● 愛人である女の名前は寧々と言った。


 愛人である女の名前は寧々と言った。一瞬中国人かと思ったが、そうではなかった。もしかしたら偽名かもしれないが。彼女は先ほどからタバコを何本か吸っている。そして××との関係を語り出した。

「あの人は、とても恰好よくて。」と寧々はスラリと長い手で、灰皿に灰を落として言う。

「そうらしいですね。まだお会いしてませんが。」とオレは依頼者の女と、その兄のことを考えた。

「最初は指令だった。だけど、そのうち本気になったの。」と寧々は××との情事を話す。

「それが本当かどうかは、誰にもわかりません。」とオレは彼女のいれてくれた紅茶を口にする。

「ま、あたし以外にはそれはわからない。」と言うと女は笑った。

「それを信じろ、というので?」とオレは言ってみた。カマをかけるのも探偵の仕事の一つだ。

「そうよ。それに信じようと信じまいと真実は変わらない。」と彼女は言うと、目を閉じた。目を閉じても美しい女というのはいるもんだ。

「なら、どうして××をワナにかける任務を遂行したのです。」企業から大金を積まれたから?それじゃ本気の恋はどうなる。

「任務は失敗したわ。」と寧々は言った。

「失敗?」とオレはオウム返しに繰り返した。

「そう、あたしの任務は失敗して、それであたしは解雇された。」と言って目を開けた彼女の瞳には涙が浮かんでいた。それを見てオレはギクリとした。なぜなら探偵稼業で第一に学ぶことが「女の涙には気をつけろ」という当たり前のことなのだ。オレとDはその教訓を鼻で笑ったものだ。誰がそんなのに騙されるかと。しかし、こうして目の前で美女の涙を目にすると、心をわしづかみにされるようだった。

「解雇ですか?」とオレはバカみたいに繰り返すことしかできなかった。

「そうよ。あたしは解雇されたの。あなたが思っているような企業のスパイではなくなった。少なくとも今は。」と女は言ったが、その目にはすでに涙が消えていた。

「なるほど。」とオレは答えて、メモを取り出した。大したことを書くわけではないが、この書く行為自体が相手の信頼をつかむためというわけだ。

「あたしはあの人のために生きようと思った。」と女は過去形で話しをした。

「しかしそれは叶わなかった?」とオレが代わりにその続きを言った。

「どうかな。それを決めるのは、裁判官と。」と言うと彼女は口をつぐんでしまった。それ以上言ってはいけないことがあるかのように。

「どこまで話せるのは知りませんが、もしあなたの依頼を受けてほしいなら。」とオレは彼女をさらに促してみることにした。情報はより多く得るに越したことはない。たとえそれで混乱する羽目になろうとも。


 寧々という名の愛人は、しかしそれ以上は話さなかった。ただ新しい依頼として、こう言った。

「あたしはあの人の裁判に出ることはできません。だけど。」と彼女は再びタバコを吸った。

「その理由は言えない。」とオレは彼女のスラリと伸びた手足を眺めながら言う。

「ええ、残念ながら。でも、あの人は救ってほしい。」と彼女は懇願に近い表情でオレを見た。

「自分が証人として裁判に出れば早いのでは?」とオレは念を押すように聞いた。

「わかってます。できればあたしだって。」と彼女は苦悩の顔になる。どこかから圧力がかかっているってことだろう。再びその大企業というやつなら、お金以外の手段を駆使して、闇の力を使うことはいくらでも可能だ。日本が法律だけで動いていると思ったら大間違いだ。

「なるほど。事情があるようで。」とオレは席を立ちかける。

「待って。あの人だけはどうか。」と彼女は金の入ったスーツケースに再び手をかける。

「確約はできませんが。」とオレは肩をすくめてみせる。

「いえ、約束してください。」と女は無理な注文をしてきた。ま、いつでも女ってやつはそうだ。

「探ってみましょう。」としかオレは答えられない。ただここで安易に約束を交わすトンマにだけはならずにすんだ。もちろん男の技量としてはどうかと思われるが。

「お願いします。」と女は言うと立ち上がった。オレは彼女と握手をする。彼女の手のぬくもりはいつまでもオレの中に残る。

「まいったな。」とオレは電車に乗りながら独り言を言う。第一にあのような一軒家にのうのうと住んでいて、人に依頼する金もあるというのが気に入らない。しかも自分は裁判に出ず、人に物事を頼む。彼女の雰囲気や様子、言葉に騙されてはいけない。オレは自分にそう言い聞かせた。

