第3話 青隠しの筆

 三日目。

 本日、雫は裁縫をする事にした。家事と庭いじりはする事になったし、庭いじりは趣味に出来るが、お嫁さんたるもの縫い物にも秀でているべきだと雫は考えている。特に近年では、異国から刺繍という文化が入ってきた。それも貴婦人の嗜みだというから、雫は挑戦することに決めている。他にも、レースを編むのも流行している。


 台所の椅子に座り、時折チラリと青眞がいる部屋を見ながら、雫はこの日、ぞうきんを縫い上げた。明日から、家中の床をピカピカに磨くつもりである。二階に私室があるのだが、廊下が非常にほこりっぽい。窓を開けて換気をするようにしたが、一度本格的に掃除をしないとダメだと確信している。


 そして夕食の席で、ふと思い立ち聞いてみた。


「ねぇ、青眞」

「ん?」

「いっつもお家にいるけれど、外に働きに出ることは無いお仕事なの?」

「――そうだな。俺に用がある人が、自分から来ることが多いよ」

「そうなんだ。ところで、お給金はおいくら?」

「なんで?」

「月々の食材代の参考にしたいの」

「ああ、なるほどね」


 この国では、女性が家事をする代わりに、生活費は男性が出すと決まっている。


「ちょっと待ってて」


 立ち上がった青眞は、階段を上っていった。軋んだ音で、雫には分かった。

 それから少しすると、今度は降りてくる音がした。


「はい、これ」


 青眞はそう述べると、最近異国から入ってきた文化である、銀行の通帳を、雫に渡した。雫は本物の通帳を初めて見た。確か1000万園からでなければ、預けられなかったはずだ。一般的なおにぎりが120園の世の中に置いて、1000万園が最低金額というのは、非常に高い。驚いて受け取った雫は、それを開いてさらにぎょっとした。ぶわっと汗が噴き出てくる。


「え、えっ!? 5億園!? これはなに!?」

「生活費だよ。そこからおろしながら使って。さすがに足りるでしょ、食費。君がよほどの浪費家で無い限り、食費はおろか、衣類も、家屋の修繕も、庭の整備も何もかも。必要なら、使用人を雇ったって構わない。まぁ俺は、あまり多くの人間が家にいるのは好ましくないから、雇いたくないけどね」

「私が家事は頑張るけれど……青眞、貴方、文筆業ってお金持ちなのね……?」

「俺の場合は、ね。特別だと思ってくれていい」


 唖然とした雫は、頷くことしか出来なかった。


「それと、俺は生活の仕方を変えるつもりはないから、朝は今後も十時より早く起きることはない。雫は随分と早起きして待っているようだけど、明日から朝食はいらないから。昼食の時間を早めにしてくれたら、それでいい」

「だ、だったら、夜食を作る?」

「大丈夫だよ、腹が減ったら煎餅とかを適当にかじるから」


 そう言うと、青眞がふわふわの頭をかいた。


「これで満足?」

「満足というか……青眞のことがさっぱり分からなくなったわ。こんな大金をポンって渡すなんて……詐欺とかに遭わない? 大丈夫?」

「あのね、君に心配されるほど、俺は暗愚じゃない。俺としては雫の方こそ、うっかり騙されそうで怖いね」

「え? そ、そう?」

「うん、そう」


 この日の夜は、そんなやりとりをしながら過ごした。


 ――そして、四日目。いよいよ本日は、気合いを入れて大掃除をすることにした。長い二階の廊下を、しぼったぞうきんを手に、雫はかけていく。何度も何度も往復し、床の隅々まで、真剣な面持ちでぞうきん掛けをした。天井に張り付いている一反木綿が時折、『頑張ってねぇ』と声をかけてくれたので、笑顔で頷いて返したりした。


 それを暫く繰り返していると、青眞の寝室の扉ががらりと音を立てて開いた。


「何してるの? うるさいんだけど」


 そして非常に不機嫌そうな、強い語調の言葉が降ってきた。驚いて雫は急停止する。

 いつものシャツと着物ではなく、完全に昔ながらの和の寝間着だ。浴衣に近い作りで、帯でとめてある。


「朝は俺、寝てるって言ったよね?」


 完全に激怒している。そんな青眞を見たのは、初めてのことだった。いつもヘラヘラ優しく笑っているため、あまりにもの落差に、雫は竦み上がる。


「お、お掃除を……と……」

「一反木綿とペラペラペラペラ大声で雑談しながら?」

「……ご、ごめんなさい」


 それは事実だったので、雫は引きつった笑みを浮かべた。


「掃除をするならするで集中して静かに黙って口を閉じてやってもらえるかな?」


 青眞もまた笑顔になった。今度は笑いながら激怒に変化した。

 雫はギュッと目を閉じ、何度も頷く。


「ごめんね青眞……!」

「もういいよ」


 青眞はそう言うと、ぴしゃりと扉を閉めたのだった。姿が消えたので、はぁっと息をはき、やらかしてしまったなと雫は一人、苦笑した。その後は静かに掃除をし、窓や階段も拭き掃除をした。そして、少し早めの昼食の準備をする。どんな顔で会えばいいだろうかとぐるぐる雫が考えていると、階段を降りてくる音がした。そして青眞が顔を出す。


