16 赤い紐
時系列は、その日の朝に遡る。
その日は前線とか気圧がなんとやらで、昼前から午後にかけて記録的な大雨が予報されていた。叶歩はコーンスープを啜って、まだ雨が降っていない窓の外を覗きながら、『
「叶歩、帰りは足元気を付けてね」
「はい、いってきまーす」
姉との会話を済ませ、水色の傘を手に取る。
叶歩にとっては、午後の大雨よりも朝の教室のほうが大事だ。
昨日の放課後、叶歩は黒板に自分と陽菜乃の相合傘を残した。純情な恋をする夏葉の姿を見て、自分も陽菜乃にいたずらをしてやろうと思ったのだ。自分で考えてもバカな行為だが、陽菜乃ならきっと許してくれるし、美味しい反応が見れるはず。そんな風に思っていた。
──なぜなら、陽菜乃のことを何も理解していなかったから。
傘立てに傘を差し、上履きに履き替える。叶歩はうずうずとした気持ちを抱えながら、教室のドアを開けた。
その瞬間、清流のような黒髪が叶歩の頬をかすめ、通り過ぎていった。
「……ん、ひなのちゃん?」
素顔は、髪に隠れて見えなかった。
彼女は荷物を教室に置きっぱなしにしたまま、走ってどこかへ行ってしまったのだ。
叶歩は不思議そうに思って教室に入った。そこにはどこか湿っぽい空気が流れていた。
クラスメイトたちは叶歩の顔を見ると、気まずそうに顔を伏せた。
黒板には、白いチョークでハッキリと、昨日の相合傘が残っていた。
雨が降り始めた。
「叶歩ちゃん!」
叶歩がぼーっとして黒板を見ていると、そこに夏葉がやってきた。
「もう、こんなこと書くなんて、ひどいいたずらするやつもいるよね!」
「……え。う、うん。」
『ひどい』と言われて、ハッとした。自作自演でやったことなのに。思わずうなずいてしまった。
これは『ひどいいたずら』なのだろうか。軽い出来心でやってしまったことなのに、もしかしたら、陽菜乃を傷つけてしまったのかもしれない。
叶歩は急いで黒板を消して、席に座った。
(きっと、ひなのちゃんもすぐ戻ってくるよね)
この時はまだ、そう思っていた。
でも、ホームルームに陽菜乃の姿はなかった。
1時間目の授業もいなかった。保健室を探してもいなかった。次第に、雨粒が大きくなっていく。
ふと叶歩は、教室に掛けてある陽菜乃のカバンのチャックに、赤い紐が結んであることに気付いた。
その時、反射的に体が動いた。廊下を駆け出し、傘を持って上履きを脱いでいた。
大雨が地面を割るような音を聞きながら、長靴で水たまりを踏みこむ。
「……かほちゃん?どうしたの?学校は?」
叶歩が陽菜乃の家のインターホンを鳴らすと、彼女の母が出てきた。
「あの!陽菜乃ちゃん帰ってませんか?」
「ひなはまだ学校のはずよ?どうしたの?」
どこかで雷が鳴った。
***
5年生の夏。
群衆のざわめきに紛れて、和太鼓や笛の音が鳴っている。
蒸しあがって粘っこい夏の夜の空気を吸いながら、ふたりでラムネを飲む。
「ゆーま、ボク、お祭りがすっごく楽しみだったの」
「いつも通り、ふたりでご飯食べてるだけなのに?」
「雰囲気ってもんがあるでしょ」
「雰囲気かぁ」
悠馬はわかったようなわかってないような声を出してぼけーっとしてた。この蒸し暑さに脳がやられてしまったのだろうか。ボクにとっては、夏祭りは遊園地だった。知らない国の知らない場所に迷い込んでしまったような、そんなワクワクと、得体のしれない消失感。
「……ねぇボク、いつかああいうの着てみたいな。」
ボクは、若い女性の後ろ姿を指さした。その女性は桜の柄の着物を纏い、髪には花飾りをしている。実に華やかだった。
「ハルなら、きっと似合うよ」
「でも、まだ着る勇気がないの」
「じゃあ、いつかの夏着ような。」
「これって恥ずかしいことなのかな。他の男の子は着たがらないものなのかな」
「はずかしくないよ!その時は俺も着る!これで俺のほうが恥ずかしいだろ」
それを聞いてボクは口角をあげた。冗談で言ったのか本気で言ってくれたのかはよくわからないけど、うれしかった。
「じゃあ約束だからね。ゆーまも着物、きっと似合うよ」
「いや、俺は似合っちゃ駄目だ。ハルの良さが引き立たないから」
「なにそれ。ゆーまもかわいいのにー」
***
その数日後。
祭りのなくなった神社は、どこか寂しそうだった。あんなに賑わっていたのに、今はふたりきりだ。
ボクたちは、神社の石段に座りながらサイダーを飲む。
「この前ここで言ってた着物を着たいって話、今から練習しない?」
「練習?」
そう提案すると、ボクは近くの草むらからお花を摘み取り、その茎と栗色の髪とを結んだ。
「じゃじゃーん。ボクお手製の花飾りだよ。お祭りの女の子みたいでしょ」
「……へぇ、似合うな」
「ゆーまもつけるんだよ?」
「え、俺がか?」
「だって、一緒に着物、着てくれるんでしょ?」
そう言って、ボクは悠馬の頭にお花を植えた。
「かわいいね。せっかくだし、このまま遊ぼうよー」
「……うん」
コンビニへと降りようとしたところで、クラスメイトに出くわした。
「ユウマ何だよそれ!女かよ!」
クラスメイトは、悠馬のこめかみに咲いているお花を指さして、笑っていた。悠馬はそれに動じず、更に花を見せびらかす。
「あはは。どうだどうだ」
「アハハハ!似合ってねぇ~」
「……はは、そうだろ。でもハルはイケてるだろ?」
「ほんとだ。悠馬に比べてハルのほうは結構似合ってんじゃん。ハハハ」
「あ、うん。ありがと……?」
ふたりになった時、ボクは膨れっ面と浮かない顔の中間のような表情をしていた。
「ハル、大丈夫か?何か嫌だったか?」
「ゆーまを踏み台にしたみたいでやだ。ゆーまも似合ってるのに」
「え、踏み台?俺を?」
悠馬はきょとんとした。
「誰かを引き立てるためにオシャレするなんて、悲しいよ。本当はもっと楽しいもののハズなんだ」
「別に気にしてないけどな」
「ボクはね、ゆーまがいつか壊れてしまわないか心配なんです」
「壊れる?」
「だって、悠馬っていちいち他人にあわせて色々我慢してるじゃん。本当に苦しい時も、誰にも頼れないんじゃないかって」
悠馬は入道雲を見上げると、「そうかあ」と、刺さったような刺さっていないような反応をした。
「ボクはゆーまが心配だからね、これ渡す」
「なにこれ。紐?」
「これはね、救難信号」
ボクの手のひらには、赤い毛糸の切れ端があった。家に置いてあったものをハサミで切って持ってきたのだ。
「ゆーまがどうしてもつらくなったら、これをカバンに結んで。そしたらこの神社に集合しよう。ふたりきりで相談に乗ってあげるから」
「ふーん。これ、使用期限は」
「このサインを忘れないくらいボクらに友情があるなら、いつでも」
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