狼たちのクレイジーな夜

ふしみ士郎

1章

〇そう、その時にはまだDは姿を消していなかった。



 新井ナナと出会ったのは、中野のキャバクラだった。オレはDと一緒に、中野ブロードウェイから少し外れた繁華街を歩いていた。そう、その時にはまだDは姿を消していなかった。結婚して娘もいるDは、よくオレと飲み歩いていたのだ。

「四十にもなるとよ、遊んでくれる女もいねーからな。」とDはタバコを吸った。

「そうなの?」とまだ二十代のナナは笑った。キャバクラは薄暗く、ソファもそれなりに固いものだった。内心オレはもっとふかふかの柔らかいソファはないのか、と思っていたのを覚えている。

「で、普段は何をやってんだ。」とDがナナに聞いた。オレは自分の横の女の子の膝を触っていたが、やつが話す声だけはしっかりと聞こえてきている。

「あたし?あたしは、一応シンガー目指してる。」と少し恥ずかしそうにナナが答える。Dはタバコを吹かして、なるほどという顔をしていた。ここは東京で、こういう何かを目指している若い奴らには事欠かない。Dとオレはそういう奴らのことを「メザシ」と呼んでいた。

「ほう。ライヴとかやってんのか?」とDは興味なさそうに言った。

「うん。今度も渋谷であるんだ。」とナナは言う。けしてブサイクではないが、美人というタイプでもない。これでもし歌がうまいのなら、シンガーを目指すのもあながち間違いではないのかもしれない。もちろん成功したらの話しだが。

「じゃ、連絡先教えてくれ。行けそうなら行くよ。」とDはすました顔で言う。

「うん。」と答えるナナの目は、それまでよりもきらきらと光っていた。オレもそんな彼女を見て、夢があるのもわるくないもんだなと思った。

「行くのか。」と帰り道でオレが聞くと、Dはタバコに火をつける。

「なにが?」奴はいつものすまし顔だ。

「ライヴだよ。」とオレは口を曲げて言った。

「ああ。サービスみたいなもんだ。」そう答えながら中々タバコに火がつかないDに対して、オレは首を振る。

「なんのサービスだ、客のくせに。」オレがそう言うと、今度はDが首を振る。

「客だろうが、人を楽しませるのが好きなんだ。」そんなくだらないことを奴が言うもんだから、オレはついプイっと笑ってしまう。

「お前がそんなこと言うなんて、世も末だな。」と言ってオレは缶ビールを蹴りあげた。時代は世紀末、不景気の波が社会を覆っていた。オレたちは日雇いの仕事をしながら、なんとか毎日生きていた。


「なぁ、探偵って知ってるか。」とDが突然聞いてきた。

「探偵?あの明智小五郎やアルセーヌ・ルパンのことだろ。」とオレは好物の塩せんべいを頬張りながら答える。

「ルパンは泥棒だ。アニメ見たことないのかよ。」とDはベンチに座って言った。オレたちは小金井公園のカラスがたくさん鳴いている森を歩いていた。つまりとてつもなくヒマってわけ。

「そうか、探偵はホームズだよな。シャーロック・ホームズ。」とオレは塩せんべいを狙うカラスたちを見ながら言う。

「そうだホームズだよ、ホームズになろうぜ。」とDはのたまった。

「は?なろうぜ、ってなんだよ。」正直その時のオレはカラスに気を取られて、探偵どころではなかった。

「ゲームの話しじゃないぜ、オレたちでも探偵になれるんだ。」と言ってDが見せてくれたのが、「探偵求ム」というチラシだった。

「なんだ、それ。」オレはカラスたちに石を投げた。奴らは一瞬羽ばたいて、また戻ってくる。もしかしてここが奴らの巣じゃないだろうか、とオレは気が付いた。

「ハン、仕事さ。」とDはタバコに火をつけた。するとカラスたちも、ちょっとこちらを警戒した。

「仕事?探偵が。」とオレはもう一度そのチラシを見て答えた。そして、再びカラスたちをにらみつける。

「一応訓練っていうのか、研修かなんかがあるみたいだ。」と煙を吐き出しながらDは言った。

「条件は大丈夫なのかよ、年齢とか。」オレたちはだいたい年齢制限に引っかかる歳になってきていた。それで仕事が解雇になるたびに失業保険をもらっては食いつないでいたってわけだ。もちろんその間も遊んでなんかいなかった。日雇いを見つけては、日銭を稼いでいたってこと。

「ああ、大丈夫だ。日雇いよりはマシだろ。」たしかにDがそう言うのも無理はない。少しくらいなら日雇いも悪くはないが、長く続けるには体力が持たない。風邪なんてひいてしまっては一貫の終わりだ。オレたちには何の保証もなく、健康保険さえ失くしてしまっていた。

「そうだな、悪くないな。ホームズも。」とオレはカラスに投げる石を探しながら言った。

「おれなんて妻子がいる身分だからな。働かないと。」とDは自嘲気味に笑った。そう、Dが奥さんから離婚用紙を突き付けられたのは、一年も前のクリスマスだった。


「もっとマシな時期にそういう話しはしてほしかったぜ。」とDは言ったもんだ。

「せっかく日雇いで稼いだ金でクリスマスケーキを買ったっていうのに。」ま、コージーコーナーに並んだのはオレだったがな。Dの野郎は、ワインを買いに行った。オレはビールを飲みながら待っていて、体が冷えたのを覚えている。だが目の前でケーキが売り切れてしまって、オレは狼狽した。

「友達の娘のためなんだ。」とオレは店員の女に説明したが、彼女は首を振るばかり。

「ないものはないんですよ。」と彼女は言った。オレはこぶしを握りしめた。「それなら並ばせる前に通告しろ。」と言いかけたところに、Dが戻ってきた。

「どうしたんだ、ケーキは手に入ったのか。」とワインを持った奴が言ったところに、老年のご婦人がやってきた。

「これ一つ余ってるんです。」とご婦人はさらりと言った。最初はオレたちに話しかけているとは思えなかったが、実はそうだった。Dがいち早くそのことに気づいた。

「おーありがてー。」とDは遠慮の「え」の字もなく、そのケーキを受け取った。

「お金は?」とさすがにオレが聞いたが、ご婦人は首を振るばかり。

「クリスマスだから、いいのよ。」とオレが握りしめた千円札さえ受けとろうとしない。

「マジかよ。」とオレは天を仰いで、神様に感謝したね。無宗教のオレでも、時と場合によっちゃそういうこともするのだ。そもそもクリスマスだって。いやあれはケーキ屋の陰謀?

「どっちでもいーんだ。」とDは平気でケーキを受け取って、ニヤっと笑った。

「ま、お前ん家の娘っこも喜ぶだろ。」とオレは言って、Dを送り出した。しかしその夜、Dの家には誰もいなくて、紙切れだけが台所に置いてあった。さすがに泣いたのかと思いきや、Dはオレの部屋にやってくるとこう言った。

「おこるべきして、おこったってわけだ。」意外に冷静なDを見て、オレはこいつは頭がいかれてるか聖人かのどちらかだなと考えた。

「じゃ、離婚するのか。」とオレがそのクリスマスケーキを食べながら聞く。するとDはプイっと笑った。

「相手次第だな。」とタバコを吹かして、Dはワインを飲んだ。


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