第2話「マリア」
翌日は東京に出張するため、キングは昼前にオフィスを出た。11月の東京の街は、どんよりとした雲に覆われていた。道往く人々の姿は普段と変わりがないのに、低く垂れこめた雲が、今の彼の気分を反映しているようだわ。まるで、世の中から自分だけが取り残されたような顔をして、足元を見つめながら、とぼとぼと歩いているの。
彼は、昨日のことはできるだけ考えないようにしているみたい。わたしにはよくわかるの。そうしないと、不安がどんどん膨らんでしまうから。
でも、そうしようと思えば思うほど、一つの疑問に意識が集中してしまうのね。それは、あと何年生きられるかということ。がん患者さんのだれもが抱く疑問ね。
彼は昨日のお医者さんの話から、がんであることは疑いようがないと覚悟はしているけど、問題は転移があるかどうかなの。どこにどれだけ転移しているかで、これから先の余命が決まってしまうから。
それにしても、なぜ自分ががんになったのか不思議に思っているわ。がんの告知を受けた患者さんはみんなそうだけど、健康には人一倍気をつけていた彼は余計にそう思うみたい。だって、去年まで、健康診断はまったく問題がなかったんですもの。
最近は血圧が少し高めだったから、それには気をつけていたわ。毎晩、寝る前に、酢を水で薄めて飲んだり、毎朝、グレープフルーツを食べたり、野菜サラダには必ず玉ねぎを細かく刻んで入れたりしていたのよ。
バランスの取れた栄養、十分な睡眠、適度な運動という健康維持のための三原則を、彼ほど忠実に実行している人もめずらしいと思う。
運動は毎日欠かさずにやっているわ。朝のラジオ体操を日課にしてから、もう5年になるらしい。
自宅のマンションでは、エレベーターには乗らずに、11階まで階段を使っているの。
通勤では電車にもバスにも乗らず、毎日、往復80分も歩いているのよ。 それだけじゃないわ。週1回のテニススクールに通い始めてから、かれこれ20年になるというから驚きよね。
お酒は、毎晩、350ミリリットルの缶ビールを1本。しかも、糖質ゼロ、プリン体ゼロの発泡酒。
最近はお酒が過ぎると、必ず二日酔いになるみたい。以前は、昼までには回復していたのに、この頃は、夕方になっても頭痛が残ると、さかんにこぼしているわ。飲み過ぎないように気をつけているのに、酒好きのお友だちと付き合うのも大変よね。
タバコは昔から吸わないわ。学生時代にはいたずらで吸ったこともあるようだけど、すぐにむせてしまい、こんなものをどうして吸うのかと不思議に思ったそうよ。
他人が吸っているタバコの煙には、今でもずいぶん迷惑しているようだわ。受動喫煙っていうのよね。
昔は、オフィスは禁煙じゃなかったから、ひどいときは煙で10メートル先も見えなかったというの。今では考えられないことだわ。あまりのひどさにたまりかねて、彼は真冬にオフィスの窓を全開したことがあるらしいの。「寒い!」とみんなから一斉に文句を言われたけど、空気が完全に入れ替わるまで、絶対に譲らなかったそうよ。
煙草を吸わない自分がなぜ肺がんになるのかって、ほんとうに悔しそう。
でも彼は、それも仕方のないこととして受け入れようとしているみたい。人には持って生まれた寿命があるから、いくら医学が発達しても、生物としての限界を超えて生きることはできないと考えているの。
人間にできることは、生まれた時から定められた時間を、余すことなく生きることだけ。そのために、普段から健康に気をつけたり、事故や災難に遭わないように用心したりすることは大事だけど、それでも病気や災難に遭ってしまったら、それは運命として受け入れるしかないって、彼は言うのよ。
命あるものには、いつか必ず死が訪れる。生と死は一体のもの。生があるからこそ死があり、死があるからこそ生がある。永遠の生は、人間の思考の産物でしかありえないって、彼は言うの。わたしには難しくて、よくわからないけど。
そう考えると、死は早いか遅いかだけの違いね。だから彼は、確定診断でがんと宣告されても、それを運命として受け入れようと思っているの。持って生まれた寿命いっぱいまで、今までどおり生きる努力を続けていこうと覚悟を決めているの。
そんな風に考えられるなんて、すごいな。
彼は夕方、帰宅してから、入院中のお母さまを見舞いに行ったわ。お母さまは、
「今日は痛くないの」
と言って、やさしく微笑んでいらしたわ。とても86歳とは思えないほど若々しくて、素敵なお母さまなの。まるでマリアさまのようだわ。
お母さまの体の中に、わたしのお仲間がいるなんて、とても信じられない。
