第2話 二日目の煮魚
初日の午後に、案内された私室で、雫は目を覚ました。
二日目の本日も、お嫁さんとして気合いを入れようと決意を固める。階段を降りていき、濡れた布で顔を拭いてから、櫛で髪を梳かして、唇に紅をさした。それから鏡を見ながら髪を後ろでまとめれば、今日もいつも通りの格好になる。
……代わり映えはしない。
「朝ご飯、朝ご飯っ、と」
昨日の午後買い物に出かけたので、食材は豊富だ。一応献立を考えて購入したので、本日の朝ご飯は決めてある。手際よく白米を炊くところから開始して、時折壁際から覗き混んでくる女性の幽霊に愛想笑いをしながら、雫は朝食を作った。
「起こしに行った方がいいかなぁ」
朝食を作り終えた後、いつでも温かい状態で出せるようになり、もう二時間が経過している。もう午前十時を過ぎている。
「……」
このままでは、お昼になってしまう。
困った雫は小鬼に聞いてみることにした。
「青眞って、いつも何時に起きてるかご存じ?」
「……奴なら、毎晩朝方まで仕事をしてるから、大抵朝は遅ぇぞ」
桃色の小鬼は少し戸惑った顔をしたが、きちんと答えてくれた。そちらに笑顔で礼を言い、腕を組んで雫は唸る。家事は女性の仕事であるが、別段この国は、男尊女卑と言うわけではない。祝言を挙げるというのは、基本的には対等になると言うことなので、たたき起こして、今後規則正しい生活をさせる権利は、雫にもある。なにせ、家族だ。
だが、自分だったら、寝ていたい。その気持ちはよく分かる。
そう考えて唸っていると、欠伸をしながら青眞が起きてきた。シャツの上に和服を着ている。
「あ、雫。おはよう。いい匂いだね」
「朝食ですよ! おそようございます! 明日から起こしてもいい? 今、起こしに行こうか凄く悩んでたんだから」
「それは困るなぁ。俺の唯一と言っていい趣味がさ、睡眠なんだよね」
「だったら早めに仕事を切り上げて寝ればいいじゃない」
「ん? なんで仕事だって思うの?」
「そこの小鬼さんが教えてくれたわ」
「ああ……すぐに馴染めるところが、本当、よく視える――あやかし慣れしてる人って感じ。すごいなぁ」
青眞はそう言ってへらりと笑うと席についた。雫はその前に、少し手を加えてから、温かな料理を並べていく。それが終わると、青眞が手を合わせて、いただきますと述べる。今回は、雫も一緒に食べると決めていたので、正面の席についた。ずっと待っていたから雫は非常に空腹だ。
「ところで青眞?」
「なに?」
それまで皿を見ていた青眞が、箸をひじきの煮物に伸ばしながら顔を上げた。
「このお部屋、片付けないの? 隣の和室も」
昨日物があまりにも散乱していて驚愕した隣室から、書籍類はこちらの台所まではみだし、浸食している。
「うん。片付けないよ」
青眞は笑顔で言いきった。雫は目を据わらせる。
「片付けてもいいかしら?」
「あー、整頓してもらうのは構わないけど、整理されると困るかな。勝手に捨てたら、それこそ離縁だ」
「離縁、離縁って簡単に言わないで! 捨てなければいいのね?」
「うん」
「あんまりにも混沌としていて、私はここで過ごせる気がしないから、片付けさせて頂きます!」
それもまた嫁の仕事だと、雫は意気込んだ。
それからふと思い立って、青眞に続けて尋ねる。
「ところで、なんのお仕事をしているの?」
実は祝言の日時も直前に聞いたし、青眞の事は何一つ知らない状態での祝言だったのである。許婚がいることは知っていたから、急ではあったが雫は受け入れた形だ。
「ちょっとした文筆業だよ」
「文筆業? 新聞でも書いているの?」
「違う方向性」
「あ、昨日筆を持っていたし、書道?」
「それなら書道家と名乗るかなぁ」
青眞はへらへら笑いながら、そう答えてつつご飯を完食した。
「おかわりもらえる?」
「勿論いいですよ」
立ち上がり、雫はご飯をよそった。それを青眞の前に置く。それから己の席へと戻り、自分もまたひじきの煮物を食した。結局青眞は、それ以上の詳細を語らなかったので、きっと聞いても分からないことなのだろうと判断し、雫は食後、食器を洗った。
