09 よわよわしくなってしまったこの体で
「はあっ……はあっ……」
体育館に響き渡る大音量の電子音を聞きながら、陽菜乃は息を乱している。
20mという距離を、こんなにも遠く感じるとは思わなかった。肺が焼けるように熱くなる。頭まで酸素が回らず、ぽうっとした気持ちになりながら、一心不乱に走る。
(……おかしい)
疲労のペースが、明らかにおかしいのだ。現在、シャトルランは10往復目。普段なら、この段階では辛さなど、全く感じないはずだ。感じないはずなのに。
いくら性差があるといえど、男の時には、他のクラスメイトたちよりも持久力があったはずなのだ。なのに、周りの元男を見回しても、陽菜乃のように息を切らしている人は少ない。
(もしかして俺、運動音痴キャラになってる……!?)
男として生きてきた過去が改変された影響は、こんなところにも出てしまうのか。
陽菜乃は鉛のように重くなった手足を振りながら、ふらふらと走った。
(やばい、もうだめっ……間に合わない……)
……記録は、19回。まさかここまで運動ができなくなってしまったとは。
男の時は70回以上を記録していたのだが……さんざんな結果としかいいようがない。性差もあるのだろうが、それ以上の体力低下を実感する。
というか、陽菜乃はこのクラス中で最下位らしい。体育館を見回すと、みんなは未だに走り続けていた。
(あとで叶歩にからかわれるな)
むしろ、からかってくれたほうが気が楽だが。しかし……『叶歩を守る』と心に決めていたのに、こんなに弱くなってしまったのは、なんだか情けない。
仮に叶歩を物理的に守るべき状況に直面したとして、今の自分では組み伏せられてしまうだけだと、この体力テストで実感した。
陽菜乃は息を整えながら、体育館の外にある蛇口へと向かって、がぶがぶと水を飲む。
「……お前、
水を飲み終わると、背後から自分の苗字を呼ぶ声が聞こえたので陽菜乃は振り返る。そこにいたのは、薄い丸眼鏡をかけた内気そうな女の子。彼女はクラスメイトの本村翔太……だった少女だ。
やんちゃな坊主だったが、女子になってからずいぶんと静かになってしまったようだ。
「あー……お前は翔太だっけ。どうかした?」
「……いや。お前持久走早かったのに、随分早く脱落しちまったみたいだな。……俺も同じだ。今や運動音痴だよ」
そういえば、翔太はサッカークラブのエースだった。
当然体力もクラス随一だったのだが……陽菜乃とおなじように、かつての筋肉は消え、ふにふにの脂肪にかわってしまっている。見るからに運動に向かない体だ。
「そっか、辛いよな。ところで、女子の生活は大丈夫か?」
「……大丈夫なわけねーよ。まぁ、受け入れるしかないんだろうけどさ」
翔太はため息をつきながら、そう呟いた。彼なりに、色々な苦労があるのだろう。
「翔太も大変だな。そうだ、女子版の名前を聞いておいてもいいか?知っておいたほうが良さそうだろ」
「……
彼女は恥ずかしそうに、その名前をつぶやいた。
「そうか。大変だけど協力しあおうな、夏葉」
「おいおい、なんでその名前で呼ぶんだ」
(……そうか。彼女はまだ自分の名前を認めていないのか。)
「男の名前で呼んだら……事情を知らない人たちに誤解されるぞ、夏葉?」
「なっならせめて苗字で呼べ!まだ慣れないから」
女の子の名前で呼ばれたせいか、夏葉はすっかり恥ずかしそうにして目を伏せる。やんちゃな生徒だと思っていたので、こういった一面を見るのはなんだか新鮮だ。
「わかったよ、じゃあ本村って呼ぶよ。ちなみに俺の名前は──」
「……知ってるよ。ひなのだろ。」
「詳しいな。何で知ってるんだ?」
「佐藤にそう呼ばれてるの聞いたし」
佐藤というのは、叶歩の苗字だ。
たしかに、叶歩と陽菜乃はお互いを下の名前で呼びあっている。その影響もあってか、陽菜乃の名前はクラス内でも有名なのだろう。
「お前、佐藤と随分仲いいよな。女になってもあれだけ深い関係なのは、お前たちだけだよ」
