28 美咲の過去

「あの……叶歩の様子が、ちょっとおかしいんですけど」


 夕飯後、叶歩に気付かれないタイミングを見計らって、陽菜乃は叶歩の姉である美咲を、屋外へと呼び出した。オレンジ色の街灯に照らされながら、海辺のベンチに座った。


「たしかに、なんかいつもよりよそよそしいよね?喧嘩でもした?」


 美咲は海風に吹かれた前髪を整えると、怪訝そうな顔で話す。


「……いやその。叶歩に、好きじゃない、って言われたんです。でも理由がわかんなくて」


 陽菜乃がそう言うと、美咲はきょとんとした。


「叶歩が?陽菜乃ちゃんのことを?好きじゃない?いやいや、そんなわけないじゃん。ふぉーえばーらぶ、って感じでしょ」

「……はい、多分ウソなんです。でも、なんでそんなこと言ってるのかわかんなくて。何か心当たりはありますか?」

「……うーん、わかんない。でも、最近の叶歩はなんていうか、浮かない顔してるかもね」

「そうですか……俺が何か悪いことしちゃったのかな」

「そんなことするふうには見えないけどねえ」


 美咲はそう言って見せるが、やはり陽菜乃としてはどうしても不安になってしまう。叶歩の不審な振る舞いを見るに、自分が何かしてしまったのではないかと考えると、心中罪悪感に支配されてしまうのだ。


「俺、本当に叶歩に嫌われちゃったらどうしようって思うんです……」

「いや、絶対にそんなことにはならないよ。陽菜乃ちゃんは叶歩にとって一番大事だからね」

「そんな大げさな」

「……大げさじゃないよ」


 美咲は含みのある笑みを浮かべて、空を見つめた。その瞳の中にはなんだか、暗いような温かいような灯火が揺れているように見えた。


「……あのさ。うちのお母さんがもういないのは知ってるよね?」

「は、はい」

「まだ叶歩が赤ちゃんの時だよ。わたしのお母さんはね、事故に遭っちゃった。女神みたいなお母さんだったの」


 美咲はどこか寂しそうな顔をしながら、昔話を語り始めた。




 ◆

 お母さんがまだ生きていたころ。それはもう、わたしたちは理想的な家族だった。お父さんとお母さんはとっても仲が良くて、わたしを大事にしてくれた。わたしが泣いた日も笑ってる日も、お母さんと喧嘩した日も。母は毎日私が眠りについたことを確認すると、毎日決まって寝床にやってきてほっぺたにキスをしてくれた。

 母は、私がそのことに気付いていないと思っていたらしいが、私はその感触を確認するため、毎晩お母さんがキスしてくれるまで、狸寝入りをしていた。ぎこちないリズムで寝息を立ててると、母が私の布団をめくりあげて、その中に侵入してくる。そしてそっとキスをする。                              



「ママ太った?おなかぽっこりしてるね」

「こらこら。これは食べすぎじゃなくてね、美咲の大事な家族が入ってるんだよ。」

「かぞく?わたし、皮下脂肪とかぞくになるの?」

「どこから覚えたのその言葉」


 私が小学二年生の時、母は妊娠した。そしてその数か月後、叶歩が産まれた。私は妹ができたのがうれしくて、赤ん坊の叶歩を大事にだっこしていた。叶歩は泣いても泣いても涙が枯れない泣き虫赤ちゃんで、おもりが大変だったけど、母はそのストレスを私にぶつけることもせず、いつも笑って過ごしていた。




 母が難病を隠していたことを知ったのは、叶歩が3歳で、私が5年生の時だった。後で医者から聞いたことなのだが、母はこの時、脳に異常があったが、深刻な症状は見られなかったので経過観察中とされていたらしい。母は自分の病が特に重くないと判断し、心配をかけすぎないよう隠していたのだろう。


 母の容態が急変した、と連絡があったのは、授業中だった。


 母の病気を知らない当時の私としては、ほんとうに何の前触れもない出来事だった。


 わたしは先生からお金を借りると、血相を変えてタクシーに乗った。でも、私が病院に着いた時、既に世界から色が消えていた。


 父の目からも、色が消えていた。父はしばらくの間、医者の言うことを信じなかった。私も信じたくなかった。母が死んだことを叶歩に話すと、叶歩は最初意味を理解できていなかったが、しばらくして泣き始めた。私も泣きたかったが、そんな気持ちを抑えて、病院の中で叶歩を慰めた。


 父は、あの日から変わった。彼は相当母に入れ込んでいたのだ。彼は、いまだに母の死から立ち直れていない。


 私も本当は立ち直りたくなかったけど、すぐに立ち直るしかなかった。叶歩は、物心つかないままに母親を失ってしまった。私が母のかわりになるしかなかったのだ。私は春から始めていた中学受験の勉強をやめ、叶歩を育てることに尽力した。


 いままで育児に積極的に参加していた父は、ほぼ育児放棄状態に陥った。

 幸い経済的な余裕はあったので、家事や育児のほとんどは家政婦と保育園に任された。でも、叶歩は母の愛を失った。家政婦も、仕事だけの関わりなので深い関わりは持てなかった。

