03 はじめての一人外出(モード:オンナノコ)


 悠馬が陽菜乃ひなのになってから次の日。その日は休日で、一日中予定がなかった。陽菜乃はせっかく暇なんだし漫画でも読もう、と考えて、本屋に向かうことを決めた。謎の性転換現象の副作用で、部屋の本棚の中身は彼女の好みではない少女向けの漫画ばかりに変わってしまったのだ。


(しっかし……外を出るにもこの姿か……)


 鏡の前で、陽菜乃はたじろいでいた。そこに映るのは、青い瞳の少女。肌艶は良く、鼻筋も整っている。それは、誰もが『美少女』だと評価するほどの顔立ちの良さだった。彼女自身もそのことは自覚していた。しかし、昨日女の子になりたての陽菜乃は、どのような服を着ればいいのか、よくわからなかったのだ。


 あの不思議な光を浴びてから、クローゼットの中身も書き換わってしまった。男物の服は消え、すべてレディースに入れ替わっている。別に男の時もファッションに頓着があったわけではないのだが、女性として最低限の身だしなみは整えたくなるものだ。

 しかし、女の子一日目の陽菜乃には、かわいい服を着る勇気はなかった。……だって恥ずかしいし。だから、できるだけ地味めで無難な服を選ぼうと吟味していたのだ。


(パーカーなら恥ずかしくないよな。…………スカートはまだ遠慮ってことで)

 陽菜乃はそんなことを考えながら、深い緑色のパーカーに、カーキ色のカーゴパンツを合わせてみる。適当に選んだつもりなのだが、それでもサマになってしまうほどの自分の素材の良さを自覚し、陽菜乃はほんのりと顔を赤くして、ぽりぽりと頭を掻いた。

 ハンドバッグを提げてリビングに向かった。ソファに座りながらテレビの天気予報を観ていた母が、振り返って陽菜乃のほうを見る。


「ひなちゃんおでかけ?せっかくかわいい顔なんだから、もっとかわいい服着ればいいのに」

「……うるさい」


 あら反抗期かしら、と母が呟いているのを背に、陽菜乃は玄関へと向かった。鏡を見ると、顔が赤くなっていた。…………男として過ごしてきた彼女にとって、『かわいい』という言葉は言われ慣れていないのだ。



 外に出ると、やはり周囲の目を気にしてしまう。

 住宅街を歩いていると、通りすがる人の目線がすべて、自分に向かっているように感じるのだ。

 実際にはそんなこともないのだろうが、慣れない姿でいることもあって、やはりどうしても緊張してしまう。陽菜乃は、さっさと買い物を終わらせてしまおうと思った。


 駅前は、住宅街よりもさらに人通りが多い。歩いているだけで、気が動転してしまいそうになるほどだ。雑踏を乗り越えた陽菜乃は本屋に入ると、すぐにお目当ての漫画雑誌を掴み、ささっとレジで精算することにした。


「お買い上げ、ありがとうございまーす……」

 店員の挨拶を聞き流しながら、陽菜乃は本屋を後にした。本屋の前で鞄の中身を整えていると、目の前に、見たことのある人影が通った。栗色のショートヘアをなびかせるその後ろ姿は、どこか安心感のある雰囲気を醸し出していた。


「……ん。あれはハル……今は、叶歩かほか」

 陽菜乃は叶歩の背中を追いかけて早歩きをする。そして彼女に追いつくと、陽菜乃は肩をぽんと叩いた。


「……叶歩、よっ」

「あっゆーま……じゃなくて、ひなのちゃん!こんな所でなにしてるの?」

「……ん。ちょっと漫画買いに来ただけ。叶歩は?」

「今からスーパーに買い出し行くとこ。せっかくだし、ひなのちゃんもついてくる?」

「うん。いいけど……そのちゃん付け……どうにかならないか」

「えっ?今は女の子なんだし、問題ないでしょ?ひなのちゃん♪」


 叶歩はそう言って、屈託のない笑顔を見せてくる。男友達に『ちゃん』をつけられるのは少し恥ずかしいが、こんなイノセントな顔を見せられてしまっては、反論もできない。


 叶歩の両親は多忙なため、帰ってくることはあまりないらしい。普段はお手伝いさんと姉との三人で暮しているそうだが、今日はお手伝いさんが休みの日なので、こうやって叶歩自ら買い出しに行っているという具合だ。陽菜乃はそんな叶歩を見て、こういうところはしっかりしてるな、と感心した。


