12 わたしの、ほんとうの姿は
強さというのは、実に脆いものだ。維持するのは大変でも、一度弱みを晒してしまえば、積み木の土台のように瓦解してしまう。
そして、彼の強さを維持する土台は、もう完全に崩壊していた。彼の強さを最も信頼していた人間に、ボロボロで、最高に弱々しい姿を見せてしまった瞬間、彼の心臓は結晶化し、ガラスのハートになった。
そして、彼は『もっと弱くなりたい』と願った。女性である自分を肯定した瞬間、『彼』を保っていた武装はしぼんでゆき、やがて一輪の儚い花へとかわった。
かつて強かった獣が、『守ってほしいの』という願望を秘め、森の庭に咲く白百合へと姿を変える。その白百合は、可憐であることに自分の価値を見いだす。もっと可憐になりたいから、もっと弱くなりたい。もっと弱くなって、『守ってあげたい』と思わせたい。
彼、もとい彼女は、弱々しくて可憐な自分の姿を想起する。
華奢ですぐに折れてしまいそうなわたし。風でどこかに飛ばされてしまいそうなわたし。ふわふわでひらひらのスカートをゆらすわたし。立っているだけでその場の空気を和やかにするわたし。おひさまのような顔で笑うわたし。三つ編みを垂らして淑やかな雰囲気を出すわたし。無防備な寝顔を見せて昼寝をするわたし。可愛らしいカチューシャをつけて悦に浸るわたし。上目遣いをしながら大好きな人に守ってもらうわたし。かわいいかわいいかわいいわたし。
彼女の心が作り出した、弱くて可憐な自分像。二人の友人から放たれた『かわいい』の言葉がトリガーとなり、彼女はいとも容易くその像に溺れてしまった。
「ねぇ、陽菜乃ちゃん。……わたし、かわいい?」
変貌してしまった夏葉を見た陽菜乃の首筋には、冷や汗が垂れていた。
「……本村」
「もう、夏葉でいいよ」
さっきまで刺々しさを残していた、かつてのやんちゃな少年の姿は、もうそこにはない。愛嬌のある苦笑いを浮かべ、頬に手を添えている。
陽菜乃としても、かわいい服を着たい、という気持ちは共感できるし、それを身に着けていると気分があがるというのは経験済みだ。
しかし、男として過ごしてきた記録をすっかり忘却してしまったみたいに微笑む今の夏葉を見て、陽菜乃は複雑な感情を抱かざるを得なかった。
こうなってしまったのは自分のせいなのではないのか。相談を受ける、という立場を甘く見て何か変なことを言ってしまったのではないか、それが原因で変な扉を開かせてしまったのではないか、と責任を感じていた。
「……陽菜乃ちゃん?」
気難しそうな顔をして黙りこくっている陽菜乃を見て、夏葉は疑問符をうかべる。
叶歩はその様子を見かねて、陽菜乃の気持ちをなんとなく察した。
「ひなのちゃん。……夏葉ちゃんはね、全部自分の意思で決めて、変わったんだよ。
だから、ひなのちゃんが責任を感じる必要もないし、夏葉ちゃんはこれで幸せなんだよ」
「……大丈夫。わかってるよ。夏葉、とてもかわいいよ」
叶歩の意見は全く持ってその通りだったので、陽菜乃は素直に、夏葉に対し率直な感想を述べた。
「……うん。ありがとう。わたしね、思うの。もしかしたら、わたしの本当の姿は女の子なんじゃないかって。
今まで男だったのは全部うそで、きっと最初から女の子だった、って言われても信じちゃうくらいに、この体でいるのが安心するの。」
夏葉は優しげな声色で話していく。その顔には希望的な笑みがこぼれていたので、陽菜乃はもう何も言えなくなってしまった。
ただ、男の記録に縋り続けている陽菜乃にとって、『わたしはきっと最初から女の子だった』という夏葉の発言は、体のどこかに突き刺さるものだった。
「……夏葉、自信は持てそうか」
「うん。わたしね、今生まれ変わったみたいに清々しいの。だからわたし、明日武田に話しかけてみようと思う」
そうだ。夏葉の悩みが晴れるのであれば、それ以上願うことはない。夏葉が満足しているなら、陽菜乃が余計なことを気に悩むこともないのだ。
武田と夏葉との
──夏葉が武田に対し『わたしを守ってほしい』という願望を抱いていることを知らずに。
その日は解散した。
***
「ひなのちゃん、キスしようよ」
花の咲き乱れる陽だまりで、叶歩はにこやかに笑った。ひまわりの笑顔を浮かべて駆けだすきみは、ぎゅっと抱き着いてきた。
「もぅ、なんでわたしから目、逸らすのー」
何の濁りもなく、無邪気に笑うきみはもう、『ボク』という一人称を失っていた。
男友達として過ごした名残はすべてなくなり、完全に女子の世界に入り込んでしまったようだ。まるで、最初から女の子であったように。
「ねぇ、もうわたしのこと、一人の女の子として見ていいんだよ。」
きみがやや低音で囁いてくる。どこか湿り気のある声色で、それは陽菜乃の中の欲情をぞくぞくと、マッサージでもするかのように掻き立てる。
「わたしは本物の女の子だから、もう、ひなのちゃんが恋心を抱いても罪にはならないの。だから、やりたいようにしていいの」
きみはそう言って、上目遣いになりながら顔を赤らめる。その言葉を前にして、もう陽菜乃は耐えることができなかった。
「……ひなのちゃん、キスしたいんでしょ」
「……うん」
叶歩は、目を閉じた。長い睫毛に日の光が反射し、陽菜乃の目を眩ませる。
陽菜乃は、叶歩の口際めがけて顔を近づける。何の不純物もない清らかな肌に浮かんでいるのは、ふっくらと盛り上がった桜色の口唇。お互いのそれを重ね合わせると、心臓が熱く燃える。
きみの唇の温かさを、その皮膚で感じ取る。唇に温度はなく、もふもふとしていて、まるで動物の毛のようだった。生地に喩えるなら綿。どこか吸水性があって、肌触りの良い、コットンのような──
「……は。」
夢から覚めた。陽菜乃は、枕元に置いてあるイルカのぬいぐるみに抱き着き、口許を押し付けていた。
陽菜乃の胸元から、轟音が止まらない。それに呼応するように、体をびくびくと震わせる。
陽菜乃は、見てはいけない夢を見てしまったのだ。
その夢の中で陽菜乃は、彼女の最も大事な『男友達』に対して恋心を抱き、おまけに──
……この感情を許してはいけない。もしこのタイミングで起きていなかったら、陽菜乃は完全に、その情に溺れてしまったかもしれない。それが怖かった。
『女の子』として生きる選択をした夏葉を見て、陽菜乃がもやもやしていた原因が分かったかもしれない。『俺』を捨ててしまった彼を見ていると、なんだか他人事ではない気がしてしまうのだ。
もし、叶歩までそうなったら、自分はきっと…………
それ以上は考えないことにした。
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