第2挿

薄暗い階段を登り、懐中電灯片手に電気の通っていない配電盤をチェックする。自分の足音と唸り声・囁やき声が不協和音を奏でるのがわかり切っていたのでノイキャンイヤホンをしてウォークマンで『「不屈の民」変奏曲』を聴き、日々の業務をこなしていった。

一ヶ月前に彼は職を失った。クビになったのではない、雇用主が死に契約が履行不可能になったのだ。弟を除いて天涯孤独のオーナーは、10年前に5階立て5エーカーの広さのオフィスビルを買い取り、アパートととして改築再利用した。このビルは元々全く知られていない卸売を営む中程度の企業が所有していたもので、朝出勤すれば頭の中身をぶち撒けた死体が駐車場に転がっていたり、トイレのどの個室のドアを開けても首吊り死体がぶら下がっていたりと自殺者が相次ぎ、逃げ出すものも多く人手不足に陥ったためあえなく倒産してしまった。

地理的にも都市機能から離れた場所に位置する瑕疵物件に居を構える人間はそれぞれの事情で身元のハッキリしない者たちだったが、オーナーは深くは聞かず部屋を貸していった。彼は、ここで3年間警備員として雇用されていた。決まったルートを歩いて回り防火戸・配電盤を点検し、施錠されているかどうかを確認していく。後は、警備室として与えられた一室で時折警報装置や監視カメラを見ながら、時間を潰して過ごしていた。人とはよくすれ違ったが生きている人間なのか住居者なのかただ自分に見えている幻覚なのかわからなかったので、彼はできる限り干渉しようとはしなかった。彼は保全活動を職業としていたが、自分の精神的な保全は維持することができていなかった。前の職場ではシステムエンジニアをしていたが、キーボードで上司に殴りかかり、返り討ちにあって15箇所を縫う大怪我を負い、精神病院に措置入院する羽目になってしまった。その時の同室者はアンフェタミンの禁断症状を隠すために症状が出ている振りをしているうちにそれがやめられなくなった三十路の男だった。頻繁に夜驚して眠りを妨げるためかなり疎ましい存在であった。キーボードで殴りかかったのはなぜなのか?当分この深緑に塗られた病室で暇になるだろうと思った彼は自省してみた。ただエンターキーと削除キーがその上司の目にしか感じられなくなっただけで恨みはなかった。目にエンターキー、削除キーを衝突させ元通りにしたかっただけだったと、他のキーはそれぞれ別の同僚の目が割り当てられていたように感じられたわけなのだから、同じことを結局はするつもりで上司に特別関心があったわけでないと男は硬いベッドの上で思い返していた。同室の男は━毎日彼に告げる名前が変わるため、名前で呼ぶことは諦めていた━潔癖症故に不潔だった。汚いものに触れないことを聞いてもいないのに頻りに訴えてきた。ゴキブリ、コオロギ等々虫を見つける度に鳩時計のような金切り声を挙げて看護婦を呼び指を差すのだった。看護婦はうんざりした顔で男をベルトのような拘束具でベッドに縛り付け鎮静剤を投与した。一連の動作は何百と繰り返されているかのように滑らかで手際良く、シリンジ内の透明な溶液が注入されていくにつれて、男の瞳孔が広がり、やがて死人のように押し黙った。

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習作 @Yoyodyne

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