26 好きじゃない

 ゴーグルもつけずに一心不乱に泳いでいると、両目に海水が入り込んでくる。

 

 海底は既に、届かなくなっていた。それでも陽菜乃は泳ぎ続ける。すべては、叶歩を探すため。あんなに寂しい顔をして、ひとりで思い詰めているのではないか。このままいなくなってしまうのではないか。そう思うと堪えられなかった。ぎこちないクロールで、ぜえぜえと息継ぎをしながら泳ぎ続ける。


 足が届かなくなってから10メートルほど進んだところで、陽菜乃は気付いた。こうして闇雲に進んでも、弱くなった今の自分の体力で、泳ぎながら叶歩を探すなんて、明らかに非効率的だ。叶歩に執着しすぎたあまり、冷静さを失っていた。


(……もう一度、見通しの良い場所に戻って探そう)

 そう思ってUターンをしたとき、陽菜乃の背後から、大波が押し寄せてきた。


(……え?)


 全身が波に攫われる。糸で引っ張られるような浮遊感を感じた後、体が沈み込む。波が引いていくのにあわせて、陽菜乃の体がより遠洋に流される。かろうじて浮くことと息継ぎはできているが、ばしゃばしゃと海水を蹴っても、遠洋に攫われていくだけだ。


(あ……これ、やばい)


 陽菜乃はごぼごぼともがいて、なんとか浜に戻ろうとする。しかし体を動かすたびに体力が奪われていくだけで、ほとんど進まない。体中の細胞が危険信号を発するが、もう遅い。この波を振り切るための体力は、この身にはない。

 全身から、力が抜けていく。陽菜乃は人体の危険を察し、パニックになっていた。


 その時だった。もがいている陽菜乃の右手が、なにかに掴まれた。


 その手はやわらかく、陽菜乃の身を引き寄せてくる。


「もう……なにやってんの!」

 栗毛の少女が、しなやかな足をヒレのように振りながら陽菜乃の手を掴んでいた。その少女は陽菜乃に浮き輪を渡し、ぎゅっと握らせる。

 その少女の顔を見た瞬間、陽菜乃はすっかりと安堵し、破顔した。


「叶歩!」






***

 陽菜乃は叶歩に腕を掴まれ、とぼとぼと歩きながら、テントまで連れ戻された。

「もー、浮き輪なしで泳ぐの禁止!なんで無理するのかな」

「だって、叶歩がいなくなったから……」

「……ボクが消えちゃうとでも思った?あんなに、かほ~かほ~って叫んじゃって。ちょっといなくなっただけなのに。さびしんぼ」

「全部見てたのか……」


 叶歩は叱り慣れてないような声色で、陽菜乃に話す。


「見守ってるつもりだったのに、あんな危ないことしたら助けなきゃじゃん。ほんと、一歩間違えたら死んでたよ」

「ごめんなさい……」

「ほんと、なんで海なんて飛び込んだの?ボクが海にいるって確証もないのに、運動音痴のひなのちゃんが泳ぎながらボクを探すなんて、どう考えても無理じゃん」

「……お前が自殺でもするのかと思って」

「へ?何言ってんの」


 叶歩はきょとんとして陽菜乃を見る。


「……叶歩の様子がおかしかったから、なんか思い詰めてるのかと」


 陽菜乃は叶歩に抱き着きたい気持ちを抑えながら、目をうるうるとさせてそう言った。


「……ひなのちゃん、ボクが好きじゃないって言ったこと、そんなに気にしてるの?別に、嫌いになったわけじゃないんだよ?」

「……わかってる、わかってる。でも、いつもの叶歩はあんなこと言わないから、心配になって。……俺になにか隠してるのか?悩んでるなら言ってくれよ。全部受け止めるから」

「……別に、隠し事なんてないよ。あれはただ単純に、キスされるほどひなのちゃんのことが好きじゃないって意味。それだけ。ひなのちゃんのこと、別に女の子としては好きじゃないからね」


 きっとそれは嘘にきまっている。『好きじゃない』と言うたびに叶歩の目は泳ぎ、罪悪感に溢れた表情を浮かべる。叶歩は昔から、嘘が下手すぎるのだ。叶歩が自分に悩みを相談してくれないのが悔しい。このままひとりで抱えこんだまま、闇に呑まれてしまわないだろうか。


 陽菜乃は叶歩の事が何よりも好きだ。だから、こんな嘘を浴びせられ続けるのは辛すぎる。叶歩が迷っているならいっそ、自分の想いをここで表明してしまおうか。


「俺は、お前のことが──す……んっ!?」

 陽菜乃が言葉を吐き切る直前、叶歩は血相を変えて陽菜乃の口内にティッシュペーパーを詰め込む。陽菜乃は吐気が押し上げてくるのを感じながら、喉に詰まったティッシュペーパーを吐き出した。


「けほっけほっ……なにするんだ」

「ボクたちはただの友達。特別な感情は一切ない。勘違いしないで」

「うそつき。俺が雨に濡れて倒れたとき、『ボクからはキスしないけど、歩み寄ってくれたらうれしい』って言ってくれたじゃん。ほんとはキスしたいんだろ」

「……あの時は調子に乗って、からかってただけ。恋愛ごっこはもう、やめにしたの。だってひなのちゃんは、本当は男なんだよ?キスするなんてありえないよ」


 叶歩は声色をより一層鋭くさせて陽菜乃を睨む。その瞳は完全に潤んでいる。陽菜乃は、叶歩が涙を我慢しているのを察した。


「……ボクたちはただの友達。これ以上しつこいなら、ボクのことを嫌いにさせてあげようか?」

「俺は何をされても叶歩のこと、嫌いにならないし、叶歩はそんなことできない。なにを我慢しているのか知らないけど、叶歩が苦しんでるのは耐えられないよ」

「くるしんでなんてないよ」

「じゃあなんで泣いてるんだ」

「泣いてないっ」

「泣いてる」


 叶歩は完全に表情を崩壊させて、ぐすぐすと涙を流し、ぬるいバスタオルで拭い始めた。


「…………叶歩、今日は泣くだけの日にしよ。俺も深堀りはしないよ。でも、いつか本当に辛くなったら俺に相談すること、約束して」


 叶歩はぐすんと嗚咽を鳴らしながら、真っ赤になった顔で陽菜乃を見て、その手首をつねった。


「ボクのこと、嫌いになったほうがいいよ」

「俺は何があっても叶歩のこと、嫌いにならないよ」

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