 私は叶歩をどう育てればいいかわからず、頭を抱えていた。精一杯母の真似事をして、子守唄をうたったり、外にでて遊んだり、寝床でキスをしたりしたけど、12歳の私に、母になることはできなかった。叶歩は母の愛を知らず、どこか歪んだまま育ってしまった。

 叶歩はなんだか、魂の大事なところが抜けたように育ってしまった。母の死で涙を全部枯らしてしまったのか、泣かない4歳児に育った。


 小学一年生の叶歩は、学校にうまく適応できず、友達も作れず、嫌がらせを受けていたみたいだ。帰宅しても疲れた顔で、全然楽しそうじゃなくて、心配していた。


 でもある日、叶歩の様子が変わった。叶歩は、目をキラキラさせて学校でのできごとを話してくれた。


 それは、陽菜乃ちゃんが叶歩を嫌がらせから守ってくれた話だった。


 その日から叶歩は毎日、陽菜乃ちゃんについての話をしてくれた。最初は叶歩の一方的な感情で、叶歩から話しかける勇気もなかったみたいだった。でも2年生になったら陽菜乃ちゃんが話しかけてくれて、それから毎日ずっとくっついて、楽しそうにしていた。


 陽菜乃ちゃんに出会ってから、叶歩はキラキラになった。寂しそうな顔はしなくなって、そのおかげで私も希望が見えてきた。もし陽菜乃ちゃんがいなかったら今みたいに明るい叶歩はいない。だから、私は陽菜乃ちゃんに心の底から感謝している。


 ◆


「……叶歩にそんな過去が」

「陽菜乃ちゃんに出会ってからは、ああやって無邪気でいられるけどね、もし出会ってなかったら、きっと闇を抱えたまま育ってたはずだよ。陽菜乃ちゃんは叶歩にとっての救世主だからね。だから、叶歩がキミを嫌いになるなんてありえないから」


 そんな話をしていると、足音が聞こえた。ゆったりとした歩幅で鳴る音。これは叶歩の足音だ、とすぐにわかった。叶歩は背後からやってきて「何の話してるの?」と、その栗色の髪を不思議そうに傾け、覗いてきた。


 陽菜乃は固まって「な、なんでもないよ」とごまかす。その様子を見ていた美咲はうっすらと微笑み、「今日は陽菜乃ちゃんに抱きつかないの?」と答えた。


「な、何言ってんの!そんなことしないよ!それより、もう寝る時間だよ」

「はいはい、おやすみの準備しようね」




 ロッジに戻ると、床は布団で埋め尽くされた。


「陽菜乃ちゃんの寝床は、叶歩と隣がいいよね」

 美咲はにやけながら、陽菜乃のほうを横目で見る。

「はい」

「ちょ、ちょっと待ってよ。なんで勝手に決めて……」

 叶歩がそう言って止めようとすると、陽菜乃はすかさず「嫌なの?」と目をうるうるさせた。

「いやべつにっそういうわけじゃ……」


 叶歩が申し訳なさそうな顔でそう言ってるのを見ると、陽菜乃はその耳元で「大丈夫、端っこで寝るようにするから」と囁いた。


「そ、そうだね!でもちょっと近づくの怖いから離れてね」

(……叶歩のばか)

 嘘だと分かっていても、離れてね、は流石に堪えたので、叶歩のことを半開きの目でじろっと見つめたら、叶歩は気まずそうに頭を掻いた。


「……本当に俺のこと、好きじゃないんだな?」

「うん。好きじゃないよ」


 あまりに即答するもんだから、その言の葉はダイレクトに心に刺さった。腹のあたりをこりこりと抑えて、寂寥感に打ちひしがれる。


 寝支度を終えると、部屋の電気が消された。陽菜乃は横になって寝息を立てる……ふりをした。美咲が狸寝入りをしている叶歩にキスをしていた話を思い出したのだ。


 しばらくすると案の定、布団の中にぞわりと空気が入ってくるような感覚がした。


(……やっぱり)


 同じ布団の中で川の字になりながら、ゼロ距離で叶歩とくっつく。やがて陽菜乃の頬に鼻息がかかったかと思うと、ほっぺたに柔らかい感触がスタンプされた。


(うそつき)


 好きじゃないのに、こんなことできるはずがない。前に叶歩の家に泊まった時も、同じように、バレないてないと思われてるのか、そっとキスされた。血は争えないな、と陽菜乃は思いながら、幸せに浸っていた。母親のこういう行動は、伝染するものなのだろうか。


 美咲さん、あなたはお母さんになれてましたよ。





(あとがき)

久しぶりの更新になっちゃいました。これからちょっと更新頻度が落ちることがあるかもしれませんが、基本的に更新できるようがんばります。


ちなみに、こっちの更新が止まってた間にpixivに短編TS物を投稿しました。ちょっと毛色が違う作品ですが、見てくれると嬉しいです。

https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=22060202

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