第二話 阿弥陀如来の鬼

注意書き



・この作品はBL作品になりますが、まだBL要素は少ないです。


・この先暴力表現が入ってくる場合もございます。


・実在する建物、歴史とはなんの関係もございません。


・書いてる人がかなりのオタクなので何かに似てるなんて箇所が多々あるかもしれませんが温かい目で見ていただけたらと思います。


・少しでも楽しんでいただけたら幸いです。




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噂話


‘____ねぇねぇ聞いたかい? あの噂’


‘どんな噂?’


‘鬼と人が共に生きている街の話だよ’


‘そんなの存在するのかい?’


‘それがねぇ、あの鬼も居るらしいんだよ’


‘あの鬼って阿弥陀如来の鬼かい?’


‘そうさ’


‘それはおかしな話だ。だってあの鬼はどちらにもつかないんだろう?’


‘そうなんだよ。だから噂が蔓延してるのさ’


‘そもそも鬼と人が共に生きるなんて無理だよ’


‘そうだよねぇ’


‘もうずっと大昔から分かり合えたことなんてないんだから’



噂は尾を引き、大きくなる。

今日も囁かれる最悪の悪鬼の阿弥陀如来の鬼の噂。
















 日が沈み、本当の顔を出し始めた遊楽街。まるでお祭りの様な賑わいと、宝石箱のような輝き。見ている者の心を踊らせる街。

「ここじゃないかい?」

 一つの酒屋の前で薫が立ち止まったのに、4人も立ち止まり、店を見上げる。

 〈小鳥〉と看板が建てられた決して大きくはない酒場だった。薫はなんの迷いもなしにその扉を開ける。お店の名前の通り、小鳥の鳴き声の様な鈴の音が店内に響いた。


「いらっしゃい」


 三十代くらいの女の人が愛想良くそう言った。店内に広がる———確かな鬼の気配。その気配を察知しながら5人はいつでも臨戦体制を取れる覚悟をした。決して気は抜かぬ様に。

「こんばんは。私たち、この街の取材で来たんですよ。いくつか聞きたいことがあってね」

 篠芽がそう言うと、女の人は愛想の良さそうな笑顔を崩した。細められていた目は鋭く開き、その目には敵意が籠っている。

「吐くならもっとマシな嘘を吐きなよ。つき通す気もない嘘を言って、バカにしてんのかい」

 そう言った声は冷ややかだった。

 そして次に笑ったのは、薫だった。

「おや、どうして分かったんです?」


「ここでお酒を作ってるとね鼻が良くなるんだよ。アンタらからは煙草の匂いも、酒の匂いもしない。オマケに女の匂いもね。するのは鉄の匂いばかりだ」


 遊楽街で取材をしていたと言うならもう何軒かの店には入っていないとおかしい。だってこの店は遊楽街の丁度真ん中に位置するのだから。わざわざ取材に来て、この店に辿り着くまで一つの店にも入っていないと言うのは無理がある。

 鉄の匂い。血、拳銃ピストル、刀。

 それらの匂いが色濃く漂っている。

「利き酒ならぬ、利き職業ですか。すごい特技ですね」

 感心するように薫は言った。

「それで? なんの用だい」

 気怠そうにそう言いながら彼女はグラスに氷を入れてお酒を作り出した。


「“阿弥陀如来の鬼”。聞いたことないとは言わせませんよ」


 確実に圧をかける様な、低くなる薫の声。

 その名前に彼女の手はピタリと止まった。

「あぁ。知ってるさ」

「教えていただけますね?」

 食い気味な篠芽の質問に彼女は首を横に振った。

「いいや。それは答えられないよ。例え殺されようが、話す気はないよ」

 とっとと帰れとでも言うよに手を振った。

「連れて行く? ボス」

 未知瑠の質問に薫は首を横に振った。

「この手のタイプはきっと死んでも口を割らないだろう」

 そう言って残念そうにしたのも束の間。すぐに薫はいつもの微笑みを浮かべた。

「どうしたんだ?」

 そんな薫の顔を一条は訝しげに見つめる。


「向こうから来てくれた」


 薫がそう言ったのと、あの〈小鳥〉の啼き声が再び店内に響いたのはほぼ同時だった。




「やあ、こんばんは。僕の友人を虐めないでもらおうか」




 そう言いながら入ってきたのはいかにも爽やかな少年という見た目をした、鬼だった。

 身長はそこそこと言ったところで、薫よりは小さいが、特段低いわけでもない。体付きも一見細く見えるがその肉体は鍛えられている。そして何より、薫達が今まで会った鬼と人間を合わせても、圧倒的に一番隙がなく、強い。

 強いだろうと言うことが分かっても、見た目とのギャップがありすぎて5人は目を見開いたまま、女性のところに歩いて行く少年を見つめていた。否、“阿弥陀如来の鬼”であろう少年を。


「ッ、来るなって言っただろう! どうして来ちまったんだい!」

 そう言ってさっきまで冷たい表情で薫達と口論していた女性は、全く違う慈愛を感じさせる様な表情で少年に駆け寄った。

「うん、ごめんね、マダム。僕やっぱりこのお店がなくなるようなことがあったら嫌だから」

 マダムと呼ばれた女性は悲しそうな、やるせない様な表情をして自分より少し身長の高い少年の頬に手を伸ばしてゆっくりと撫でる。

「どうしてそんなに優しいのかねぇ…」

 マダムの切なそうな声が響いた。

 鬼の少年は申し訳なさそうに微笑んだ。


「ねぇ、俺たちのこと忘れてませんか?」

「何度も言うけど、話す事はないよ。帰ってくれ」

 薫の言葉に本当に嫌そうにマダムは答えた。

「マダム、僕なら大丈夫だよ。彼らが全員でかかってこようが、僕には勝てない」

 強いからこそ相手の強さがわかる5人は鬼の少年の言葉をしっかりと理解していた。通常よりもコンディションが良くて120%の力を出せる日だったとしても、今の自分たちが、この鬼に勝つには5人の中の少なくても2人、おそらく3人の犠牲はないと勝てないだろう。それでも勝敗は五分五分どころか、全滅の方が可能性は圧倒的に高い。

