〇「結婚だよ。」とDはぬけぬけと言ってのけた。
「オレが結婚してるの、言ったっけ?」と突然Dが言ったのを覚えている。
「え、なんだって。」とオレは答えて、自分の耳を疑った。
「結婚だよ。」とDはぬけぬけと言ってのけた。たしかパチンコをしてる最中だったと思う。
「なんの話しだ。」とオレは半分パチンコに気をとられて、奴の話しを聞いてなかった。
「奥さんが待ってるんだ。」と言うと、奴はタバコを消した。Dのパチンコ玉はすっからかんだ。一方こちらは大量の玉が箱に積んであった。
「え、奥さん?」オレはまだDの言うことが分からなかった。
「ああ、帰るわ。」と奴が立ち上がるので、慌ててオレは奴を追おうとした。しかしそこでリーチがかかって、手を離せなくなった。
「ちょっと待てよ。」とリーチが終わるのを待って、オレは玉を換金しに行く。
「タバコを頼む。」とDはオレの大量の玉を見ながら言った。
「1カートン。」とオレは奴のタバコを換金してやる。
「ありがとよ。」とDはお礼を言うと、またタバコに火をつけた。
「なんて言った、さっき。」とオレは温かくなった懐をさすりながら歩く。
「なにが?」とDは素知らぬ顔で言い放った。
「結婚とかなんとか、奥さん?」とオレはガムを噛みながら言う。
「冗談だよ。冗談。」とDは言った。
「なんだそれ。」とオレは言った。
「帰る用事があるってことさ。」とDは煙に巻く。
「お前に用事なんてあるのかよ。」とオレは悪態をついた。
「ま、大した用事じゃないんだけどよ。今日は勝ち目もなかったからな。」とDは言ったが、これでもう三日間負け続けていた。オレはようやく三日目にして当たったわけ。
「お茶でもしてくか?おごるぜ。」とオレは言った。
「ま、やめとくわ。」とDは言って鼻をすすった。
「なんだよ、付き合い悪いぜ。」とオレは言ったものの、さっきのDの言葉を思い出していた。結婚?
「色々あるんだよ。」とDは言う。その時の奴は無職だったし、毎日パチンコに明け暮れていた。
「なにが色々なんだ。」とオレがしつこく聞くものだから、Dは吸いかけのタバコを捨ててしまった。
「女がらみってこと。」とDは言って笑った。
「女?」とオレは自分の耳を疑った。Dに女っ気なんて全くないように思えたのだが。でもそれが本当だと知るのは、もっと後になってからだった。
Dが秘かに結婚して娘までいると知ったときは、それなりにショックだった。その事実自体より、始終一緒にいたというのになぜ教えてくれないのかと。
「いやぁ、言いそびれてな。」とDはゴーグルを外しながら言った。オレたちは公共のプールで泳いでいたのだ。
「言いそびれるようなことか?」とオレは水泳パンツを直しながら答えた。
「ま、なんとなく。」と悪びれもせずにDは言う。
「ったく。」とオレは水の中に潜った。水中の中は静かで、すべてが神秘的に感じられた。
「誰も式には呼んでないんだよ、友達は。」とロッカールームでDは言い訳するように言った。
「他の奴はどうでもいいんだ。」とオレは言った。
「ハネムーンも行ってないんだぞ。」とDはシャワーを浴びながら言った。
「そうか。」とオレも隣のシャワー室から叫んだ。
「結婚指輪も買ってない。」とDは大声で叫ぶ。
「それはまずいだろ。」とオレはDのシャワー室に顔を出す。湯気で奴の表情は見えなかった。
「仕方ないだろ。」とDは首を振っていた。
「ちょっと働いて買えよ。」とオレは言う。
「今さら。」とシャワーを浴び終わったDが言う。
「今さらだろうと、喜ぶんじゃないのか。相手は。」結婚指輪がないのに結婚してるだなんて、よく言えたもんだ。
「ま、喜びはするだろうな。」とタオルで体を拭きながらDは言う。
「いくらくらいするもんなんだ。」とオレも体を拭きながら言った。
「給料三か月とか言うけどな。」とDは言った。
「それサラリーマンの話しだろ。」とオレは服を着ながら言う。
「まぁ、ざっくりとそういうところだな。二十万×三で、六十万?」とDはそろばんをはじく。
「高いな。」とオレは具体的に数字を出されてたじろんだ。
「だろ。それなら家電を買うなりするってさ。」Dの奥さんがそう言ったのだろう。そんなこと言う女もいるんだな、ハネムーンや式の代わりならともかく。
「現実的なんだな。」とオレは奥さんに関して述べた。
「ああ、そこがいいんだ。オレがこんなだから。」とDは言うと服を着て、へへへと笑った。
「そんなもんか。」とオレが答えると、入口から子供たちがワーっと入ってきてDの足を踏んでいった。Dは笑いながら肩をすくめた。
喫茶店の奥さんは冷静だった。そしてその薬指には結婚指輪はなかった。
「とにかく何か情報があれば教えてください。」とオレは連絡先を教えておいた。
「わかりました。」と彼女は言って、買い物袋を持って去った。
「どうしたことやら。」オレは喫茶店でコーヒーの残りを飲み干した。せっかくDの奥さんに偶然会えたというのに、なんの手がかりもつかめなかった。もちろん彼女が知っているなら、警察だって知っているだろう。オレは中野ブロードウェイに戻り、田中美千代はどうしているだろうと考えた。新井ナナについて何かつかめただろうか。
「もしもし。」彼女は電話越しに言った。
「こっちは奥さんに会えたよ。」とオレは言う。
「Dさんの?」と彼女の声は弾んで聞こえた。
「ああ、中野の近くで偶然出会ったんだ。」とオレは言った。
「すごいじゃない。で、どうだった。何かつかめた?」と彼女は言った。
「それが、彼女も分からないらしい。警察にも話したみたいだが。」とオレは声のトーンを落として言う。
「そっか。」と彼女も一時停止する。
「何かあれば連絡してもらうことにはなってる。そちらはどうだ?」とオレは尋ねた。
「あ、電車が来た。中野だよね、今からそっち行くよ。」と美千代は言った。
「オッケー。」とオレは答える。しばらくすると、美千代と合流した。彼女はダッフルコートを着て、温かそうな格好で向こうから駆けてきた。
「おまたせ。」と彼女は言った。
「店に入ろう。寒い。」とオレは言って、飲み屋に彼女を連れて行った。
「温かい物がいいな。」と美千代は言った。オレは飲み屋で熱燗を二つ頼んで、焼き鳥や焼き野菜を注文する。
「とりあえず飲もう。」と二人で乾杯して、彼女の話しを聞く。
「ナナのことなんだけど。」と美千代は言いにくそうにした。
「どうした?何か手がかりがあったのか。」とオレは彼女の目を見る。
「うん、ナナが消える前に会っていた人がいるらしくて。」と美千代はオレの目を見て言う。
「Dじゃなくて?」とオレは聞いた。
「別の人。」と美千代は言った。
「男か?」とオレがさらに尋ねると、彼女はゆっくりうなずいた。そこで注文の品が運ばれてくる。
「うん。」と彼女は物思いにふけるように言った。
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