38 シークレット・ノート③
日はすっかり暮れて、空は赤くなっていた。日没までのカウントダウンが迫る教室の真ん中には、やはり君がいる。彼女のこめかみには、昔ボクが悠馬に作ってあげたぎこちないお花の髪飾りが結ばれている。
儚げに微笑んでこっちをみる君の姿は、とても美しかった。
「また夢に見てくれたってことは、やっぱりすきなんだね。わたしのこと」
ボクの耳元でそんな音が響く。少女は机の上に座って、足を組みながらボクに身体を寄せてくる。
「ねぇハル、この前の続きをしようよ」
少女は自らの唇を指さして妖艶に微笑んだ。
ボクとのキスを煽っているのかもしれないが、こっちにそのつもりはない。いくら彼女が魅力的だとしても、所詮は妄想の存在にすぎないんだ。だからそんなやつに大事なファーストキスを奪われるわけにはいかない。ここが夢の中だとしても、だ。
だからボクは冷淡な声を作って、こう言ってやった。
「……その髪飾り、悠馬にあげたやつだよ。キミのじゃないよ」
この夢を作ったのがボクの意思だとするならば、彼女にあの髪飾りをつけさせた自分が憎い。あれはボクが悠馬のために作ったものだ。お花で作ったから今はしおれてしまって、残っているはずもない。
こんなの悠馬との思い出に対する冒涜じゃないか。そう思って胃がキリキリした。
「何言ってるの?わたしは“悠馬”だよ? ハル、本能的にもそうだってわかっているんでしょう?」
「違うよ。キミはボクの夢の中に出てくる実在しない女の子だよ。キミが悠馬だなんて、ただの設定じゃないか。そもそも悠馬は男の子だ」
ボクがそう言うと、少女は悲しそうな顔をした。
「……じゃあ、逆に考えよっか。もし私がほんとうの“悠馬”だとしたらどう思う?現実の“悠馬”もハルと一緒に夢を見て、こうやって会いにきてるの。だからハルがわたしを拒否するたびに現実の“悠馬”は傷ついて、死にたくなっちゃうの。それでもいいの?」
夢の中の少女は揺さぶりをかけてくる。彼女が言うには、ボクと本物の悠馬は夢の中でつながってるらしい。だから今目の前にいるのは、本物の悠馬だということだ。
そんなの妄言だとわかっているのに、一瞬ドキッとしてしまった。『死にたくなる』なんて言葉、演技でもない。悠馬がそう思っている風景を一瞬だけ想像して面食らってしまった。
──いけない。ボクはこの夢を克服するんだ。
ボクは必死に邪念を振り切って、冷淡を作りなおす。
「な、何言ってるの?キミが悠馬なわけないよ。そもそも、悠馬はそんな脅しみたいなこと言わないもん。悠馬はとっても優しいんだよ」
「ひどいよ。そんなのハルの勝手な決めつけじゃん。わたしは悠馬。ずっと苦しんでたの。ただ優しいだけの人間にみえたかもしれないけど、ほんとうはもう平凡な日常にうんざりしてたんだ。だからもう、ハルがわたしの手を掴んでくれないなら、死にたくなっちゃうの」
少女は目をうるうるとさせてボクの手を握ってくる。
どうしてだろう。こんな偽りの夢、憎いはずなのに。さっさと消えてほしいはずなのに。さっきから彼女の一言一言がとっても愛おしくて、いたたまれないんだ。そんな彼女がボクの目の前でSOSを出している。もし、ボクが彼女に対してこの手を差し伸べなかったら……
いやいや。違う。ここは夢の中なんだ。だからボクが彼女にどんなひどいことをしてその結果どうなろうと、ボクは最低にはならないんだ。
思い切り首を振って、喉を張り上げた。
「うるさい!君は悠馬じゃないんだ!こんな夢も君の事も、大っ嫌いだよ!」
その嘘が残響した瞬間、少女の顔は一瞬引きつって、そしてその直後あきらめたみたいに顔を伏せた。そして踵を返して、がらんと教室の窓を開いた。
おひさまはもう、すっかり沈んでいた。
半分闇に吸い込まれて覗く彼女の横顔には、一筋の涙が伝っているように見えた。そして濁りのまじった声で「そっか」と呟いた。
彼女が振り向くことは、もうなかった。
「さよなら。楽しかったよ」
一言だけ残すと少女の体はバネのように突然動き出し、勢いよく飛び上がった。ここは学校の三階だ。
ボクは慌てて「待って」と叫ぶ。でも少女の体が完全に屋外に放り出されると、その体は糸がぷつんと切れたみたいに落下していった。
***
必死に伸ばしていたボクの右手は、布団をめくり抜け、天井に向かって伸びていた。
(……また、あの夢の続きだ)
衝撃的な夢の内容を噛みしめて、ベッドの上で震えてしまっていた。
汗の滴り落ちる手首を眺めて、冷静に考える。
ボクには彼女の言っていたことがどうもただの妄言だと思えないし、彼女がただの空想上の存在だとも思えないのだ。それほどに強烈な印象が残っていた。
『もし私がほんとうの“悠馬”だとしたらどう思う?現実の“悠馬”もハルと一緒に夢を見て、こうやって会いにきてるの。だからハルがわたしを拒否するたびに現実の“悠馬”は傷ついて、死にたくなっちゃうの。』
彼女のセリフが、ボクの脳にフラッシュバックする。
もしあの時ボクが手を差し伸べていれば、夢の結末は何か変わったのだろうか?
それにあの少女は本当に、現実の悠馬と無関係だと言えるのだろうか?
(ゆーま、もしかしたら本当に……)
難しいこととかは何も考えられずに、ボクの体は勝手に走り出していた。病が治りかけで、頭がおかしくなっていたのかもしれない。とにかく、家を抜け出して目的地もわからず一心不乱に街を駆けていた。数日間悠馬に会えなかったせいでそんな判断をしてしまったのかわからないが、とにかく走っていた。
時間はちょうど日没の寸前くらいで、駅前には一日を終えようとしている人たちの楽しそうな話し声が響いている。
帰宅ラッシュの人ごみに圧迫されていると、ボクの網膜に一瞬、存在しないはずの人間が映った。ボクの脳はまるで監視カメラのシステムのようにその人物を視界に入れた瞬間、反応したのだ。
(な、なんで……?)
人ごみの向こう側で笑っているその人物は、夢の中に出てきた少女と全く同じ姿をしていた。
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