「こちらとしても今から、じゃあ死闘をしましょう、は避けたいところですね」

 なんて事ないように薫は言った。


「ねぇねぇ、ところでさ、マダムさんは人間だよね? どうして鬼と仲良くできるの?」

 本当に不思議そうに未知瑠が聞いた。未知瑠の疑問はごもっともだった。実際、一条と篠芽も気になっていたし、薫も気になっているところだった。

 5人がマダムの言葉を待った。


「同じだからだよ」


 マダムは静かな声で答えた。

 店内のお客さんはここまでの流れを黙って聞いている。きっと本当にマダムと阿弥陀如来の鬼を信頼しているんだろう。この場に居る人も鬼も。まるで薫達の方がおかしい異常者のような目を向けられている気分だった。


「同じとは? まさか鬼と人が“同じ”だなんて、言いませんよね?」

 一条が訝しげに聞いた。その言葉には悪意が込められていた。一条は、否、討伐隊と言う組織に入っている誰もが、家族を、友人を、仲間を、戦友を、数え切れないほど鬼に殺された。だからこそ絶対に野放しにしてやるものかと、活気になるのだ。


「人も鬼も同じだよ。……憐れなくらいにね」


「何を言って…」

 マダムの言葉に一条は心底理解できないと言う目を向ける。そしてそれは篠芽と未知瑠と真も同じだった。

 理解が出来ない。今まで何千人、何万人の人間が鬼に殺されたと思っているのか、と。


「マダム」

 少年の凛とした声が響いた途端、ピリピリしていた空気は少しだけマシになった。その時初めて、5人は他のお客さん達からも殺気と敵意を向けられていたのに気がついた。

 でもたった一言、少年の声でそれが少しだが和らいだのだ。それは紛れもなく、この場にいる人と鬼の間にできている信頼だった。

「鬼のくせに人を庇うのか?」

「いいや、僕はどちらにもつかないと決めた」

「私たちはそれを知った上で、この子を信じているんだよ。お前さん達に理解しろとは言わないよ」

 同じ人だからって、なんでも理解し合えるわけじゃないからね。とマダムは5人から目を逸らした。

 例え鬼の少年が自分達の味方じゃないとしても、自分達はそれでも信じるというマダムの思いが伝わって来るようで一条と篠芽は目を逸らした。


 そしてまた鬼の少年とマダムは向かい合う。

「あのね、マダム…」

 言いにくそうに少年は重い口を開いた。

「分かってるよ。どうせ止めても行くんだろう」

 マダムは泣きそうな顔で、それでも強い女性らしく、微笑んでいた。

「うん。討伐隊の人達にバレたのは少しマズイんだ、それも有名な遊撃隊だ。それに、」

 続きを話そうとして、鬼の少年の顔が少し強張る。


「いいよ。言わなくていいよ。お前に何が見えてるかは分からないけどねぇ、言い難いなら言わなくていいんだよ」


 マダムの言葉に強張った表情は和らいでいた。

「うん。ごめんね、マダム」

 マダムは両手を少年の頬に伸ばして引き寄せた。額をピッタリとくっつけて、祈るように目を閉じた。


「お前に平穏と幸せが訪れるように願ってるよ。でも忘れないで、ここはお前の帰ってくる場所でもあるんだ。私たちはみんなずっと待ってるから」


 マダムがそう言って微笑めば、お客さん達も皆、家族を送り出すように頷いた。

 少年がマダムから少し距離を取れば、少年の横にはモヤが出現して、それが晴れると同時に2体の獣が現れた。獣と言うにはあまりに綺麗な生き物が。


「モ、ウ……もういいか?」

 黒い獣は少年のことを伺った。

「うん。待たせてごめんね」

「ほんとだよー! シロ」

 赤い獣は鬼の少年を『シロ』と呼ぶ。そして甘えるように頭を少年にすり寄せた。

「なんだい、お前達がこの子を守ってたのかい」

 マダムは初めて見る生き物にも怯える事はなかった。少年に懐いているのだから。


「そうだよ! ボク達シロのこと大好きだから!」


 その言葉を聞いてマダムは泣きそうだった。

 人でも鬼でもなくてもいいから、ただ純粋に少年に愛を注いでくれる何かがあればと思っていたから。少年の側に居てくれる存在が居てくれればいいと、心の底から思っていたから。

