●留置所の××へと電話をしてみると、刑務官がとりついでくれた。
留置所の××へと電話をしてみると、刑務官がとりついでくれた。電話越しに、××はオレのことを「存じ上げています。」と言った。それなら話は早い。
「とにかく会いたい。」とオレは言った。それには手続きが必要だった。誰でもが会えるってわけでもない。オレは再び刑務官と話しをして、事務的な手続きを済ませることにした。
「面倒なことほど、金になるってわけだ。」オレはそれらの手続きをしながら思った。そこに専門知識や法律が絡んでくると、職業も自然と生まれてくるって寸法だ。
「それに比べて探偵なんていい加減なもんだな。」資格と言っても国家試験があるわけではない。健康でさえあれば誰にだってなれる。ただ煩雑な奴には仕事は舞いこんでこない。それはどの業界にいたって同じことだろう。
「だが細かい奴が重宝されるばかりってわけでもない。」なぜなら時には大胆に人と接したり、コミュニケーションをとることも必要とされるからだ。自分を守るためだけではだめだ。たとえば家族や依頼人を守るために、うってでる勇気も必要とされる。もしかしたらオレにはその要素が足りなかったのだろうか。オレは気を取り直すと、三日後に再び留置所へと出向いた。面接の時間の十五分前だった。刑務官は事務的な冷たい目でオレを見る。こういう所にいると誰でもそういう風になるのかもしれない。
「××さんですね。」と刑務官は言うと、オレの身体検査をした。そして何枚かの用紙にサインをさせて、面会室に通す。オレはスーツを着て行こうかと思ったが、手ごろなのがなくてやめにした。探偵がどのような格好をするかは、自分次第だ。目立たなければそれが一番、と研修では教わった。もちろんこんな場所でカラフルな服を着る間抜けはいないわけだが。しばらく待つと、奥の戸が開いて痩せた男が入ってきた。そして制服を着た刑務官が誘導して、オレの前に座る。もちろん二人の間には分厚いガラスがあるわけだが、声は聞こえるように小さな穴があいている。まさにテレビドラマでも見るような仕組みだ。ただテレビと違うのは、そこに匂いがあるってことだった。古い役所か倉庫のようなカビ臭さ。また体の底から冷えるような空気。しんみりというよりは、寒々しい匂いが漂っている。
「どうも。」とオレは××に向かって挨拶をする。相手はオレの目を一瞬見て、それからうなずいた。
「話しは聞いてます。」と男は頭を下げた。まだ罪が決まったわけではないので容疑者という立場であるわけだが。釈放されるには保釈金を積まなければならない。
「そういう話は弁護士としてもらうとして。」とオレは言った。こいつがどれくらいの金を持っているのは知らない。妹のほうはそこそこ金があるように見えたが、保釈金を払えないのなら大したことはないのかもしれない。
「いえ、身の安全のため、ここにいるのです。」と相手は平然と答えた。痩せた頬が、痛々しかった。
「そうですか。じゃああの愛人の、寧々さんについては?」とオレはいつものように単刀直入に聞いた。そのほうが相手の素直な反応を得られる場合が多いからだ。しかし相手はゴホゴホと咳をしてからうつむいて、黙り込んでしまった。
「別に無理に言う必要はありません。」オレはカフェにいながら、××との会話を思い出していた。
「ええ。あいつのことはちょっと。」と、ためらうには理由があるのだろう。
「私は、妹さんに頼まれたので。」と自分の立場を表明する必要さえあった。
「わかってます。ただ、言えることと言えないことがある。」と相手は立場の微妙さを匂わした。
「わかりますが。」それでは話しが進まない。ここでのキープレーヤーは間違いなく、あの愛人である寧々なのだから。
「あいつを、危険な目にあわせたくない。」と××が寧々のことをかばっているのがわかった。
「それでいつまでもここにいる気ですか?刑が確定したら、数年ではすまないですよ。」とオレは念を押した。まずは相手の気持ちを確認する必要がある。
「ええ。」と少し弱気な顔を見せながら、どこか芯が強いところがこの男にはある。
「あなたを助けることが、私の役目です。それには情報がいる。」とオレは言ってみた。理屈のわからない男ではあるまい。
