17 俺たちの約束を

 石段には、増水した雨水が滝のように流れている。

 陽菜乃は傘も差さずに、ただ雨水を受け止めていた。荒天色に染みたセーラー服が胸元にぴっちりと纏わりつき、長い黒髪からは、浸透した雨水が滴り落ちている。


 陽菜乃は泣きたい気持ちになりながら、ずっと待っていた。こうして、もう2時間は経つだろうか。


 むかし、『男女の友情は成立するか』という問いかけをテレビで聞いたことがある。その時は、意味が全く理解できなかった。友情なんて性別関係なく成立できるに決まっている。だからそんな問いかけ自体が愚問でしかない、と思っていたからだ。


 しかしこうやって一番の親友が女の子になってしまった今、その言葉の意味を嫌でも知ってしまう。

 今まで、波留に会っていた時に感じた『心配』や『安心感』が、叶歩になってからは『かわいい』に置き変わり、陽菜乃の心を揺さぶってくるのだ。


 いや、かわいいと感じること自体が問題なのではない。愛おしさに心が揺らいで、その先にあるもっと深い愛に目覚めてしまいそうなのが怖いのだ。その愛にはきっと、どんな友情も及ばない。なぜならそれは理性的ではなく、本能的な強い欲情だから。


あと一歩踏み込んでしまったら、今まで培ってきた友情は全部なかったことになってしまうのではないか。陽菜乃の神経は、そんな危険信号を発しているのだ。


 黒板に書いてある相合傘を見た瞬間、これ以上行ったらもう戻れなくなるんじゃないか、と悪寒が走った。

 相合傘に書かれているのは自分と叶歩の名前。その上にはハートマークが描かれている。それを見て、陽菜乃は一瞬、喜んでしまったのだ。


 無意識に湧き上がってしまった自分の欲情が恐ろしい。ずっと寄り添ってくれた波留の優しさを忘れてしまいそうで。


 だからこうやって、男の時にしたあの青臭い約束の場所で、波留を待ち続けている。この救難信号を忘れていないことを確かめたかったのだ。



『そんな約束、もうきっと覚えてないよ』


 自分の中の、自分ではない誰かが言った。


『叶歩がお前に抱いてるのはもう友情じゃない。お前はもう、非力な愛玩用の動物なんだ』


 心の声は、陽菜乃に揺さぶりをかけてくる。ちがう。叶歩はそんなやつじゃない。あいつはどこか抜けてるかもしれないけど、大事に過ごしたあの長い時間も、救難信号を出したらここに集合するという約束も、忘れるはずがない。


『でも、お前だってそうなんだろ?叶歩のこと、もうかわいい雌犬としか見てないんだ』


「ちがう」


 陽菜乃は首を振りながら、雨に濡れた体を震わせる。叶歩、いや……波留に惹かれたのは、彼の内面が魅力的だからだ。あいつは他の男子と違って優しくて、正反対なように見えて、どこか自分とよく似ているんだ。だからこそ、自分たちはお互いのことをよく理解し合っているんだ。


 ぐっしょりと濡れたスカートから伸びる太ももには、水がちょろちょろと流れていた。傘は、学校に置いてきてしまった。


『ここにきて、どれだけの時間が経った?あいつはきっと約束を忘れたんだ。家に帰れば温かいシャワーに毛布があるぞ』

「うるさい」


 陽菜乃は心の声を噛み殺しながら、必死に『叶歩は来る』と何度も何度も念じる。


 ただ、『俺』のことを忘れないでいてくれたらいい。初めて話した時のことも、一生懸命作ってくれた折り紙も、会わなくなった一年間も、その後反動でもっと仲良しになったことも、そして、あの蒸し暑い夏にした約束も忘れてほしくなかった。それだけが『悠馬』として生きてきた人生の形見であり、宝石だ。




 でも、それから一時間ほど待っても叶歩は来なかった。


(……ほんとに、わすれちゃったのかな)

 陽菜乃の中に、孤独感と焦りが入り混じったような空気が侵入してくる。


 なんだか頭がぼうっとして、熱くなってきた気がする。ずっと雨に打たれてきた弊害か。

 咳が止まらない。臓器の中身をこねくり出されるような嘔気が充満したまま、咳を吐き続ける。


(……このままずっとここにいたら、死んじゃうのかな)


人体に危険が迫っているのに、不思議と危機感は感じなかった。まるで天に召されるかのような感覚。余計なことが考えられなくなる。


『死んじゃうよりは、いっそもう友情なんてこだわりを忘れて、叶歩にメロメロになっちゃうほうがマシだよ』


 天の声が、甘く誘惑してくる。陽菜乃はもう、折れかかっていた。そうだよ、こんなの、自分が変にこだわって、やせ我慢をしているだけに過ぎないじゃないか。だからもう全部妥協して、叶歩をひとりの女の子として、恋人として愛する妄想でもしちゃおうか。


 雨に打たれながら、妄想の世界に入り浸る。叶歩が恋人になったら初デートはどこに行くかな。ファーストキスはいつ頃にしようか。俺たち、学校でいちばんのラブラブカップルになるんだ。結婚式、たのしみだな……



「ゆーまっ」

 石段の向こう側に、愛しい影が走って、こちらに向かってくるのが見えた。叶歩だった。幻でもみているのだろうか。なんだか頭がぼーっとして、熱い。難しいことが考えられない。そうか、これは夢か。雨に打たれて妄想し続けたせいで、俺はおかしくなってしまったんだ。


「ゆーま、傘も持たないで……辛かったんだね。気付いてあげられなくてごめんね」

 叶歩はこちらを見て心配するように覗き込む。いかにも夢の中という感じの、自分にとって都合のいい言葉だ。なんて心地いい言葉なんだろう。はぁ、もう我慢できない。せっかく夢の中なんだし、もういいよな。いっそ羽目を外してしまおう。


「ねぇ……叶歩、ちゅー、しようよ」


 力の抜けた声で、そうつぶやく。なんだか叶歩は動揺してるみたいな顔をしている気がする。その顔を見てると、なんだか頭がくらくらして……意識が遠のく。はぁ、せっかくいい夢だったのにここでおしまいかあ。






「ゆーま……寝ちゃった?今言ってたの、聞き間違いじゃないよね……寝ぼけてただけだよね?」


 叶歩は陽菜乃の頭に、水色の傘を被せた。期せずして、黒板に書いたのと同じ構図、相合傘。しかし陽菜乃の体は湯だったように熱く、完全に脱力していた。

 余計なことを気にしていられる容体でもなさそうだったので、叶歩は傘を閉じて、陽菜乃をそっと抱きかかえた。

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