05 距離感、模索中。
「……あの、ひなのちゃん」
叶歩は、右手首を掴みながらもじもじと声を震わせる。やはり、どうしても意識してしまうのだ。
かつての頼れる男友達が、華奢ですぐに折れてしまいそうな女の子になっているのだから、いくら無邪気で人懐っこい叶歩だとしても、最低30センチメートルの距離を無意識に保つようにしていた。
「叶歩、気にしなくていいんだ。お前が距離を取ってたのは薄々気付いてたけど、当然のことだと思う。でも、俺達の関係は女になっても変わらないよ。いままでも、そしてこれからもずっと友達だろ。前みたいに、俺に
「ひなのちゃんに
きっと叶歩は、自分のことが怖いのだろう、と陽菜乃は考えていた。だから、もうあまり近づきすぎないようにしようと思った。
……さっきスーパーで叶歩の手を触ってしまったが、嫌がっていないだろうか。陽菜乃はそのことを思い出すと、一抹の罪悪感を抱えた。
しかし、叶歩は別に、陽菜乃が怖いというわけではなかったのだ。
陽菜乃がそうしているのと同じように、いきなり触ってびっくりされないだろうか、と遠慮しているだけなのだ。
……だが、叶歩はなんだか、それを面と向かって伝えるのが面映ゆかった。
「……そっそうだね!ちょっと怖いや!でも、すぐ慣れるから!安心して!」
叶歩はつい意に反したことを言ってしまう。本当は陽菜乃を怖がる気持ちなんて、どこにもないのに。
その時、炊飯器のアラーム音がリビングに鳴り響いた。叶歩は「ご飯の用意するね」と言って、キッチンへと駆けだす。すれ違いざまに、陽菜乃に聞こえないほどの声で「ぼく、なんてこと言っちゃったんだ……」という言葉を残して。
***
「それじゃ、たくさん食べてね!」
「いただきます」
「いただきまーす」
3人で食卓を囲むころには、叶歩はすっかり元気を取り戻した様子で、テーブルに料理を並べていた。
ミニトマトやしらすが散らしてある、彩の良いレタスのサラダ。
味噌と出汁が豊かに香る豚汁。
そして、白米。
叶歩の料理は細やかに工夫が行き届いていながらも、元男である陽菜乃の心を掴むような、ガッツリとした献立だった。
そして、味のほうも完璧だった。
陽菜乃は、まずはじめに豚汁に手を伸ばした。奥から箸でかき混ぜると、色とりどりの実が汁の中を舞う。野菜の甘み、そして豚の旨みが凝縮されて、それでいて塩味も感じられる、元男の叶歩が好みそうな、ご飯に合う味付けだった。
レタスのサラダは、和風のドレッシングと和えてあり、散らしてあるシラスと海苔の風味、そして食感が楽しい。
そしてヒレカツの仕上がりは完璧。カラリと揚がった衣はザクザクと歯ごたえがあり、ソースとよく絡んだ豚肉はとても美味で、ご飯がすすんだ。
「叶歩、すごくおいしいぞ」
「わぁ嬉しい!どんどん食べてね!」
陽菜乃は、箸が止まらなくなる。絶対ご飯をおかわりしよう、と考えるほどに美味しかった。しかし、一杯目の米を食べきった段階で、彼女の胃は既に腹八分といった具合。とてもおかわりできる余裕はなかった。
(あー……女子になったから胃の容量が小さくなってるのか。男の時は茶碗3杯、余裕だったんだけどな……)
陽菜乃は性差を実感し、少し渋い顔をしながら箸を進める。ご飯をおかわりする前提でカツを残していたのだが、単体でもおいしい。陽菜乃は皿に残ったカツに黙々とがっついた。
「あーおいしかった。叶歩、ほんとにすごいな」
「えへへ」
ソファに座りながら、叶歩と陽菜乃は脱力している。陽菜乃はすっかり叶歩の料理の虜になってしまい、褒めちぎっている。
「おふたりさーん、お風呂沸かしたから、どちらか入っちゃいなさいな」
ふたりでリラックスしていると、美咲がリビングのドアを開けて入ってきた。
「あ、叶歩、お風呂どうする?」
「ボク的には、一緒に入ってもいいけどなぁ~」
「え?本気か……」
「もぅ、冗談に決まってるじゃん!ひなのちゃん、先入っていいよ」
叶歩の変なからかいに引っ掛かり、陽菜乃は「ばか」と吐き捨て、すっかりと顔を紅潮させて風呂場に向かった。
叶歩は叶歩で、陽菜乃に対して30センチの距離を作っているのだから、少し考えれば一緒に風呂、などというのは冗談だと分かるのだが……昔は一緒に入浴したこともあったので、一瞬本気かと疑ってしまった。それにしても、随分とけしからん冗談だ。なんであんな冗談を言ったのだろうか。
そんなことを考えながら、陽菜乃は洗面所で服を脱いでいく。……しかし、精神が男子校の中学生である陽菜乃にとって、風呂場の鏡は刺激が強すぎる。
もともと男時代から硬派な性格で、あまり性的なことに興味があるほうではなかったのだが……いざ、こんなに身近に裸体を見ることになると、どうしてもそういう感情は沸きあがってしまうし、そんな自分に対してなぜか罪悪感が生まれてしまう。風呂場で誰かに見られているというわけでもないのに、鏡から目をそらす。
