08 女子中学生ライフ、開始
「ひなのちゃん、おっはよ!セーラー服、似合ってるよ~」
──朝の教室にて。
陽菜乃が机に頬杖をつきながら欠伸をしていると、叶歩がぴょんぴょんと跳ねながら手を握ってきた。
「……あ、うん。そうか。おはよう。」
陽菜乃はやや脱力ぎみに返事をした。まるで、空気が抜けてしまったのかのような態度だ。
「もう、なんかよそよそしくない?寝不足にでもなった?」
…………半分正解、半分不正解だ。
原因は、一昨日のお泊り会。叶歩と一緒のベッドで寝ることになった陽菜乃は、緊張して結局一睡もできないまま夜明けを迎えたのだった。叶歩は朝日に照らされながら、すごく幸せそうな顔で寝息を立てていたが。
……だが、こういうふうに抜けた態度をとるほんとうの原因は、寝不足だからではない。
お泊り会にて、陽菜乃が寝たふりをしているとき、ほっぺたに『柔らかい物』が押し付けられた。……そのことを思い出すと、こういう態度になってしまうのだ。
あれはきっと、事故だ。そうに決まっている。だって叶歩がそんなこと……だから、もう忘れてしまいたい。
あまり、気まずい空気を作りたくないのだ。だから、あくびを打つふりをして、「ちょっと眠いかな」と、はぐらかす。
「えーっ大変!夜更かしせずに、ちゃんと寝るんだよ」
……不眠の原因は君だと言いたいが、胸にとどめておく。まったく……
叶歩はその後も、陽菜乃の机に擦り寄っている。始業の時間まで世間話でもしようか、といった具合だ。
そうやって、ふたりが会話に花を咲かせていると、ふと周りからの好奇な視線に気づいた。
(……みんな見てる)
他のクラスメイトみんなはしーんとして、教室の様子を伺っている。どこか重たい空気が流れているようだった。
無理もない。今日は、クラス全員が性転換する現象に巻き込まれてから、最初の登校日。みんな思い思いの土日を過ごしてきたのだろうが、やはり話しづらいのだろう。
普段はふざけあったり騒いだりしている生徒も、照れた雰囲気を漂わせて座席に座っている。
陽菜乃たちの学年は、まだ入学して3週間ほどしか経っていない。要するに、人間関係があまり構築されないまま女の子になってしまったということだ。陽菜乃と叶歩は昔から仲が良かったゆえ、交友関係を保てているが、クラス内で深い親交を築けていない生徒たちにとっては、この環境は苦痛だろう。
…………そう考えると、こうやって叶歩が変わらず仲良くしてくれているのはありがたいな、と思う。叶歩は陽菜乃に対して、かわらずフレンドリーに接してくれるのだ。少々きまずくなることもあるが、それでもこうやって友達であり続けられるのは、嬉しいことだ。
そんなことを思いながら息を飲みこんでいると、右後ろの席の生徒が、こちらをじっと見ていることに気付いた。その生徒はなんだか気難しそうな顔をして、こちらを見ていた。薄いフレームの丸眼鏡をかけて、どこか弱々しい雰囲気を漂わせている。……みんなが女子になってしまったせいで、誰が誰だかわからない。
……思い出した。あの席に座っていたのは、確か本村翔太だ。
翔太は小学生時代からサッカークラブのエースで、たしか中学に入ってからもサッカー部に入っていた、強気でやんちゃな男子だった。
噂によると、翔太はサッカー部に入っていた過去が消え、手芸部に籍を入れていたことになったらしい。……少々気の毒だ。
例の現象の影響で、彼女は今どういう名前になっているのだろう。あとで聞くことにしよう。
そんなことを考えている間に、もうすぐ始業、という時間になっていた。陽菜乃はホームルームが始まる前に、授業の準備をしておこうと考える。
「叶歩、1限なんだったっけ?」
「あれ、時間割見てみる。待ってて……」
叶歩はメモ帳を取り出す。そこには、時間割表が貼られているのだ。彼女はそれを開いて、次の授業を読み上げる。
「えーと、今日は月曜日だから、一時間目は──」
「……そうだ。
「え。」
「あ……」
……妙に教室がそわそわしていた原因に、今更気付いた。
そう。体育の授業ともなれば、もちろん着替える必要がある。……もちろん、クラスのみんなに見られて。だからみんなは着替えるタイミングを模索しながら、教室の空気を伺っていたのだろう。
そう、40人ほどの生徒(元男)がいる場所で着替えたら、誰かしらに性的な目で見られるに決まっている。陽菜乃は唾を飲み込んだ。
「……叶歩、トイレだ」
「うん」