 でもきっとそれは鬼や人じゃダメだったのだ。どちらでもないこの子達がいたから、少年は今日までを生きてこられたのだと、マダムは一人納得した。


「そろそろ行けるか?」

「うん、行こうか。クロ、アカ」

 黒い獣の問いかけに少年はそう答えた。

 すると行手を阻むように5人が取り囲んだ。

「何の真似だ? ニンゲン」

 黒い獣がドスの効いた声で威嚇を露わにした。

「俺たちがこのまま行かせるとでも?」

「そうよ。そもそも肝心な事を何も聞けてないもの」

 薫と篠芽は武器を取り出し構えた。

 だけど少年は全く動じず、先ほどと何も変わらぬ態度で笑った。

「ああ。お前達は行かせるよ。お前達に仲間が死んででも僕を捕まえたいと思う気持ちはないだろう?」

 その言葉に5人は怯んだ。図星だった。

 5人は強すぎるが故に孤独だった。だからこの5人が一層特別な存在なのだ。誰か一人が欠けるなんて、考えるだけでも嫌だった。

「そもそも、シロに勝てるか以前に、今のキミ達はボクやクロにすら勝てないよ」

 赤い獣はそう言った。

 5人は悔しそうに顔を歪めていた。


「それじゃあね、マダム」


 名残惜しそうに。それでもしっかりと噛み締めながら、それだけ言い残すと黒と赤の獣と共に少年はその場から消えた。


「あぁ。気をつけて行ってくるんだよ」


 マダムのその言葉が届いていたかどうかは分からない。

 残されたのは5人の討伐隊組織遊撃隊の5人と、少年に確かな信頼を注いだ者たち。

 相容れない者達が残った。


「さて、本来ならあなた達を全員本部に連れ帰り、尋問で口を割らせなきゃいけません」

 薫は冷たく言った。

「でもできないんだろう? そんな可能性があるならあの子は去っていないだろうからね」

「そうですね、出来ません。ここにあの鬼が居たという証言を絶対に貴方達はしないでしょう。だから証拠もありませんし、ただ酒屋に居合わせた人や、その経営者を何の根拠もなしに尋問にはかけられない」

 薫は肩をすくめて、お手上げだと言うように話した。

 一条は悔しそうに顔を歪め、篠芽は何やら考えているように眉間に皺を寄せ、未知瑠と真もいつもより静かだった。

 5人皆が思っている。

 自分達は何やら見落としをしているんじゃないか、と。


「アンタ達にとってこの街ってどんな街だい」


 急に突拍子もなく、マダムは聞いた。

「桃源郷ですね。実際そう呼ばれていますし、そう思いますよ」

「言い換えれば理想郷。アンタ達はなんで討伐隊組織に入ったんだい? アンタ達の見たい理想の世界ってどんなのだい? 鬼が居ない世界? 鬼を奴隷のように下の存在にする世界?」

 マダムの言葉に答える言葉を5人は持っていなかった。

「その世界を作るとして、作る過程には何が積まれる? 作った先には何がある?」

 マダムが何が言いたいのか5人には分からない。

「要するに、何が言いたいんですか」

 苛立ちを含んだ声で一条は聞いた。


「何もない。そもそも作れやしない。人が殺されて人が憎しみを抱いたように、鬼が殺されて鬼が憎しみを抱いたのだって、失われた命の数だけあるんだ」


 他の客たちは黙ってマダムの話を聞きながら酒を飲んでいた。誰も喋りはしない。ただ皆が、何か遠い記憶の思い出に想いを馳せているようだった。

「そんなのは詭弁だ。鬼に家族や友人、大切な誰かを殺されたことがないから言えるんだッ」

 篠芽は強く言い放った。

 その言葉にもマダムは静かに首を振った。

「いいや。私の家族も恋人も皆殺されたよ。鬼と人に。そして私を助けてくれたのはあの子だったよ」

 薫達は目を見開いた。

 鬼が人を助けるなど、そんな事はあるのかと。鬼も人を殺すが、人も人を殺す。そんな当たり前に存在していた罪を見ない様にしたのは誰だったか。いつしか共通の敵がなければ、団結する心も在れなくなったのはどうしてだったか。


「知らない。そんなの。鬼は人を殺す」

 真の悔しそうな声だった。

「そうだね、でも人も人を殺すんだよ」

「そんなの、」

 5人には言い返せる言葉がもうなかった。彼女の家族や友人は鬼と人に殺されて、鬼であるあの少年が彼女を助けたのが事実。分かるのは、それだけだった。

「あの子ね、私を助けた時なんて言ったと思う?」

 マダムの声は悲しそうに震えていた。

「謝ったんだ。私の家族を救えなかった事、友人を救えなかった事、怪我を負わせてしまった事、自分の同胞である鬼が襲った事。あの子は全ての罪を背負った顔をして謝ったんだ」

 客の中には目に涙を溜めている人もいた。


「鬼? 悪魔? 違うよ。誰よりも優しい子だと思った。天使みたいな子だと思った。ここに居るみんなはね、人や鬼に家族や友人を殺されている人達も居る。それでも憎しみを堪えたのはね、赦したんじゃないよ。あの子を信じたんだ。自分が傷付くよりも他人が傷付く事を恐れているあの子が、何か大きなモノを背負っている優しいあの子が、これ以上苦しまないように、悲しまないようにって、あの子がきっと何かを変えてくれるだろうって、信じたんだよ」


 マダムの語る言葉には涙が出そうな程の愛が宿っている。


「ああ、そうさ。俺たちはみんなアイツを信じてる。本当の家族みたいに思ってんだ。そしてアイツの創り上げようとしている理想を見たいと思ったんだよ」

 カウンターに座っていた顔に傷跡のある男はそう言って笑った。

 他のお客さん達も頷いた。そこには確かな絆があった。5人はそれを見ながらも、やはりまだ理解に苦しんだ。


「お前さん達に分かれとは言わないけどね、どうかあの子をこれ以上苦しめないでやってくれないか。見ていられないんだよ、押しつぶされそうなあの子は」

 それでも少年は気丈に振る舞った。誰よりも強いからこそ、少年を守れる者は誰もいなかった。誰も、隣を歩いてあげることすら出来ない。同じものを背負ってやる事も出来ない。それがマダム達には歯痒くて、苦しかった。