でも、やっぱりいるのよね。最近は痛みがひどい時は、定時のお薬のほかに、オキノーム散という医療用の麻薬も飲んでいるというの。痛み止めも、だんだん強いものに変わっているようだわ。このまま痛みがひどくなると、最後はモルヒネを使わないといけないみたい。
わたしのお仲間さん、お願いだから、あんまり彼のマリアさまをいじめないでね。
お母さまと同じ肺がんになったかもしれないと思うと、彼はいたたまれない気持ちになるみたい。お母さまのお顔を見るのがとても辛そうで、わたしまで悲しくなってしまう。
「外は寒いから、風邪をひかないようにね。体には気をつけなさいよ」
病気のお母さまからそう言われて、彼は返答に困っていたわ。お母さまにはまだ、健康診断の話はしていないの。そのうち見舞いにも来られなくなるかもしれないと思うと、胸が詰まってしまうのね。
まだ死ねない、自分が先に死ぬわけにはいかないと、必死に自分に言い聞かせているの。
お母さまに気づかれないように、そっと涙を拭っている彼を見ていると、わたしは今すぐにでも消えてしまいたい気分になるの。
キング、ほんとうにごめんなさい。
健康診断から二日目。彼の気分はだいぶ落ち着いたみたい。今朝も歩いて出勤よ。今年はいつまでも暑くて大変だったけど、季節の移り変わりは速いわね。大通公園では、大きなクスノキの緑の並木に、赤や黄色の紅葉が鮮やかな彩を添えているわ。秋の柔らかな日差しが気持ちいい。
それなのに彼ったら、来年もこの紅葉を見られるかな、なんて考えているの。歩いているうちに、だんだん顔が暗くなっていくのよ。
キングったら、もう! でも、仕方ないわね。
今日は、東京で会議があって、彼一人を残して、社員はみんな出かけてしまったから、もともと静かなオフィスは、不気味なほど静まり返っているわ。電話もかかってこないし、例によって彼は暇そうね。何もやることがないのかしら。
わたしも働くなら、こういう会社がいいな。でも、いくらなんでもこれじゃ、給料泥棒って言われちゃうわね。
だ けど、前の会社では、退職するまでものすごく忙しかったらしいから、このくらいでちょうどいいのかな。人生には緩急があってもいいのよね。
昼間は暇なのに、夜は忙しいのね。昔、「5時から男」なんて言葉が流行ったようだけど、彼も夕方から飲み会だって。よく飲む気になれるわね。わたしだったら断ってしまうところだけど。ほんとうは、彼もそうしたかったらしいけど、これまで何度も調整して、ようやくこの日と決まったようだから、さすがに彼も断れなかったみたい。
今日の飲み会は、前の会社の部下が声をかけてくれたらしいわ。たいていは退職した途端に、現役の社員とは飲む機会がなくなるらしいから、こうして今でも声をかけてくれるのは、やっぱりうれしいでしょうね。
彼はその男性とは東日本大震災が起こった年に、一緒に被災者支援の仕事をしていたらしいわ。さぞ大変だったでしょうね。
その男性は、前々から人の役に立てる仕事をしたいと希望していたから、被災者支援の仕事には人一倍意欲を燃やしていたらしいの。
でも、張り切り過ぎて心のバランスを崩してしまったのね。長い間、休職を余儀なくされたらしいわ。彼は上司として、そんな部下をきちんと見てあげられなかったことを、ずっと後悔していたの。
ところが、今日は驚いたことに、その男性が婚約者を連れてきたのよ。その女性はもの静かだけど、パートナーの男性をしっかりサポートするタイプね。その男性にもマリアさまのような素敵な女性が現れたんだわ。よかったね。
すっかり元気になった元の部下を見て、彼はようやく安心したみたい。
若いカップルの二人は、微笑ましくていいわね。わたしにも早く、素敵なパートナーが現れないかな。
え? キングがいるじゃないかって。
だめよ! 彼には奥さまがいらっしゃるもの。悲しいけど、彼にとってわたしは、迷惑なだけの存在なのはよくわかっているわ。
この居酒屋はサラリーマン相手にしては、料理がおいしそうね。活け造りのお刺身が、テーブルの真ん中にどんと置かれているわ。彼は安心したせいか、さっきからマグロやタイやイカを、せっせと口に運んでいるの。もう二度と食べられなくなる、とでも思っているのかしら。
せっかくのご馳走だけど、やっぱり、タンパク質はわたしの口には合わないわ。
あれ、どうしたのかしら。彼の目が潤んでいる。なんだか、すごく人恋しそう。きっと、この先、彼らと会えなくなるかもしれない、なんて考えているんだわ。
キングったら、もう!
CANCER QUEEN @Rakukasei
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