 叶歩は、ハイネックのボーダーニットに、フード付きのアウターと、ベージュを基調としたコーデを着ていた。ニットをインした腰元からは、薄緑のボタン付きミニスカートがふわりと揺れている。

 陽菜乃も整った顔をしているが、叶歩もそれに負けない美貌を持っていた。それに、彼女は陽菜乃と違って、服をいい加減に選んでいない。


 叶歩は男時代の波留だったころから、おしゃれには気を遣うタイプだった。だからこそ、こうやって女子のファッションにも適応できているのだろう。そのアクティブでどこか華やかな雰囲気のある佇まいは、あっという間に陽菜乃の脳内を『かわいい』という感情で支配してしまった。


(……いやダメダメ!こいつはハルなんだから!)

 かつての男友達に対して『かわいい』と思ってしまった自分を知覚すると、陽菜乃は心の中で首を振った。そう、叶歩は本当は女の子ではない。その正体は男友達の波留だ。

 確かに今の彼女は美しいが、それは本当の姿ではないのだ。陽菜乃は男時代から波留の人間性を気に入ってるからこそ、お互いを『親友』という立ち位置に置いている。

 そう、親友だ。だから、波留が女の子になったからといって、不埒な感情を抱いてはいけないし、叶歩の女性らしい部分に惹かれるのは、いけない気がした。


 だって、ずっと親友でいたいから。


 叶歩のことを『女の子』として見た時点で、男子の友情で築き上げた『親友』という関係は崩れ去ってしまうのではないか、陽菜乃はそんな不安を抱いていたのだ。




「ひなのちゃん、スーパー着いたよ」

 叶歩はそう言って、指を差した。着いたのは、駅前から少し離れた場所の道路沿いにあるスーパーマーケットだ。休日なので、家族連れで賑わっていた。叶歩はカートを取り出し、カゴを載せた。


「で、何買うんだ?」

「えっとね、今日つくる夜ご飯の材料を買うんだけど……なに作るか、まだ決めてないんだ」

「そうなのか。叶歩って料理とかできるんだな」

「ふふん。意外となんでもできちゃうんだよ?そうだ!もし暇ならひなのちゃんも食べに来てよ」

「えっ、俺が?いいのか?」

「うん。ボクの腕前も見てほしいし」


 突然の提案に驚いたが、叶歩の料理も気になったし、なにより彼女と一緒に居る時間は好きなので、母に電話をかけて許可を取る事にした。カートを押す叶歩の横で、電話を鳴らしながら歩いていた。


「母さんの許可とれたよ。誘ってくれてありがとな。料理も大変になるだろ?」

「ううん。材料が一人分増えるだけだし、むしろ楽だよ。少人数分の料理は冷凍庫の管理とか大変だからね」

 叶歩はそう言って、野菜コーナーに入る。ずらりと並べられた色とりどりの生鮮食品を、二人で物色していた。


「せっかくだし、今日は張り切って作っちゃうぞぉ」

「そっか。楽しみだな」

 叶歩は『なにつっくろ~』とちいさく歌って、小躍りのようなステップで揺れながら、カートを引きずりはじめた。無邪気にはしゃいでいる様子は微笑ましいが、周囲が見えていない様子だったので、陽菜乃は叶歩がショッピングカートのハンドルを握る手の上から、自分の手を重ねた。


「カート、俺が持つよ」

 叶歩の手はもっちりと柔らかくて、ホッカイロのように温かかった。陽菜乃が手を重ねていると叶歩はしばらく停止してから、我に返ると「あっごめん、はしゃぎすぎたね」と言って、ハンドルから手を放し、一歩後ろに下がった。彼女は口許に手を添えて、ほんのりと顔を赤くしていた。