陽菜乃自身、全く女性の事に興味がないわけでもない。恋愛対象は女性だし、いつかは交際もしたいと考えていた。しかし、こんな形で女性の裸体を見るのは本意ではない。ましてや、自分の体に対して一瞬でも興奮をしてしまうのが、気持ち悪いのだ。溜息をこぼしながら、鏡に背を向けてシャワーの蛇口をひねった。
***
「ひなのちゃん、ボクの部屋においでよ」
入浴後、陽菜乃がドライヤーで頭を乾かしていると、叶歩はその隣にぺたりと座ってきた。
「おっけー。叶歩も早く風呂入って遊ぼうぜ。」
「うん。それでは、ほかって参ります」
ほかる、というのは風呂に入る、という意味のネットスラングらしい。陽菜乃はそういった言葉にあまり詳しくないが、叶歩とのチャットを日常的にしているので、叶歩の使うものは覚えている。
叶歩が風呂に入っている間、陽菜乃は叶歩の部屋で待つことにした。叶歩の部屋にも陽菜乃の家と同様に、謎の性転換現象の副作用が起こっていた。
持ち物がすべて、女の子として存在してきた世界のものに変わってしまっているのだ。かつて黒かったランドセルはラベンダー色になっているし、おもちゃ箱には人形や、メルヘンなキャラクターのポーチなどが仕舞われている。
しばらく待っていると、湯気を帯びた叶歩が入ってきた。
「ひなのちゃん、ただいま~」
「ずいぶん早風呂だな」
カラスの行水、という言葉がぴったりなほどに短い入浴だった。なんでも、陽菜乃と遊びたくてうずうずしていたから、らしい。そんなふうに言われてしまうと、陽菜乃はなんだか照れくさくなる。
その後、美咲さんも誘って三人でテレビゲームを楽しむことにした。パーティ用のすごろくゲームで、いろいろなマスに止まりながら所持金を増やし、最終的に総資産が一番多い人が勝つ、というゲームだ。
「そうだ!最下位の人は、罰ゲームとして一位の人の命令を一つ聞く、ってことでどう?」
「な、なんだよそれー」
「あはは。まあいいんじゃない?」
叶歩の提案した罰ゲームに、陽菜乃は面食らってしまう。もし負けたら何をさせられるのだろうか……
このゲームは、妨害カードを使用することでお互いの動きを牽制することができるのだが、みんなで楽しく遊ぶためには、妨害カードを使いすぎないほうがよい。あまり他人の邪魔をしすぎても、険悪な空気になってしまうからだ。
……しかし。罰ゲームがあるとなれば、話は別。
「おい叶穂、なんか俺にばっかり妨害してこないか?」
「ひなのちゃんの反応が面白いのが悪いよー」
ゲーム内で陽菜乃が好調になると、叶歩はすぐに妨害カードを使う。叶歩は、罰ゲームを受ける陽菜乃を見たいのだ。
妨害を受けるたびに陽菜乃は「きゃっ」とか「やっ」なんて声を、無意識に漏らしてしまう。まだ喋り方に男らしさが残っている陽菜乃だが、妨害を喰らった時はまるで本当の女の子みたいに鳴くので、叶歩はついついそれを見るのを楽しんでしまうのだ。
(このままじゃ、俺が最下位……)
勝負も終盤に差し掛かった頃。叶歩が一位で、美咲が二位。要するに陽菜乃は、このままだと罰ゲームを執行されてしまう。……ピンチに陥った陽菜乃は、最後の賭けに出る。
……宝くじマス。そこに止まれば、低確率で大金を獲得することができる。堅実なプレイを目指すならあまり止まらないマスだが、終盤でピンチな時──そう、丁度今のような状況で有効なプレイだ。陽菜乃はそのマスに止まり、天に拝んだ。
「当たれ、当たれ…………よし!二等、当たりだ!これで罰ゲームは回避──」
「はいざんねん!所持金吸い取りカード!」
「ひゃんっ!?」
陽菜乃の最後の賭けはむなしく叶歩の妨害に潰されてしまい、陽菜乃は情けない声をあげる。結局、最終結果は叶歩が優勝、陽菜乃が最下位に終わった。
「わーいわーい勝った勝ったー」
そう言って、叶歩は小躍りをしている。負けてしまったことは悔しいが、自分の負けがこの子犬のような友人の無邪気さに還元されているならいいか、と陽菜乃は微笑ましく叶歩のことを見ている。
「ひなのちゃん。ボクが勝ったから、命令を聞いてもらうよ」
「……あーはい。何をすればいいんだ?」
(……ぶっ飛んだことを言われなきゃいいが)
陽菜乃は冷や汗を掻きながら、叶歩の口からどんな命令が下されるのか、もじもじと待っていた。やがて叶歩はにやにやとした顔で、高らかに『命令』を宣言してみせた。
「ひなのちゃん、かわいいお洋服を着なさい!」
「……ほえ?」
そう言って陽菜乃に指を差す叶歩の顔には、いたずらっぽい笑みが浮かんでいた。
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