「あいつはガキの頃から一緒だから」
「……木崎、小学生の時佐藤を嫌がらせから守ってたよな。実はあの時からお前のこと尊敬してるんだ」
「……そうか。ありがと」
まさかそんな話題が出てくるとは思わなかったので、内心喜んでしまった。『尊敬してる』なんて言われたことは、彼の人生で一度もなかったのだ。
陽菜乃としては、叶歩のことが放っておけなくて面倒を見ているだけなのだが、そういうふうに評価されると、なんだかちょっと面映ゆい気分だ。
「ところでさ……木崎。あの、放課後、ちょっと話さないか」
夏葉は、どこか含みのありそうな声でそう言った。その声色にはなんだか迷いがあって、陽菜乃は夏葉が何か抱えていることを察した。
「……ほう、悩みでもあるのか?俺でよければ聞くぞ」
陽菜乃は、まだ女子の生活に慣れていない夏葉の面倒を見てやるか、と思い、放課後彼女の話を聞く約束をした。
***
「なつはちゃん!女の子の生活も大変だけど、これからがんばろうね!」
「……おい木崎、なんでこいつがいるんだ」
放課後、陽菜乃が約束通り夏葉のところに行くと、叶歩がくっついてきた。
「あーごめんな。叶歩は俺とセットなんだよ……まぁ、聞かれたくない話なら、叶歩には帰ってもらうけど」
「いや、いいよ。佐藤ならいい。それで話なんだが……人目のつかない場所でしたい……」
「あっ、それならボクの家使っていいよ!」
「……グイグイくるな」
叶歩はあまり夏葉と仲良しではないはずなのに、自分の家に呼ぼうとしている。少し距離感がバグっているようにも感じるが、この無邪気さが叶歩の良さでもある。
それに叶歩もこう見えて色々と気が回る。彼女は『図々しい』の一歩手前で引いてくれる性格なのだ。
結局、叶歩の家で話すことになった。夏葉もなんだかんだ叶歩に気を許しているようなので、承諾してくれた。
叶歩の部屋に荷物を置くと、夏葉はその場に座った。
「それで、話というのは」
「……あのさ。お前らの仲良しの秘訣、教えてほしいんだ」
「……へ?」
想像してもいない言葉が飛んできたので、びっくりしてしまった。……仲良しの秘訣?なんでそれを自分たちに、と陽菜乃は思った。
「いや……俺、女になってから仲良かった友達ときまずくなっちゃったんだ。だから今でも仲いい二人なら、なにかいいアドバイスしてくれるんじゃないかって思った」
たしかに、陽菜乃たちは女性化現象の直後から仲良しにふるまっていた。周囲の人間からすれば、自分たちは模範的な友人として見られてるのかもしれない。
「それで、その仲良かった友達ってのは?」
「……武田。クラスメイトだよ。」
……陽菜乃はその名前を、聞いたことがあった。武田はサッカーが地域でもトップクラスに上手で、夏葉とおなじクラブチームに入っていた。しかし、陽菜乃のクラスメイトだから彼もまた、女子になってしまった。
……まだ学校が始まって一日だから、女子版の武田がどんな奴になったのかは知らないが。
だが、陽菜乃にとってはひとつ気になる事がある。武田と夏葉の間には、ある噂が立っていたのだ。
「お前たち、仲悪いのかと思ってたよ」
そう、武田と夏葉は、男時代に『犬猿の仲』と評されるほどに喧嘩を起こしていた。陽菜乃はそのことを知っていたので、夏葉が武田の事を『仲のいい友達』と言ったことに、違和感を覚えた。
「……よく言われるけど、仲いいから。俺も疎遠になって初めて気づいたよ」
夏葉は、どこかもの寂しそうにそう言った。そこにはかつてのやんちゃなサッカー少年の面影はなく、何かもやもやを独りで抱える少女の顔をしていた。
「そうなのか。……よかったら教えてくれないか。お前たちの関係を。何かわかるかもしれないだろ」
「……話せば長くなるぞ」
そう言って、夏葉は自分と武田の体験を語り始める──
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