「女子になっても、子供っぽいとこは変わらないなぁ」

「……もう。反省してますー」

 叶歩はそう言って、少し悔しそうな顔をして腕を組む。どうやら『子供っぽい』と言われたことが不服みたいだが……こういうところが子供っぽいのだ。陽菜乃は伏目になってくすりと笑った。


「ねぇ、何食べたい?」

 叶歩が、野菜コーナーを俯瞰しながら言った。陽菜乃は、母に同様の質問をされた時は「なんでもいいよ」と返すが、叶歩に対してはきちんと受け答えしようと思った。こういう時は、選択肢を絞るようなリクエストをするのがいいと聞いたことがある。そう思って、陽菜乃は「豚肉が食べたい気分かな」と言ってみせた。


「豚肉かぁ~。そうだ!あれにしよっと」

 叶歩はそう言うと、てきぱきと売り場を駆け回り、材料をカゴに投入してゆく。


「何つくるんだ?」

「それは調理してからのお楽しみってことで」

「そっか。楽しみにしとくよ」


 叶歩はにこりとした笑みを浮かべてみせた。一通り買い物が済んだ後陽菜乃はカートを渡し、叶歩はレジへ向かう。その間、陽菜乃はレジ回りの売り場をぼんやりとながめていた。


「じゃ、帰ろっか」

「叶歩の家に行くのも、久しぶりだなぁ」

 と言っても、1年ぶりくらいか。彼女の家は広く、お手伝いさんがいるからきっちりとして居心地の良い場所だ。彼女の家の中を思い浮かべながら、陽菜乃はサッカー台で食材の袋詰めを手伝った。2リットルのお茶や牛乳パックなんかも入っているので、結構な重さだ。


「あれ……持ち上がらない……」

「あー……女子になったから、力が弱くなってるんだな。俺も半分持つよ」

 陽菜乃はそう言って、ふたつあるレジ袋のうち片方に手を掛けた。持ち上げてみて実感するが、案の定力が弱くなっている。男の時はこれくらいの荷物、なんてことなかったのだが。


「……結構、重いねぇ。」

 信号待ちの間、叶歩は汗をかいて苦笑いをしていた。陽菜乃にとっても、荷物が重いのは共感できる。陽菜乃は疲れている叶歩を労いたくなったので、ポーチからキャンディの袋を取り出した。


「えっ、それボクの好きなやつ。どうしたの?」

「さっき買っといた。タダでお邪魔するのもアレだし」


 陽菜乃はレジ回りに叶歩の好きな飴があったのを確認して、買っておいたのだ。彼女は飴の包みをはがし、「ほら、口開けて」と言って、叶歩の口にあてがう。それは叶歩の柔らかそうな唇にタッチし、ゆっくりと沈み込んだ。

「ん……」

 叶歩は、なぜか顔を赤くしてキャンディを舐めている。また子供扱いされたのが恥ずかしくなったのだろうか、と陽菜乃は思った。そんな叶歩を横目に、陽菜乃もキャンディをほおばる。


 硬いキャンディーだった。口の中で転がすと、唾液に甘味が、じんわりと滲んでいく。焦げた砂糖の匂いがするクリーミーな味わいを感じながら、唾を飲みこんだ。


 キャンディは、噛まずに食べるのが好きだ。口の中で少しずつ溶かして、甘さを感じる。長い間、ずっと残り続けるような、そんな甘美な体験。大事に転がした飴玉が少しずつ小さくなっていき、全部溶けてしまう。そんな儚い時間が好きなのだ。


 そんなことを思って待っていると、信号は青に切りかわり、カッコー、カッコーと電子音が鳴り響いた。


「……肩、使っていいぞ」

「いいの」

 陽菜乃は叶歩に向かって、肩を少し下げるように傾けた。叶歩はその上に手を重ね、自分の体重を少しだけ、陽菜乃に預ける。


 お互いの体の温かさを共有しあい、二人は風の吹く道を歩き始めた。

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