「どこからが本当で、どこからがウソか。」わかったものじゃない。女のつくウソくらいたくみなものもない。しかも男の場合と異なり、その動機自体は単純である。

「動機か。」案外、男のことを愛しているというのは本当なのかもしれない。オレは直感的にそう思った。それは彼女の顔色や喋り方から感じたことだ。あの涙に騙されたわけじゃない。ただ一粒の真実は宿っている気がした。

「やれやれ。」オレは電車を降りると、中野のバーに戻った。するとそこには待ち構えていたように、依頼主の女がいた。つまり赤い服の女だ。オレは片手をあげると、バーの椅子に腰を掛けた。そしてジントニックを注文して、彼女が喋り出すのを待った。


「どうだった?」と赤い服の女は聞いた。オレは頭をかきながら、どう答えるべきか考えた。

「ま、一応ご依頼通りに。」とオレは言って、ジントニックに口をつけた。夜が忍び寄ろうとしている。

「彼女と話すことができたってわけね。」と女は満足そうな笑みを浮かべた。

「はい、ただし裁判に出席はできないとのこと。」とオレは単刀直入に言う。もちろん相手からの逆指名については伏せておいた。

「そう。」女は静かに答えると、自分のグラスに手をやった。

「ですね。」半分は期待に答えたが、半分は未解決のままってわけだ。

「彼女に会って話しができたのはよかった。で?」と女は聞いた。この女も、あの寧々という女とはまた違う魅力がある。和風で黒髪、こっちのほうがタイプの男も多いことだろう。

「ええ。彼女は企業のスパイでしたが、結論を言えば、お兄さんの側に寝返った。」寝返ったという言葉を使ったことで、相手はドキリとした顔をした。

「そう。つまり、彼女は本当に兄の愛人になったってわけ?」と女は頭の中を整理するように言った。

「そうです。彼女が言うには、あなたのお兄さんのことを愛しているとのこと。」オレは反吐が出そうになりながらも、その「愛している。」という言葉を口に出した。というのも、相手の反応を見たかったからだ。

「なるほどね。」と女は今までで一番クールに言ってみせた。手に持っているグラスが凍ってしまうかと思うトーンだった。だからこそ何かが垣間見えた。

「もちろん、それが本当であるとは思いません。ただ裁判に出ないための口実にすぎない可能性もある。」と言ってオレは頭を振る。

「どうして裁判に出ないの?愛しているというのなら、裁判で兄の無実を立証すればいい。彼女にはその資格も証拠もあるはず。」と女は突然熱を帯びてまくしたてた。

「それがよくわからない。どこかから圧力がかかっているようです。裁判に出席すれば彼女の命が危ないのかも。」とオレは自分の推論を述べた。

「そう。まぁいいわ。簡単に事が運ぶはずはないから。」と言いながら女はため息をつく。そして気を取り戻すと、バッグから封筒を出した。オレはその封筒を受け取り、中に現金が入っているのを確認した。

「どうも。」とオレは答える。そんじょそこらのアルバイトでは手に入らない大金である。

「もちろんこれは半分よ。あとの半分は、兄を助け出してから。」と女は言うと、バーテンに代金を払った。

「わかりました。」とオレは内心、その残りの半分については達成できるかわからないなと考えた。

「じゃあね。」と言って立ち去る間際、女はオレにメモを渡した。

「これは?」オレが尋ねる必要もなく、メモには××の連絡先と書いてあった。

「留置所よ。」と女は言って、片手をあげて去っていった。クールな女は嫌いじゃない。赤い服が立ち去るのを見ながら、オレはそう思った。


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