37 シークレット・ノート②

「ハル、なんでさっきから俺のズボンの袖掴んでるんだ?」


 すっかり静まり返った教室で掃除用具の片付けをしていた悠馬は、不思議そうな顔をしてボクを見つめた。

 カラスがベランダの手すりに止まって、濁った鳴き声をあげている。


「はっ……いやこれはそのっ……なんとなく掴みたくなっちゃって……」


 自分が無意識にそうしていることに気付かなかったのだから、ボクはとっさにそんなウソをついた。

 ボクは悠馬と一緒に帰るために彼の掃除当番が終わるまでひとりで待っていたのだが、それが終わってふたりきりになれた瞬間、教室の感傷的なムードに惑わされ、悠馬の姿を夢で見る“彼女”に照らし合わせてしまったのだ。


「最近のハルはなんだかおかしいなぁ。なんかあったのか?」

「なんでもない、なんでもないの!」


 口ではそう言ってみせるけれど、ボクはあの夢のせいで、すっかりおかしくなってしまった。時々現実と夢の区別がつかなくなって、悠馬と一緒にいるとドキドキしてしまうし、夢の中でそうしたみたいに親密に接したくなってしまう。

 ボクが無意識に掴んでいた場所は、夢の中で女の子の悠馬に対して触っていた場所だったんだ。






 あの夢を見る頻度は日に日に増えていった。気付けばボクは、一週間のうち四回も夢の続きを欲する朝を迎えるようになっていた。


 ちなみに、ボクは寝ているときに夢を夢だと理解できるし、夢の中である程度は自由に行動することができる。明晰夢ってやつだ。だから夢の中であんなことやこんなことを望めば、部分的に思い描いた通りになってしまうということだ。


 うれしい夢を見るってことは、自分の欲望を知ってしまうってことだからずいぶん残酷なものだ。


 ***

 さらさらの髪を垂れ流す君は、目を半開きにしてボクの手首を掴み、寄せてきた。柔らかな肌がボクの襟元から露出した鎖骨に触れる。まるで心臓が直接くすぐられているようなむずむずが体中を襲っていく。


 ボクたちは小学六年生。すこし大人っぽいくすみピンクのニットに包まれた君のシルエットには、どこかあどけなさが残っている。ぱっちりとした両目には長い睫毛が伸びていて、ふっくらとした朱色の口元は彼女の魅力的な笑顔を完成させている。

 そんな君はボクの耳元で、ついにあんなことを囁いてしまったのだ。


「ねぇハル、キスしちゃおうよ」


 それを言われた瞬間、卒倒するほどの嬉しさが湧き上がって来た。でもそれと同じくらい怖かった。この夢はおそろしくリアルで、まるで自分の血液が本当にこの場所で流れているかのような没入感があるのだ。


 夢っていうのは人間の無意識な欲望が表れてしまうものだと聞いたことがある。

 この世界を作っているボクは悠馬を女性化させてこんなことを言わせたがっているのか、と知ってしまった瞬間、もう後戻りできなくなる気がした。ここが偽物の世界だとわかっていても、接吻の感触を味わってしまった瞬間にボクはきっと落ちてしまう。

 だからボクは、決死の覚悟で踏みとどまった。


「だっだめだよ……そんなことしたら……現実に戻れなくなるもん……」


 闇夜に消えてしまいそうな声だった。

 それを発音しきった瞬間、悠馬を名乗った少女の表情は崩れていく。そしてぎょろっとした目つきで「現実じゃなきゃ、だめなの?」と言った。


「ねぇどうして?どうして?わたしのこと、みてくれないの?夢の中の存在だから?」

 少女は顔をしぼめた顔を両手で抑え、子供のようにわんわんと泣き始めた。


「わたしっ、ハルのことこんなに好きなのに、たかが夢だなんて思われてるんだ……ハル……ハル……ハル……」

 少女の体が震えるのに呼応して地響きがするように教室が揺れていき、世界は崩れていった。


 ***


「…る……はる……ハル……!」

 視界が真っ白になったかと思うと、マスクを着けたお姉ちゃんが、ボクの体を揺すっていた。

 ベッドの中は汗でびっしょりになっていて、掛け布団をめくりあげた瞬間に蒸した熱気が発散していく。


「ハル……大丈夫?顔真っ赤にしてうなされてたんだよ?」

「えぇ……?」

 そうやって声を出した瞬間、喉の奥に金属の棒で圧されているような痛みを感じて、思わず首元を抑え込んでしまう。溢れ出た唾液を飲み込むとその痛みはさらに重くのしかかった。

 雪山のように寒い部屋で、ボクはびくびくと震えていた。




 体温を測ると三十九度もあった。お姉ちゃんはボクが風邪をひいてしまったことを察すると、大学を休んでボクを病院に連れて行ってくれた。医師の診断によると、ボクはどうやらインフルエンザにかかってしまったらしい。


「……ハル、安静にしててね」

「うん。お姉ちゃんもわざわざ学校休んで看病してくれてありがとっ」

「当たりまえだぞっ、大事な弟なんだから」


 お姉ちゃんはそう笑いかけて部屋を出て行った。お母さんがいないぶん、ボクの病が快方に向かうまで面倒を見てくれる。お昼には野菜のたくさんはいったうどんをゆでてくれた。舌でほどけるほどにやわらかく煮込まれた人参には、出汁の味が染み渡っていた。

 喉は痛むし咳は止まらなかったけれど、不自由なことはひとつもなかった。


 いや……ほんとうは不自由だったことがひとつだけある。それは数日間現実世界の悠馬に会えなくなったことだった。布団にもぐりこんで『はやく会いたいなぁ……』なんて呟いてしまうくらいには悠馬を求めてしまっていた。



 ところで、高熱にうなされていると一般的に変な夢を見ることが多いらしい。肉体の感じる原初に近い苦しみに共鳴して、歪んだ像を脳内に映し出してしまうのだろう。


 それに、目覚まし時計という邪魔な存在もいないから好きなだけ夢の続きを追求することができる。裏を返せば、強制終了エスケープなしに苦しみ続けなければいけないわけだけれど。


 ボクの場合、身体的な苦しみよりも悠馬に会えない苦しみのほうが強かった。だから、いつもよりも求めてしまったんだ。望んでしまったんだ。


 そしてお察しの通り。苦しみに悶えるボクの脳に映し出されたのは、彼ではなく彼女だった。



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