●記憶が錯綜する。
記憶が錯綜する。オレは頭をかかえて冷たいアイスクリームを、口の中に放り込む。Dはいなくなった。それは事実だ。オレたちは探偵になった、それも本当だった。Dは姿を消したが、命があるのかどうかは分からない。奴らがDを連れ去ったのか、自らDが身を隠しているのか。オレは探偵だが、ホームズやマーロウのようには推理を働かせることはできない。できることと言えば、体を張って聞いて回ることくらいだ。
「誰だよ。」とドアは閉められた。そこは国分寺の、新井ナナが住んでいたマンションだ。しかし出てきたのは男で、しかも奥には他にも男女が数名見てとれた。オレもそれくらいの観察眼はある。
「出口なのに、きたってわけだ。」オレがそう言うと、店員は愛想笑いもせずに去っていった。オレは駅前のカフェ・ノースイクジット(北出口)でコーヒーを飲む。さて、どうしたものか。新井ナナが帰ってくるのを待つか、それとも。
「シェアハウスっていうのか。」あそこで新井ナナはシンガーとして成功しようと頑張っているらしい。Dは彼女のライブに行ってからというもの、姿を消した。ファンみたいになっていたが、奴自体はそれを認めようとしなかったが。
「ファンじゃねーよ。」とDはタバコに火をつける。
「じゃあなんだよ。」とオレが聞くと、奴は首をかしげた。
「パトロン?」という言葉がDの口から出てきたもんだから、オレはプィと笑ってしまう。
「もっとひどいな、金づるじゃないか。」とオレはコーヒーを飲みながら言った。
「金のない鶴か。」とDはタバコを吹かした。
「脈はあるのかよ。」とオレが聞くと、Dは笑った。
「ナナちゃんの年齢知ってるか?」と奴は言う。
「いくつだ、二十代だろ。」とオレは聞く。
「そう、二十二だってよ。オレと娘の間ってわけだ。」そうDの娘はたしか十一歳になったばかりだ。
「なおさらバカらしい。」とオレは言った。
「娘の同級生だったら、オレも引くけどな。」と奴はタバコを灰皿で消した。
「どうせならもっといい女に行けよ。」とオレは言ってみたものの、誰かあてがあったわけでもない。
「国分寺に住んでるんだってさ。」とDは言って、カフェのソファにもたれかかる。
「知ってるよ、だから来てるんだろ。」オレはDに付き合わされて、国分寺まで来ていた。
「ここから近いんだ。」とDは言ってあくびをした。
「どっちでもいーさ。そういえばこの近くに村上春樹が昔バーをやってた所があるんだってな。」とオレは言った。
「それこそどっちでもいーぜ。興味ない。」とDは言うと鼻くそをほじって、灰皿に入れた。オレは再びコーヒーを飲んで、夜がふけるのを眺めていた。
結局彼女に会うこともせずに、オレは中野まで戻ってきた。彼女と出会ったキャバクラにも顔を出してみたが、すでに辞めていた。
「どうしろっていうんだ。」オレは中野の小さな繁華街を歩きながら言う。そして80年代の曲がかかっているバーに入り、ジントニックを頼んだ。
「さてと。」頭を整理する必要がある。なのにマイケル・ジャクソンの曲がかかってくるもんで、頭が働かない。
「まいったな。」とオレは言って、グラスを傾けた。するとオレの隣に赤い服の女が座る。まるでハードボイルド小説にでも登場しそうな女性。
「こんにちは。」と女は言う。その挨拶は夜に似合わない言葉だった。しかし、彼女自身はとてつもなくその場に似合っていた。
「どうも。」とオレは答える。
「あなた、探偵なんでしょ。」と彼女は言う。そうだ、その通りだ。オレは連絡先をこのバーにしていた。オーナーに頼んで、ここを事務所代わりにしていたのだ。それはある映画を見て真似したってわけだが。家賃の代わりに毎日酒を注文するというのは、オレにとってはとてつもなく有り難い仕組みだった。店としても、特にデメリットがあるわけじゃない。もともと客なんて少ないのだ。
「そうです、探偵ですよ。」とオレは言うと、グラスを置いて彼女と握手をした。
「頼みたいことがあるの。」と女は即座に言った。彼女は大きなサングラスをしていて、それが小さな顔には不釣り合いだった。年齢はいくつだろう。三十代か、四十代。もしくはもっと若くて二十代後半かもしれない。肌のつや、首のしわ、手の感触でだいたいはわかるもんだが。