「あ、美味しそう。俺、雫の厚焼き卵が比較的好きなんだ。甘いのがいいよね」


 へらりと笑ってそういった青眞は、ごくごくいつも通りだったので、雫は肩から力が抜ける思いをした。ただ、掃除は集中してやるべきだと、一人決意を新たにしたのだったりする。



 さて、五日目の午後の事だった。

 雫が台所にいると、玄関の戸が開く音が聞こえた。誰だろうかと立ち上がる。


「おーい、俺だー!」


 その声に、雫は叔父の創助だと気がついて、笑みを浮かべた。和室から、ひょいと青眞も顔を出したので、そちらをチラリと見る。


「私、お茶の用意してる!」

「うん。応接室に持ってきて。俺は湯河准将を案内しておく」

「ええ」


 雫はその後、緑茶を入れた急須と、湯飲みを三つお盆に載せて、応接室へと向かった。ここも異国風の作りであり、長椅子とテーブルがある。窓にはレースのカーテンが掛かっていて、棚の上には異国風の花瓶がある。


「おう、雫。ちゃんとやってるかぁ?」


 叔父の明るい声に、雫は笑顔で頷く。すると創助は、青眞を見た。


「本当に雫はちゃんとやってるか?」

「どうでしょうねぇ」

「ちょっ、あ、青眞!?」

「俺にはなんとも。後で怒られますから」


 青眞の声に、創助が喉で笑った。


「なんだ、かかあ天下かぁ? らしくねぇなぁ、あの、氷酷の鬼と呼ばれた高藤大尉が」

「え? 青眞って軍人さんだったの!?」


 初めて知る事実に、雫は思わず言葉を挟んだ。

 すると小さく舌打ちしてから、青眞が首を振る。


「昔の話だよ」

「いや? そんな前でもないだろ。だって三ヶ月前だぞ?」

「……湯河准将、ちょっと黙ってもらっていいですか?」

「どうして? 雫に聞かれちゃまずいのか?」

「そういうわけでは……」

「まぁ確かに、怒らせると空気が凍り付いて誰もが硬直し、酸素まで凍るから呼吸が苦しくなるほど怖いだの、討伐する時は冷酷無慈悲で倒す鬼より、さらに修羅であり、あの虐殺っぷりは鬼畜の権化に違いないと謳われた結果の、氷酷の鬼なんて、知られたくはないかぁ」

「あの……全部湯河准将の口から暴露されてるんですが? ええと? 嫌がらせですかね?」

「可愛い姪には、事実を聞かせておかないとな!」


 創助が快活に笑う。青眞がテーブルの表面を指で、トントントンと苛立つように叩き始める。事態が上手く飲み込めず、大きく雫は首を傾げた。


「青眞はどちらかというと、ひょろひょろへらへらしていて優しいけど?」

「へえ。嫁さんの前では、氷酷の鬼も変わるのかぁ」

「それより湯河准将。なにか御用ですか? 雑談に来たのなら、全く歓迎してないので、さっさと出て行って下さい」

「ちょっ、義理の叔父にあんまりじゃないか!? まぁ、用件はある。あやかし対策部隊の隊長として、高藤即応予備書記官に、依頼があってきた」


 即応予備書記官とは、どんな職なのか、そもそも職名なのかすら、雫には分からなかった。


「ぜひその、青隠しの筆の力をお借りしたい」


 創助の瞳が真剣な物へと変化している。叔父は普段は非常に面白く明るい人なのだが、真剣な場面では、射貫くような眼差しに変わり、とても迫力と威圧感がある。雫もそれは知っていた。


 ただ、『青隠しの筆』というのがなんなのかはさっぱり分からない。


「――分かりました。場所は?」

双傳寺ぞうでんじの封印石だ」

「雫、お茶はもういいから、ちょっと出て行って。ここからは、仕事の話だから」


 ひょいひょいと青眞が右手首を動かす。

 そう言われたら、下がるしかないので、こちらを向いた叔父に微笑しながら頭を下げて、雫は廊下に出た――が、気になったので、扉の前で聞き耳を立てた。


『またくだんの、異国から来たあやかしの仕業だ』

『またですか? あの狼男ライカンスロープ……』

『普段は人間のフリをしているようで、いっこうに見つからん。いいや、既に見つけているのかもしれないが、判別できない。特に、国へ来た異国からの要人の中に紛れ込まれていたらお手上げだ。手出しすらできん。人間のフリをして、外交官をやっていないとも限らないんだからな』

『特徴は?』

『茶髪で、黒い目。ただし瞳の周囲に、力を放つ時は日蝕のような金の輪が出ると聞いている。年の頃は二十代後半、お前より年上だ。尤も、実年齢は何百歳か知らん』

『何故封印石を壊してまわるんでしょうね?』

『俺が知りてぇよ。なぁ、高藤大尉、お前の青隠しの筆で呪文を書いて封印をかけ直してもらうだけでは、いたちごっこだ。埒があかない。いくらお前が書く文字には特殊な能力があるとは言え、後手後手では、きりがない』

『その呼び方は止めて下さい』

『戻ってこい、あやかし対策部隊に。頼むから。お前の力が必要なんだ』

『お断りします。俺は即応予備で家にいます。必要があれば、そりゃお力添えできることならお力添えします』

『……捜索と確保あるいは討伐は、お力添えできることに入らないと?』

『入るわけがないだろう。本職の、現職の、貴方達の仕事だ!』


 雫は暫く聞いていたが、話が難しすぎてよく理解出来なかったので、素直に台所へと引っ込むことに決めた。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る