 沢山助けられたのに、何もできない自分達の無力さを痛感した。

「約束は出来ません。なんて言っても彼は討伐対象の鬼です。大量虐殺の最悪の悪鬼です」

 薫は重い現実を突きつける。彼の心は御涙頂戴のお話なんかで揺らいだりしない。


「もう二度とこの店に来るんじゃないよ」

 その言葉はマダムなりの優しさだった。マダム達はあの子を苦しめる存在をどうやっても受け入れられない。あの子を信じて家族の様に思ったマダム達を5人は理解が出来ない。どうやっても相入れない。

 マイナスしか生まないなら、これ以上関わるべきではないから。

「我々もそうしたいところです」

 薫は暗に、また何か情報が入れば来る事になると言うのを伝えた。


「兄ちゃん達、この街の半分以上が敵に回る様な真似はするなよ」


 カウンターに座っていた男が言った。

 その言葉が指すのは、この街に居る半分以上の者たちがあの鬼を周知していると言う事。

「隠すのが上手い街ですね。では、失礼します」

 それだけを言い残して薫は出て行き、その後を追う様に4人も出て行った。

 〈小鳥〉の啼き声が悲しげに店に響いた。


「そりゃあ、隠すのが上手くもなるさ」


 マダムはそう呟いた。




 誰もあの子の苦しみを知らない。悲しみに触れられない。葛藤を背負えない。だったら覆い隠してしまいたくなる。悲しみと苦しみから。葛藤から。何より逃げても良いんだと、言ってやりたかった。でも言えなかった。それはあの子のこれまでの覚悟を全て無かったことにするのと同じだと思ったから。




「アンタはあの子を本当に気に入ってるね」

 マダムはやっと肩の力が抜けた様にカウンター横の椅子に腰を下ろして顔に傷のある男に言った。

「そりゃな。恩人だからな」

「度々その限度を超えてると思ってんだけど、アンタ、何考えてたんだい」

 マダムに聞かれて男は酒の入ったグラスを掴みながら無表情でマダムを見る。マダムも男も目を逸らさずに少しの沈黙が流れて、男の眉が困ったように下がった。

「はは、やっぱマダムには隠し事出来ねぇな」

「私に隠し事なんてね50年は早いのよ」

 マダムもまた困ったように笑った。

「口止めされてたんだけどよ、一回だけアイツが居眠りしてるのを見た事があった。その時もさっきの二体の獣が側に居たんだ」

 彼は少し前の記憶を漁るように目を閉じて話を始めた。

 きっとその口止めはもう時効を迎えているだろうから。






 その日は空気が気持ちいい散歩日和とでも言うような日だった。

 いつも行く店の近く、野原の木陰で、デカい獣が二体と、恩人である少年が寝ていた。赤い獣にもたれ掛かり、黒い獣は少年を守る様に囲む形で寝ていた。

 しばらく見ていると、少年の眉間に皺がよって、息も苦しそうに荒くなった。

 異変に気付いた二体はすぐに起きて、少年を起こす様に喋りかけていた。動物が話しているのは変だとか、そんなのはどうでも良かった。ただ、目の前で恩人である少年が苦しそうにしている方が問題だった。


「おい、おいっ、大丈夫かっ!」

 気づけばそう駆け寄っていた。

 しばらく肩を揺らすと、少年は目を見開き、勢いよく俺の胸に顔を埋めて、カタカタと震える手で服を握りしめた。

「お前、人間か」

 黒い獣はそう言うと匂いを嗅いで何かを判断したらしい。俺に攻撃してくる事はなかった。

「ぅっ、ゔぅ、はぁ、はぁっ…」

 苦しそうな声と息遣いと共にまた悪夢の中へ行った少年に、柄にもなく胸が締め付けられた。


「ねぇ、人はこういう時どうしたらいい?」

 赤い獣は縋るように聞いてきた。

 何を言っているんだと思った。だってこの子は人じゃないはずだ。鬼のはずだ。どちらかと言えば、この喋る獣達の方が近い存在だと思っている。だからどうという事はないが、なぜ人としての接し方を聞くのかが、分からなかった。

