」と彼は言う。ふむ、とオレがメモ用紙を見ると、そこには電話番号と名前が書いてあった。赤い服の女だ。彼が寧々の裁判への出席を認めたのは、もしかしたら妹である彼女の介添えがあったからだろうか。オレは電話を借りた。

「もしもし。」とオレが言うと、女の声が聞こえた。

「さっき電話したのよ。」と赤い服の女の声がする。

「ええ、今帰ってきました。留置所から。」とオレは言った。

「ご苦労様。雪で大変だったでしょう。」と彼女は落ち着いた声で言う。声だけを聞いていると、とても二十代には思えない。

「ええ、まぁ仕事ですからね。」とオレは、バーテンから焼酎を受け取って口をつける。

「それでどうだった?」と彼女は言った。

「おかげ様で、××さんは寧々さんの裁判出席を認めてくれました。」とオレは言った。

「そう。よかった。」と無機質な声で女は答えた。

「もしか、お兄さんに言ってくれたのですか?」とオレは率直に聞いてみた。

「そうね。ちょっと説得には時間がかかったけど。兄のためよ。」そう彼女は言う。

「なるほど。助かりました。」とオレは言う。

「どちらにしても、色々と手は尽くさないと。」と彼女は言った。

「ええ。これからが大変かもしれません。企業の対策とか。」女がどこまで寧々の肩を持つのかは知らない。だが少なくとも、兄の言うことは聞くだろう。

「そうね。お金もかかる。」と彼女が言ったので、保釈金のことを聞いてみることにした。

「××さんが留置所を出るお金を支払うって話がありますが。」とオレは言った。

「誰が?」と少し声色が変わった。

「いや、寧々さんがそのようなことを言ってました。」とオレは端的に言った。

「そう。」と静かな声に戻って、それから沈黙が続いた。オレは焼酎を飲んで、相手が喋るのをじっと待った。


「保釈金については、妹さんが払うそうです。」とオレは寧々を前に言った。

「よかった。これで××も。」と寧々は部屋のソファに座って言った。鷺ノ宮の彼女の家だ。

「妹さんもお金を工面するのに時間がかかったみたいです。」とオレは言いながら、はたしてそれのどこまでが本当だろうと怪しんだ。最初からお金はあったんじゃないだろうか。もしかして寧々を裁判に出すために××は留置所にいたんじゃないだろうか、とさえ思った。

「お金、お金。」と寧々は少しうんざりしたように言った。

「はは、確かにお金の話しばかりだ。」とオレは彼女のいれてくれたコーヒーを飲みながら言う。

「裁判にもお金がかかるわ。ましてや私が出るとなると相手はどんな手でくるか。」と彼女も自分でいれたコーヒーを飲む。

「あなたはスパイとして××に近づいた。そして本当の恋に落ち、今度は企業を裏切る。」とオレはストーリー仕立てにして話した。

「まるで映画のようね。」と彼女は少し笑いながら言った。

「その結末は?」ハッピーエンドになるのだろうか。

「幸せな結末を願うわ、監督さん。」と彼女は真剣に言った。

「もし私が監督なら、その前にもう一度どんでん返しを入れますがね。観客が退屈しないように。」とオレは言ってコーヒーに口をつけた。

「ええ、私が脚本家でもそうする。どうせなら誰かを殺すわね。」と彼女は冷徹に言ってのけた。

「誰かが死ぬ、ではなくて殺す、ですか。」とオレは一瞬ギョッとした。

「ライターとして雇ってくれる?監督さん。」と彼女は笑いながら言った。どこまでがジョークなのだろう。

「なるほど、殺人事件ってわけだ。」とオレも笑いながら答えた。

「殺人だったら探偵さんの出番じゃない?」と彼女はさらに続けて言った。

「監督もしながら、出演も兼ねるってわけか。」オレは立ち上がる。

「あら、お帰り?」と寧々も立ち上がりながら言った。

「とりあえずご報告を兼ねてだったもので。さしあたり、私の仕事は完結しましたから。裁判については弁護士さんがいい仕事をしてくれることでしょう。」とオレはコートを着て言う。

「ええ、そうね。」と彼女はシンプルに言って、オレを送り出してくれた。

「ハッピーエンドになることを願ってます。裁判にはできるだけ顔を出しますよ。」とオレはいらぬことまで言った。

「ありがとう。」と寧々は言いながら、ドアを閉めた。オレは会釈して、鷺ノ宮の駅まで歩いた。さすがに雪は降っていなかったが、寒さが身に染みた。なぜかやりきれない気持ちだった。


 寧々の身に何かあったと聞いたのは、それから一か月もしてからだった。もう梅の咲く季節になっていた。赤い服の女が、突然中野の店に現れたのだ。

「ああ、こんにちは。お久しぶりです。」と挨拶をしたオレは、バーテンとポーカーの勝負をしてるところだった。

「忙しいようね。」と赤い服の女は言った。彼女はコートを脱ぎながら、お酒を注文した。

「昼からお酒ですか。」とオレは茶々を入れた。

「そういう気分のときもあるわ。」と彼女は言って、カウンターに腰を掛けた。

「どうかしましたか?」新しい依頼の匂いがした。もちろん彼女がここに現れるには理由がある。

「そうね。」と言って、彼女は一瞬黙りこくる。

「悪い知らせですか?」とオレは尋ねた。

「ええ。」とさらに口数が少なくなる彼女を見て、オレの嫌な予感はさらに増した。

「ちょっと、一杯飲ませて。」と彼女はバーテンの作ったカクテルに口をつける。

「××さんの身に何か?」彼は保釈されて自由の身になったはずだ。そして裁判は進行中。

「いえ、兄は何とか無事です。」何とか、というのが気に障った。

「では誰が?」とオレは言いながら、寧々の顔を思い浮かべていた。

「兄の愛人だった人。」と彼女は過去形で言った。

「寧々さん。」とオレは名前を口に出した。

「ええ。大変なことになったの。」彼女は言った。

「大変なこと?」とオレは最悪のケースさえ思い浮かべた。

「命は何とか助かったけど。」けど、という言葉の次に何がくるのか。

「けど、事故ですか?」とオレは推察を働かせた。

「そうね。自動車事故、当て逃げ。」と彼女は言った。

「そうですか。命が助かってよかった。」とオレは言った。

「でも重体で、顔までひどい傷よ。」と赤い服の女は言う。

「なるほど。」とオレは冷静に返事をした。しかし包帯だらけの彼女を思い浮かべるのは辛かった。

「裁判は?」とオレは聞く。裁判に出さないための事故だったとすれば、命を失っていてもおかしくはない。

「当分は無理ね。」と彼女は言って、再びカクテルに口をつけた。

「そうですか。」とオレは言いながら、また仕事の依頼が来るだろうことを喜んでいいのかどうか分からなかった。


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