「依頼ですか。内容によりますが、高くはありません。不倫の証拠探しなら他を当たってください。」とオレは決まり文句を言った。不倫の証拠探しというやつは、日本の探偵の仕事におけるほとんどである。ポーの小説や江戸川乱歩の小説に出てくるような難事件は、めったに起こらない。
「そういうのではないの。」と女は言って、バーテンにお茶を注文した。
「お茶ですか。」とオレは思わず言っていた。
「胃を悪くしてるの。」と答えて彼女は薬を水で流し込んだ。胃を悪くしている女というのは、どういう種類の人間だ。仕事のストレス、または人間関係で参っているか、あとは金がらみ。
「で、どういうご依頼でしょう。」とオレは丁寧に言った。
「そうね、それを言わなくてはならないわ。」と彼女はため息をつく。こういうのは過剰な演技かもしれない。女というのは自然に演技ができる生き物だ。一方、男は自意識で自分を偽る生物である。
「どうぞ。」とオレは言って、マイケルの曲が終わるのを確認した。探偵稼業にマイケル・ジャクソンは似合わない。しかし次に流れたのはマドンナのライク・ア・ヴァージンだった。処女のように?どちらにしても80年代の曲は探偵業には合わない。
女の話しはこういうものだった。彼女の兄はある大企業に勤めている。しかしそこを辞めた。いや辞めさせられたのだという。その理由は、ある機密を社外に漏らしたからだという。
「なるほど。しかしこういうのには企業向けの探偵ってのもいますけどね。」とオレは言った。
「いえ、あなたがいいの。」と女は言った。オレは彼女を見る。
「それで。」とオレは続きを促した。女の兄は、企業に対して復讐しようとした。その企業のトップシークレットを手に入れようとしたのだ。
「それが間違いだったの。」と女は言う。
「トップシークレットとは。」とオレは聞いた。その企業のトップシークレットとは、すなはち他の企業と合同で価格操作をしているということだ。
「外国企業もからんだ独占体制の協定。カルテルのようなもの。」と女が言ったが、オレにはチンプンカンプンだった。
「それでお兄さんはどうなったのです。成功したのですか。」とオレは聞いた。すると初めて女はサングラスを外す。そしてじっとオレの目を見た。彼女の瞳は切れ長のアジア女性のものだった。意外に若く、二十代の中頃かもしれない。
「兄は捕まりました。罠にはまって。」と女は言うと、深いため息をついた。
「なるほど、それでお兄さんを助けてほしいと?」とオレが言うと、女はうなずいた。
「企業のことなんてどうでもいいんです。でも兄は悪いことをしたわけではありません。情報を握ったのは本当かもしれない。でもそれは、社会にとっては有益なことなんです。」と女は言う。しかし、問題はどうやって兄を助けるかであって、その情報が価値あるかではない。オレにとっては金になる情報ほど胡散臭いものはないように感じられた。
「なるほどわかりました。でも具体的に、お兄さんを助ける方法なんてあるんですか。」とオレは聞いてみた。二杯目のジントニックも空になりかけている。
「兄が捕まったのは、女がらみなんです。」と女が言った。
「女。」とオレは言うと、今度はこちらがため息をついた。つまり兄は女をあてがわれ、それにはまったというわけだ。その愛人のためにいらぬ危険を冒した。そして罠にはまった。
「具体的には何をすればいいのです?」とオレは尋ねた。
「その女性、愛人に会って、説得してほしいんです。裁判で証明しなくてはならないのです、兄の潔白を。」とおしとやかに女は言った。しかし、それは難しいことに感じられる。なぜなら結局はその愛人も金をもらっているはずだから、口を割るわけがない。だがオレは直感的にこの仕事を受けることに決めていた。なぜか分からないが、そうしなくてはいけない気がしたのだ。
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