「ええ。それも分かってます。」と男は唇を噛んだ。オレはカフェでコーヒーを飲みながら、苦虫をかみつぶしたような男の顔を思い出した。
「もちろん、あなたが望まないのであれば、そう妹さんに伝えますが。」とオレは言った。寧々からの依頼のことはまだ伏せておくことにした。この男もそこまでは知らないようだ。
「妹には、感謝してます。」と男は言うと、涙を流した。
「ええ。」とオレはうなずくしかできない。まさかここでお涙ちょうだいとは予想できなかった。刑務所の不味い飯が男を弱らせているのだろうか。オレはその涙にうつる灰色の天井を見る。
「寧々は今、安全なはずです。」と男は言った。
「そうですね。先日私もお会いしました。」とオレは言って天井を見た。まったく腐ったような色をしている。
「だからそれを、ぼくがダメにすることはできない。」と男は言ったが、自分の立場が分かっているのか不明だった。
「なるほど。」とオレが答えたところで、刑務官が時間を告げた。沈黙が多すぎたために、時間を要してしまった。
「上々ってわけにはいかない。」とオレは目をつむって、カフェのクラシック音楽に身を任せる。思ったよりも男は悲痛な様子を見せていた。女たちと違いそれは演技にも見えなかった。となると、相当痛めつけられているか、またはよほど寧々のことを「愛している」のかもしれない。
「どっちにしろ金絡みだと思うが。」とオレはため息をついて、天井を見た。カフェの中は薄暗くもオレンジ色に輝いている。あの刑務所の腐ったような天井とは違う。
「さて、どうするか。」とオレは言って、そこを後にした。
オレが電車を乗り継いで中野のバーに戻ると、寧々から電話が入っていたらしい。さっそくオレは電話を掛け直す。
「もしもし。」とオレが言うと、相手は返事をする。
「はい。」と彼女は言って、咳払いをした。どうも女って奴は、どこまでも演技臭い。
「寧々さんですか?」とオレが尋ねると、女はそうですと答えた。
「××には会えました?」と相手が聞いてきたので、オレは「そうですね。」と言った。そして目の前のバーテンにジントニックを注文した。
「だいぶ弱っていましたが。」とオレは本当のことを言った。彼女は少しの沈黙のあと、なにか言ったがそれは聞き取れなかった。
「そう。」という冷たい声だけが聞こえてきた。
「はい。留置所は人間を弱らせるらしいです。」とオレは言った。情に訴えてみるのもありかもしれない、と思ったのだ。
「できるなら…」と女は言って、言葉を詰まらせた。できることなら?その後に続く言葉を待った。だが、何も返ってこない。
「向こうもあなたの心配をしていましたよ。」とこれまた本当のことをオレは言った。
「そう。」と答えた女の声は、先ほどとは少し違うトーンだった。
「どうかお願いがあります。」とオレは言った。
「はい。」と女は素直に返事をする。
「証人として、出てはもらえないでしょうか。」とオレは冷静に言った。
「証人。」とオウム返しに言った後、女は黙ってしまった。
「そうです。やはり××さんを救う一番の方法はそれだと思います。もちろんそれで裁判に勝てるかはわからない。しかし。」とオレが少し熱く言ったので、女が少し笑うのがわかった。
「ええ、存じ上げてます。」と彼女はクールに言ってみせた。
「では、出てくれますか。」とオレはダメ元で聞いてみる。
「それは、残念ですが。」と女はまたしても冷淡に答えるのみだ。何がそこにあるというのだろう。
「残念です。」とオレは怒らないように気を付けながら言った。
「でも、何か他に協力できることがあれば。」と相手はオレに気遣ったのか、そう言った。
「そうですね。では一度××さんの元を訪れるのは?」とオレは提案してみた。裁判に出ることができなくても、面会で会うことはできるのではないだろうか。
「そうね。あたしもそのことは考えていたの。」と女は言った。遅すぎるようだがようやく着地点が見えてきたところで、オレはバーテンからジントニックを受け取る。
「では、ぜひ。」とオレは相手を促した。女は「わかったわ。検討してみる。」と答えて、電話を切った。
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