「は、まさか…」

 男は目を見開いた。


「人間、それ以上は言うな。考えるな。本当にコイツを思い遣るならな」


 男の思い当たった事を察して黒い獣は釘を刺した。それは暗に考えて答えが出ても出なくても意味がないという事を指していた。

 男はその通りだと思った。どうでも良い、どちらでも良い。

 どちらにしても、恩人である事には変わりないのだから。

「おい、起きろ!」

 ぶっきらぼうにもそうやって優しく揺すってやれば少年は目を覚ました。

 その目は困惑していて、目線を彷徨わせている。

「はぁッ、はぁ、ぅ、あ、…ゆ、め……」

 どんな夢を見ていたのか。そんな野暮な事は聞かずに、男は少年の目を少年の手より大きな手のひらで覆った。

「疲れてんだろ。眠いならまだ寝ろ」

 不器用な優しさに少年はどう返したらいいか分からずに黙り込む。

 赤い獣と黒い獣も先程よりも密着して、少年に体温を分けるように囲んだ。


「大丈夫なのか」

 黒い獣が聞けば、少年は口元に僅かに笑みを浮かべた。

「うん、大丈夫。ごめんね、心配しないで」

「それは無理な話だよ!」

 少年の言葉に赤い獣がそう捲し立てた。それは黒い獣も男も同意見だった。

 鬼にしても人にしても鍛えられてはいるが、決して肉付きが良いとは言えない華奢な体。いつも顔色の悪い表情。目の下の不健康そうな隈。全てが少年の悲壮さを物語っていた。

「本当に大丈夫だから」

 そう言って少年は赤い獣と黒い獣を撫でた。

 それに観念したように二体の獣は黙った。

「本当に大丈夫なのか?」

 男はそれでも尚聞いた。


「うん、ごめんなさい、手」

「こういうのはありがとうって言われた方が男は嬉しいもんだ」

 そう言えば少年は笑った。


「あはは、何それ。…ありがとう」


 男の手のひらを少年の長い睫毛がくすぐった。きっと目を閉じたのだろう。そしてしばらくすれば撫でる手もそのままに静かに眠りに落ちた。






「へぇ。そんなことが」

 マダムは珍しいものを見るような目で男の話を聞いていた。

「まぁアイツの弱ってる姿なんて後にも先にもあれっきりだろうけどよ」

 男はグラスを揺らしながら呟いた。

「でもそりゃ、アンタの事を信頼してたのさ。少しでもね。…何故かあの子はいつも気を抜かずにいるところがあったからねぇ」

 マダムはもう居やしない少年を思い浮かべながら言った。そしてここに自ら足を運ぶこともきっとないのだろうと思った。


「でも俺も、“守る対象”だった事には変わんねぇよ」

 誰も少年の隣を歩けやしないのだから。

 目には見えない大きなモノと戦っているような少年の隣を。

「そうね」

「俺もさっきの兄ちゃん達くれぇ強ければな」

「あの強さの裏にはきっと途方もない憎しみやら、葛藤やらがあったのさ」


 マダムは考えた。立場が違えば、さっきの子達とあの子は良き理解者になれたのではないかと。でも今となって考えるのは、どうか理解しないでほしいという気持ちだった。

 立ち場の違う者の似た苦しみなど、理解したとして、待っているのは新たな苦しみだけだと、マダムは思う。きっとその先にあるのは平和なんかじゃなくて、破滅だと、思うから。


「俺の苦しみじゃ、役不足か」

 そう言って笑った男の表情は切なそうで、マダムは顔を顰めた。

「しっかりしな。あの子が帰ってきたら私らがちゃんと迎えてやんのさ」

 帰ってこないだろうと分かっている。それでも言い切るマダムは強い女性だった。まるで家族を思うように強い心があった。

 そんなマダムに男は元気付けられたのかいつもの様に口の端を上げて笑った。


「帰ってこなくても迎えに行く。俺の方が弱くてもいい。無理矢理にでも隣に立ってやんのさ」


 そう言った男———夏灰げかいせんの顔を見てマダムは満足そうに笑った。

 きっとこの店の誰もが鬼の少年を信じている。名も知らない。生まれ育った場所も。環境も、何も知らない。けれど、助けてくれた、救ってくれた。その事実だけで十分だった。その事実だけで十分、彼らは、彼女らは、鬼の少年を一等信じて、家族の様に愛している。


 いつか名を呼べる日を願って。




「そう言えばさっきの子達あの話は聞かなかったね」

 しばらく話して、マダムは考え深そうに呟いた。

「あの話…? あぁ、安楽死の話か」

 合点が言ったように夏灰はグラスを置いてマダムを見た。


 安楽死。安楽と呼ばれる街に相応しい曰くの話。その実態はとある薬によって、自我を失いかけた鬼が望む最後の楽園だった。


 自我を破壊する違法薬である天国ヘブンと呼ばれる薬と、政府非公認の楽園エデンと呼ばれる薬。ヘブンで自我を破壊し、完全に破壊される前にこの街の鬼が望む安楽死がエデンによる救いだった。

 街の人々に危害を加えない為に、何より人を脅かさない様にと自我を破壊された鬼達は死を望む。

 そしてもう一つの薬は鬼化の薬。皮肉にもこれはエデンの失敗作からできた薬だった。

 その薬にまだ名前はない。鬼化の薬だとか、鬼薬と呼ばれている。

 失敗作で片付ければ良かったものを、それを金儲けに利用しようとする者が居た。そんな奴らのせいで世に出てはいけない薬が出回ってしまったのだ。それには勿論実験体にされた者がいる。人にも鬼にも。それをこの街で広めようと考えたのだから、きっとそいつらはこの街の反対派の人間と鬼だろう。鬼と人が共に暮らすのが嫌な者達が一定数居るのは皆が理解している。

 でもだからと言ってこんな悪行が赦されるわけがない。


 だがそんな薬が出回ってもこの街の者達は誰もお互いを迫害などしなかった。打開策としてエデンしか無いのを悔やんでいる。死は救いになるが、全てを無に返してしまうものでもあるから。それをこの街の住人は理解している。


「ヘブンのルートさえ押さえられればいいんだけどねぇ」

 マダムは忌々しげに言った。

「もし見つけたとしてもマダム一人で行くなよ。この店の皆んなも街のみんなもその薬が憎いんだ。叩くならみんなでだ」

 マダムの身を案じるように夏灰が言えば、店の他のお客さんも皆頷いて同意を示した。

「やれやれ、私は良いお客さんを持ったね」

 マダムは微笑んだ。

 やはり強い女性の優しい笑みだった。

「おう。そうだぜ」

 調子良さげに夏灰も笑って酒を煽った。


 この店のマダムも夏灰含むお客さん達は皆、ヘブンの出所を探っている。それは街のみんなの為でもあり、あの子のためでもある。あの子の苦労を少しでも減らせるように。重荷を少しでも軽くさせられるように。

