25 キミを探して

「……ごめんね。ボク、ひなのちゃんのこと、好きじゃなくなっちゃったの」

「そ、それはどういう……」

「好きでいることが、ダメになっちゃったの」


 叶歩はもの寂しそうな顔でそう言ったあと、気まずそうに顔を伏せて、どこかへ走って行ってしまった。

 陽菜乃はただ、あっけにとられることしかできず、体を硬直させたまま叶歩の後ろ姿を見ていた。


 陽菜乃は空虚な気持ちを抱えながら、悩んでいた。陽菜乃は叶歩のことが好きなので、あんなことを言われたのは、計り知れないほどに重いショックだったのだ。


 『好きじゃなくなっちゃったの』


 その”好き”が恋愛的な意味であるならば、叶歩はもともと陽菜乃のことを愛していたのに、心変わりしてしまった、ということになる。


 自分が、何か叶歩の気に障るようなことでもしてしまったのだろうか?しかし、そんな心当たりはない。


 少し落ち着こう。こういう時こそ大事なのは思考の整理だ。最近の叶歩の態度を思い出してみよう。


・食事のたびに、「あーん」をしてくる

・陽菜乃をかわいいと言ってしきりに撫でてくる

・バスの中で、寄りかかって寝てくる

・やたらと手を繋いでくる

・天使のような顔で笑いかけてくれる

・「恋心と友情は両立すると思うな」と陽菜乃に向かって言った


(……いや、これで俺のことを好きじゃないほうがおかしくないか?)


 自意識過剰かもしれないが、最近のあいつを見るに、叶歩はまだ、好意を抱いているに違いない。


 陽菜乃が、あんなふうにして明確に叶歩への愛を表現するのは、今日が初めてだった。それだけに拒絶反応を起こされたのがつらい。

 陽菜乃が叶歩の右手にキスをしたとき、叶歩は最初、天使のような笑顔を見せてくれた。しかし、だんだんとその顔は歪んでいき、彼女は陽菜乃の握る手を振り払ったのだ。

 あの、天使みたいな顔……きっとキスをしたとき、最初は純粋に喜んでくれたんだ。でも、心の中でなにか引っ掛かるところがあって、結果として、あんなふうに寂しい顔になったのだろう。

 

 『好きでいることが、ダメになっちゃったの』

 叶歩は確か、走り出す前にそう言い直していた。


 もしかして、叶歩が陽菜乃のことを愛してはいけない理由でもできたのだろうか?


 ひょっとしたら、叶歩はなにか、誰にもいえない悩みを抱えているのかもしれない。自分自身の闇に揉まれ、その心中に毒を宿らせているのかもしれない。そう考えると、陽菜乃の中で心配の念が溢れてくる。


 叶歩の内情について、何も気づいてあげられない自分にイライラする。叶歩はきっと、どこかで助けを求めているんだ。走り出すとき、あんなに寂しそうな顔をしていたのがその証拠だ。


(叶歩、どこに行っちゃったんだ)


 陽菜乃はテントを出て、あたりを見回す。砂浜にはおびただしい数の観光客で賑わい、ごった返している。


 叶歩は見つからない。どこを見回しても。延々と続く広い砂浜。目を凝らして人ごみを観察するが、あの愛しいシルエットはどこにもない。


 ついさっきまであんなに仲良くしてたのに。あんなに近くで見守っていたのに。あんなにふたりで楽しかったのに。


 きっと、陽菜乃は何か地雷を踏んでしまったんだ。見栄を張りたいばっかりに、右手にキスなんてしなければよかった。これまで通りぼんやりと、なんとなく仲のいい友達として一緒にいればよかったのに。下手したら、ふたりの関係はここで崩壊してしまうのではないのか。



 他の客は皆、楽しそうに海で遊んでいる。自分たちもさっきまで、あんなふうに遊んでいたのに。

 鬱陶しいほどの人ごみを眺めていると、もう、叶歩が二度と戻ってこないような、そんな消失感が湧き上がってくる。






 『さよなら』

 どこか遠くで、そんな言葉が聞こえたような気がした。


 気付いたら、体が勝手に走り出していた。自分がいま、水着姿でいることなど気にしない。焼けた鉄粉のような砂粒が、サンダルに侵入してくる。粘っこい熱気の中で汗を垂らしながら、「叶歩!」と叫んだ。限界まで喉を張り上げるが、アブラゼミと人々の喧騒でかき消されてしまい、叶歩を呼ぶ声は響かない。

 陽菜乃は息を切らす。


 雑踏の中で、迷子の少年がいた。少年はわんわんとわめき、泣いていた。自分もむかし、迷子になったことがある。あの少年はきっと、家族が自分を置いていってどこかへ行ってしまうかも、という不安を抱いている。それがたまらなく怖いのだ。


 陽菜乃は、少年を助けない。あの少年は自分だ。自分も、迷子の少年のように、叶歩に置き去りにされてしまうのが怖い。迷子が迷子を助ける義理などない。今の自分が救わなければいけないのは叶歩だけだ。


 陽菜乃は、迷子の泣き声を聞こえないフリをするように振り返り、水平線を眺める。生唾をぐっと飲みこむと、サンダルの中にぬるい海水が侵入してきた。


(……まだ探してないのは、海だけか)


 さざ波が、陽菜乃を誘ってくる。今の陽菜乃は泳ぐのが、絶望的に下手だ。それでも、迷っているような余裕はなかった。


 陽菜乃はパニックになっていた。叶歩がもう自分の前からいなくなってしまうかのような焦燥感に襲われている。叶歩以外のことが考えられない。正常ではいられないのだ。陽菜乃は何の気なしにサンダルを脱ぎ捨て、海へ向かって、砂を蹴り上げる。


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