最悪の場合、陽菜乃は着替えを見られても構わないと思っていた。だが、叶歩が他の男に見られるのはなんだか嫌だ。せめて叶歩だけでも、安心できる場所で着替えさせてやりたかった。
ふたりは駆け足でトイレに向かった。しかし、考えることは皆同じのようだ。個室がほとんど埋まっている。
もともと男子校だったのだが、例の現象が起きてから、校舎には女子トイレがひとつ増えていた。……いずれにせよ、女子生徒は1クラスぶんしかいないので、このフロアには個室が3つしかない。そのうちのふたつが埋まってしまっているのだ。
「叶歩、先いいぞ」
「……ううん、いっしょにはいろう。ホームルームまで間に合わないよ」
「……いいのか?」
別に陽菜乃としては、叶歩に着替えを見られるのは全く構わない。でも──
「いいから!ボク、陽菜乃ちゃんのこと信頼してるって言ったでしょ!遠慮しすぎはやめよ!」
考える間もなく、半ば強引に、個室に引っぱられる。
体操袋をカバン掛けに吊るし、セーラー服のボタンを外していく。胸元からぺらりと布がめくれると、肌着が透けてうっすらとブラジャーが見える。
「……ふーん、ひなのちゃんもブラデビューしたんだね」
「はずかし」
叶歩は興味しんしんそうに陽菜乃の着替えを見ている。……先日のお泊りを乗り越えて、叶歩は当初よりも少しフレンドリーになった気がする。障壁が一枚減ったみたいだ。
対照的に、陽菜乃は叶歩から目をそらして着替える。……やっぱりどうしても、遠慮してしまうのだ。
陽菜乃は完全に叶歩を見ないようにして、タイムアタックでもするかのようにささっと着替える。体操服は赤いジャージだ。男子の時からデザインがまったく変わっていない安心設計。
体操服が変わった点を敢えて挙げるなら、男の時に比べて汗臭さが消え、ほんのり爽やかな香りがする。こういう変化なら歓迎だ。
ひとまず、陽菜乃は叶歩を全く見ずに着替えを終えることができた。……逆に、叶歩に見られはしたが。
***
ホームルームを終えて、体育館に集合する。相変わらず男子たちはきまずい雰囲気を漂わせている。陽菜乃たちはトイレに避難したが……彼らが着替えているとき、どんな空気が流れていたのだろうか。
やがて、教師の呼びかけで授業が開始する。ずんぐりとした体形で、狐のような、細くて鋭い目をしている。ミディアムショートの髪をワックスで固めた、若い男性教師だ。
しかし、この体育教師にはむかついた。
先週までは命令口調で厳しい態度をとっていたはずなのに、今はすっかり骨の抜けた声で『体力テストめんどくさいけどがんばろうね~』なんて言っているのだ。……気味が悪い。
別に、陽菜乃は相手によって態度を変える人間が嫌いなわけではない。むしろそれは、人として普通のことだ、とも思っている。
しかし、生徒をできる限り平等に扱うべき教師が、教え子の性別が変わっただけでここまで態度を変えていることに問題がある。正直、こういう人間とあまり関わりたくないし、叶歩を近づけたくない。
これは、女性として過ごす中で生まれた防衛本能が生みだした感情だろうか。
とはいえ、直接文句を言うようなことでもない。
だがやっぱり気に食わなかったので、陽菜乃は精一杯の抵抗の意思として、体育座りをして話を聞いている最中、ずっとこの男性教師を睨みつけていた。……結局教師は、こちらには見向きもしなかったが。
「今日はシャトルランをやるぞ~」
教師は皆の前に立つと、柔らかな声を作ってそう言った。
……シャトルランか。少しずつ早くなっていく音楽にあわせて、20mの直線を往復する持久走だ。音楽が鳴り終わるまでに20mを走りきらなければ脱落となる。そうやって往復回数を競う、いわば忍耐レース。
陽菜乃は持久力には自信がある。男の時にやった持久走では、クラス内でも上位を争うほどの実力だった。今は女になってしまったから少々記録が落ちるかもしれないが、そのハンデはみんな同じ。
──せっかくやるのだから、上位を目指して競おう。
こういった競技で活躍すると、叶歩はいつも『すごいね』と褒めてくれるのだ。それが嬉しかったし、体育のモチベーションにもなっていた。だから、陽菜乃はちょっとだけ張り切っていた。
(叶歩、見てろよ。かっこいいところ見せてやるからな)
そう思いながら、陽菜乃は靴紐を固く結んだ。
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