 本当に些細な事だとしても、皆があの子の平穏を願っているから。あの子が陽の下で豊かに生きてくれる事を祈っているから。


「良いわよね。私たちは恵まれているわ。何かをしてあげたいと思える子に出会えて、その子の為に何ができるだろうと考える時間と平穏がある。とても……恵まれているわね…」


 鬼の少年を思いながらマダムは言った。

 そう言う微笑みはやはり寂しそうだった。切なく悲しい。どうしようもないやるせなさ。

 今も十分平和で幸せなのに、もっとと願ってしまう欲なのかもしれない。それでもマダム達はあの少年にも幸せになって欲しいのだ。

「そうだな。俺達はあいつが居たから今があって、この生活もアイツが居たからだ。だからこそアイツには幸せになってもらいたいと願ってしまうのさ」

 それが傲慢で我儘だとしても。烏滸がましいとしても。今更本人に拒絶されようがきっと救い出したい。救い出して見せると、胸を張って言える力が欲しい。

「覚悟も誠意も用意出来てんだ。あとは武器さえあればいい」

 マダムの言葉に皆が決心を固くした。


 やはりあの子は陽の下で生きるべき子。それが赦されていないといけない子。だってそれを望む者が、こんなにも沢山いるじゃないか。街のみんなもそう思っている。街の外の人間と鬼だけがずっとあの子の敵だった。勝手にあの子を敵にしているだけで、きっとあの子はそんな奴らさえも救ってしまおうとするのだろう。そして零れ落ちた命に泣くのだろう。


 涙が出るほどに優しい子だから。

 見ているこっちが泣けてしまうくらいに慈愛に溢れている子だから。

 優しすぎて痛いなんて、あの子を知って初めて味わった感情だった。

 どんなに理不尽に晒されても決して折れない信念を持っている子だから。

 それが例え自分の首を絞めてしまうと分かっていても、救いたい者達の為に平気で地獄を歩いてしまう。


 でもだからこそ、こんなにもあの子を愛してしまっている。家族のように。


「マダム!」

 マダム含めお店の皆が思い思いに耽っていた時、小鳥の扉が勢いよく開かれた。

 慌てて入ってきたのはガタイの良い青年だった。

「なんだい、そんな慌てて」

 マダムは何か合ったのかと心配そうな表情をするも、気丈に振る舞う。

「アイツは!?」

「あぁ、あの子ならいっちまったよ。きっともう自分からは帰ってこないだろうね」

 青年は分かりやすく落胆を見せた。

「そんな…、折角ヘブンの出所の手がかりが掴めたってのに」

 その言葉に夏灰とマダムだけではなく、店の皆が青年を見た。

「それは本当か?」

 誰よりも早く夏灰が聞いた。

「あ、あぁ。本当だよ。っていってもまだ手掛かりの段階なんだ」

 少し狼狽えながら青年は答えた。

 その言葉に店の皆と夏灰とマダムが顔を見合わせる。

「私達もこのままあの子を一人にしようなんて考えちゃいない。みんなで手がかりを追う」

 マダムの強い声が凛と響いた。

 青年と夏灰は思う。マダムは本当に強い女性だと。悲しみに暮れるだけでは終わらない。思いを募らせるだけでは終わらない。マダムはしっかりと言動で示す。そしてマダムの声は時々不思議な力を感じさせる。本当に出来るような気がしてしまう力強さがあった。


「そうだな。そうしよう」

 夏灰が同意を示した。

「当たり前だ」

「皆んなでやろう」

「危ない橋もみんなで渡れば怖くないってな」

「あぁ、そうだ」

 店の皆も笑いながら同意を示してくれる。

 マダムはつくづく良いお客さんに恵まれたなと思いながら微笑んだ。


「ところでお前が掴んだ手がかりってのはなんだ?」

 夏灰が聞けば入り口に立っていた青年はやっとカウンターの夏灰の隣に座った。

「どうやらあの薬、違法ではあるんだが、繋がっているのは政府らしいんだ」

 その言葉に皆が顔色を変える。

「まぁそんな気はしてたよな」

 夏灰はそういって酒を一口飲んだ。

「そうなのかい?」

 マダムが夏灰に尋ねる。


「あぁ。金儲けの為の薬としてはあまりに勝手が悪い。服用した者が望んだならばソイツから金を貰えるが、当の本人達は皆無理矢理飲まされて、終いにはエデンを望む。なら誰かが鬼に飲ませてくれと頼んでいると考えるのが妥当だろう」

 夏灰はそこまで言うとまた酒を一口飲んだ。なくなったグラスにマダムがウイスキーを注ぐ。

「そして俺達が用意してるエデンも政府から買っている。これで政府が永遠に儲かる輪の完成だ」

 夏灰が言い終えてしばしの沈黙が訪れる。皆も馬鹿じゃない。考えた事のある可能性ではあった。でもそうであって欲しくない可能性でもあった。政府がそんな事をするなんて考えたくはなかった。何よりも、政府とは今の国家権力そのもの。そんなものを相手に自分たちは戦えるのか。