それが一段落したので、いよいよ片付けをすると決める。
今にも雪崩を起こしそうになっている、傾いた本の山を見上げ、これは椅子を持ってきて登った方がいいと判断した。テーブルから青眞の椅子を運び、本の山の横に置く。しかし届きそうにないので、さらにその上に、自分の椅子も運んできて重ねた。
そして椅子の上に立って手を伸ばしたが、背の低い彼女の手は、もう少しのところで届かない。
「うううっ」
そこで雫は、つま先立ちをした。そして一番上の本を取ろうとした瞬間、足を踏み外した。本の山も降ってくる。このままでは床にぶつかる。と、覚悟してギュッと目を閉じた、その時だった。
「え?」
気づくと青眞の上にいた。椅子の背が床につく形で二つ倒れており、先程まで椅子があった位置に青眞がいて、彼が己を抱き留めてくれたのだと雫は理解した。本は幸い、雫達の位置から見て、左手に倒れている。
「あのさ」
「あ」
「一体何してるんだよ、君は? 俺、びっくりしちゃったよ。怪我は?」
「ないわ! ありがとう助けてくれて!」
「……まぁ、うん」
青眞は深々と息を吐いている。その思ったよりも力強いでと、背中に感じる厚い胸板に、雫は、青眞に対して初めて男らしさを感じた。だから自分を抱きしめている彼の腕に、両手の指先でそっと触れてみた。
「……っ!」
すると少しして、青眞がハッとしたように息を詰め、腕を開いた。
「ほ、本当に怪我はないんだね?」
「ええ」
大きく頷き、雫は立ち上がる。そして、床に散乱した本を見た。
「雪崩が起きてしまったけれど、これなら私も整頓しやすくなった」
「雫がとてつもなく前向きである事を、たった今俺は理解したよ」
青眞は柔らかそうな髪をかきながら立ち上がり、隣の和室へと向かう。
こちらが片付いたらあちらも片付けなければと考えつつ、この日は昼食を少し遅い時間にすると決めて、雫は精一杯本の整頓をしたのだった。
午後になり、雫は昼食の皿洗いを終えてから、青眞に問いかけた。
「ねぇ、青眞。庭は弄らないの?」
「んー、興味ないかな」
「そう。私が弄ってもいいよね? それなら」
「お好きにどうぞ」
こちらを見もせず、青眞は今度は万年筆で、紐でとじた紙の束に、何やら必死に書いている。仕事中だろうと判断し、邪魔をしないようにしようと考えて、そのまま雫は庭へと出た。初日に目視した通り、やはり荒れ放題だった。
「まずは草むしりをしないと。あとはどんな花を……あ、ラベンダー……? いや、でも、このお庭にはあまり合わないかなぁ。紫陽花とか、朝顔とか、そういう色の花がいいかも」
現在、季節は春である。夏に向けて、そういった花を植えるのもいいだろう。また、秋に向けて、コスモスの種を蒔いておくのもいいかもしれない。
あれやこれやと脳裏で考えながら、ひたすら雫は草をむしった。
するとあっという間に日が暮れたので、慌てて土で汚れた手を洗い、雫は夕食の準備に取りかかった。この日は煮魚を作った。
「あ、美味しい」
向かい合っての食事の席で、青眞が煮魚を食べてそういった。
雫は自慢げに頷く。
「得意料理の一つなの。未来の旦那様に食べさせようと思って、お母様に必死で習ったんだから。家の味が大好きだったから、私も作れるようになって、絶対に食べさせるって決めてたの。つまり――まだ見ぬ青眞のために、私、とっても頑張ったのよ!」
満面の笑みで雫が断言すると、そんな雫をぼんやりとしたような顔で見ていた青眞が、するりと視線を外し、顔も背けた。
「ふぅん。ちゃんと花嫁修業してたのか。名前ばかりの家事手伝いじゃなく」
「あたりまえでしょ? 女学院を出てからは、ずっと修行をしていたの。特に炊事は気合いを入れたんだから。ありがたく食べて下さい!」
「そうだね、いただきます」
青眞が雫に向き直り、小さく口元を綻ばせる。
こうして和やかに、夕食のひと時は進んでいった。
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