「なんだい、そこまで分かっていてネタも上がっている。ならあと少しで乗り込めるじゃないか」

 そう言ったマダムの事を、下を向いていた皆が見上げた。見ればマダムはまるで若い娘が悪戯するように口元に弧を描いていた。

 夏灰もそれに釣られるように笑う。

「そうだ。もうここまで来たんだ。あと少しだ」

「だけどそれを討伐隊は知らないのかい? 政府公認の組織だろう」

「知らないだろうな。じゃないと今日までこんな律儀にこの街の鬼まで狩り続けないだろうさ」

「嫌な話だね」

 マダムは露骨に嫌そうな顔をした。本気で政府を軽蔑している。


 大戦の時でも、あくまで政府は非干渉を貫いた。その中で隠れて干渉はしていたと思うが表向きは関わっていないを貫いたのだ。他国へのメンツもあるのだから。内戦なんて表向きになり政府も関わっていた、なんて話になれば同盟を組んでいる国からのバッシングは避けられないだろう。

 何より、金儲けばかりを考えるのだ。我が身可愛さに保身に走り国民からあの手この手で金を巻き上げる。

 内戦というか鬼と人の種族間の争いがあった今、巻き上げる金にも限度がある。ならば無理矢理にでもまとまった金を作らせれば良いと思ったのだろう。


「政府はこの街の仕組みを知っていたんだね」

 誰か一人の為にみんなで何かをする街。

 楽になりたいと願った者の為に皆でお金を集められる街。そこを利用されたのだ。


 簡単に説明するならば、ヘブンを裏組織の奴らが作り、政府に売る。そして政府は街の人たちに何食わぬ顔でエデンを売る。そうやっとけばとりあえず金は回る。経済を回す為にしてはあまりに悪意のある行為だ。

 そしていざ他国と戦争になった時に使いたい討伐隊の力を落とさないまま存続させる為に使われたのが鬼化の薬なのだろう。ヘブンによって自我を失った鬼が人を襲ったというような話があれば、討伐隊の奴らは憎しみを絶やさない。そこに鬼化の薬で人を鬼にし、鬼を増幅させる。要するに奴らが狩った鬼の中には元人間もいたと言う話になる。

「どうやったらこんな残忍な事ができるのか」

 怒りを抑えられないという風に夏灰はグラスを握りしめる。

「あの戦場を知らないからだろうね」

 マダムは言う。

 戦自体も中々の惨い光景だった。だが戦の後も皆が平和に暮らせたわけじゃない。だからこそ何度もその戦は繰り返されるし、戦がない時だって鬼と人は歪み合い、恨みあっている。

政府アイツらは他国と戦争になったら、鬼すらも兵器として使いそうだな」

 鬼が最も多いとされているこの国。他国にはまた別の種族が住んでいるらしいが、世界でも注目されているのは鬼だった。

 何より肉体が強いのだから、武器を与えなくても戦える。政府や上の人達がそう考えるのは当然だった。

 どうしてこうも、生きる者とは愚かなのか。


 まるであの子が守ろうとしているものは全て敵で、無意味だと言われている気分だった。

「あの子は知ってるのかね」

 マダムが呟いた。

「知っていても後から知ったとしても、それでもアイツは守ると言うんだろうさ」

 夏灰のその言葉にマダムは目を閉じる。そうでもしないと涙が溢れそうだった。

「…そうだね。あの子はそういう子だ」


 どうしてあの子ばかりが不幸なのかと、どうしてあの子ばかりに背負わせるのかと、どうしてあの子ばかり傷つくのかと、そうやって嘆くだけはもう止めだ。ならば救い出せば良い。

 あの子が思っていないとしても、マダム達にとってあの子は家族なのだから。

 何も話してくれないから、何も知らないけれど、あの子は自分達を救ってくれた。それだけを知っていれば十分だとマダム達は思った。


「政府と戦争でも始めようか」


 マダムの一声で皆が立ち上がった。

 ある者は雄叫びを上げ、ある者は活気づけにと酒を煽る。各々の目には決心が宿っている。マダムはそれが何よりも心強いと思った。











一方その頃。


「シロ、大丈夫?」

 アカは心配そうに尋ねる。

 〈小鳥〉から離れて辿り着いたのは、誰も居ない、山の奥。綺麗に見える月と、長閑な風と、心地のいい森の音があるはずなのに、今日はそれがどうしようもなく、一人の鬼の不安を掻き立てた。

「大丈夫だよ」

 阿弥陀如来の鬼の少年はそう答えた。でもそれにクロとアカは更に顔を顰めた。

「嘘を吐くな。待っておれ」

 クロはそう言うと、不思議な力で己の形を人に変えた。少年が小さかった頃によくこの姿で遊んでいたのだ。それからもよくクロとアカは人の形に変身してはシロに人や鬼の愛情に似た様なものを与えようとした。

 クロは黙って抱きしめる。人の形をしたクロは少年よりもうんと大きくて、体格もいい大人の男性だった。まるで父親や兄みたいな存在のように。


「……クロ、ごめん…。アカも…」

 シロは長く生きているからか、背負うものが多いからか、時々こうやって無性に不安になっては無理をする。ずっと隣で見て来ているアカとクロの2人はいつもそれが心配でたまらない。

「ねぇシロ、無理しないで」

 アカの懇願に似た声が響いた。


 自分たちと違い、鬼も人もいつかは死んでゆく。そしてそれはあまりに呆気なく唐突に訪れるのだと、長い歴史の中で知ったから。

 シロは普通の鬼や人とは違うし、実際にも長く生きてはいるが、だからこそその命は諸刃の剣の様に思えて、2人はいつも不安なのだ。


「アカの言う通りだ。不安ならやめてしまってもいい。お前がやらなければならないと言う義務はない」

 人の形をしたクロが抱きしめて、獣のままのアカがそれを包み込む。

 少年が本当に子供だった頃から、そうしてやれば安心して眠りについていた。


 いつからだろうか。それでも安心出来なくなったのは。いつからだろうか、少年があまり笑顔を見せなくなったのは。いつからだろうか、いつも何かに押しつぶされそうになっていたのは。


 アカとクロは少年の語る理想の話を聞いていた。それは理想主義の絵空事のようにも聞こえたが、この子なら成し遂げられるのだろうと、2人とも思っていた。

 この子にはそれだけの信念と覚悟があった。

「本当にできると思うのか」

 クロは今一度、少年と己に聞きたかった。そんな世界を創り上げることが本当に可能なのかと。

「やるんだよ。僕なら出来るよ」

 それは傲慢でもなんでもない事実だった。もう既に世は廻り始めている。少年の思う方向に。


 間違いなく、少年の破滅へ。


「その先にシロが居ないなら、ボクは嫌だ」

アカは子供がぐずるように言った。


「きっとね、これが僕の力に課せられた義務なんだよ」


 自分の鬼とも人とも付かない力。不思議な力。不気味な力。それはシロ———白杭しろくいの味方にもなって、苦しめる一番の要因にもなった。

 きっとこの力がなきゃ、アカとクロに出会うことも出来ずに孤独に死んでいた。

 きっとこの力がなきゃ、沢山のものを託されても背負うこともなかった。


「長い長い時を生きて、見すぎてしまった僕に与えられた義務なんだよ」


 あまりにも悲しく、壮絶で、夢物語のような白杭の歩む先は、きっと地獄だろう。白杭にとっての救いはどこにもないのだと、2人は思う。

 クロもアカもそれを分かっていた。

 ならば、主と共に地獄を歩こうと決めた。決めたはずだった。

 でも情が移ってしまった。だからどうか不幸にならないでくれと願ってしまう。


「ごめんね。……ありがとう、こんな僕についてきてくれて」


 2人はつくづく白杭はずるい奴だと思った。

 ごめんねとありがとうを同時に言われたら、もう言い返せる言葉が見つからなかった。






同時刻。神道薫一派。


「どう思ってる? さっきの話」

 帰りの道中、話を切り出したのはやはりというか、疑問を疑問のままにしておけない、篠芽だった。

「そうだな、うーん。強いて言うなら宗教みたいだよね」

 顎に手を添えながら態とらしく考えるような素振りをして答えたのは薫だ。

 そしてこの4人は皆知っている。そういった素振りをする時ほど、薫は特に何も考えてなどいないことを。

「真剣に聞いてるんだけど」

 篠芽は抗議の目を向けながら言い、同調するように一条も同じ目を向けた。

「俺も真剣に答えてるよ」

 深くは考えてはいないが、薫は至って真剣に答えていた。

「宗教? どこが?」

 次に聞いたのは一条だった。


 意見が悉く合わないが、腐っても自分たちのボスである事に意義はなかった。よく言えば冷静で、悪く言えば冷血。そんなボスである薫の意見が大きく間違っていたことは今までに一度もないと、皆が知っていた。

「だって『助けてもらった』とか『救われた』だとか、抽象的で、まるで宗教だ」

 薫は言いながら思い返していた。店の中の雰囲気。皆が自分達に向ける敵意。庇護する様に守ろうとするお客とマダム達。マダムの語った話。

「へぇ。珍しいね。思い返してんだ?」

 そう聞いたのは篠芽だった。

 薫はその場で即決な判断を下す男だ。後から思い返したりする事なんて滅多にない。

「うーん。普段はこんなに考えないんだけどな…。なんか引っかかる感じがして」

 こう言った抽象的な表現もあまりしない。


 その場で即決するのには意味がある。それは薫が冷血と言われるのに繋がるが、早い話、情が湧く前にと言う事だ。物事、特に人間関係などは考えれば考える程、ドツボに嵌る。そうすればそのうち情が湧いて判断が鈍る。

 それを避けるためでもあった。

「引っかかるって?」

「うん。なんて言うか宗教と言うよりは、本当に……本物の家族みたいだった」

「そりゃアイツらが家族と言ったからな」

 一条は軽蔑を滲ませながら言った。

「お前はそれがあり得ないと思ってるんじゃないの」

 薫が一条に返した言葉は疑問ではなく確信。

「当たり前だ。鬼のせいでどれだけの人が死んだと思っている」

「でも人が人を殺すのも事実だ」

 当たり前だが、人を殺すのは鬼だけではない。鬼が居なくなった世界だろうと、人は人を殺すだろう。人間という生き物から感情が消えない限りは。


 薫の言葉に一条はわかりやすく顔を顰めた。

「お前、嵌ってないか?」

 大嫌いなドツボに。


「…いいや? 俺はちゃんとあの鬼を狩れるよ」

 冷ややかで感情の籠っていない声だった。

 だから一条と篠芽は安心した。

 薫はボスだ。ちゃんと自分達のボスのまま。組織の中で圧倒的な討伐数を誇る遊撃隊の隊長だと。冷静で冷血な男だと。

 そうでなくては困るのだ。

 ボスが揺らげば自分達も揺らぐことは目に見えている。それは簡単に組織すらも崩壊に導くだろう。そうすれば簡単に人間の時代が終わる。

 薫もまた大きなモノを背負っている。

 人々の思う平和は組織に託され、組織の思う理想は遊撃隊に託される。そして遊撃隊の信念は薫に在る。間接的だが確実に、薫は人々の希望・・を託されている。

 それを理解していながら、薫は飄々と、それでもしっかりと立っている人なのだ。


 皆んなの希望の礎として。

 支える杭のように。

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