4-2

 目の前に星が散り、ぐらりと脳が揺れる。

 

「痛、って……優しくしてよ。ひでぇなあ」

「口の利き方をわきまえろ。汚らしい平民風情が」

 

 どうやら額が割れたらしい。ヘッドバンドでは止めきれなかった血が、眉間を伝い、アシエルの鼻と唇を汚していく。額の傷は出血が多いから嫌なんだよなあ、とアシエルは場違いな思考を巡らせた。

 

「悔しいかね? けれど、頼みの魔術は使えないよ。魔封じの枷をつけてあるからね」

 

 乱暴にアシエルの髪を掴んだ男は、人形のようにアシエルの首をがくりと上向けた。

 

「ご令嬢を招待したはずが、君が出てきたときは驚いたよ、勇者殿」

「俺のこと、知ってんの? 有名になったもんだ」

 

 言葉だけは軽く返してみたけれど、状況は極めて悪かった。世辞にも自分に好意的とは言えなさそうな相手を前に、手も足も出せない状態とくれば、絶望しか感じない。口まで流れ落ちてきた血の鉄臭さに、アシエルが顔を顰めると、男はさも嬉しくてたまらないとばかりに嗜虐的な笑みを浮かべた。

 次の瞬間、ゆらりと立ち上がった男は、ためらいなくアシエルの腹を蹴りつけてきた。

 息が詰まり、喉元に熱いものが迫り上がってくる。

 

「……っ! ぐっ、ごほっ!」

「まさかとは思うが、僕のことを覚えていないのかね? ……痩せっぽちの平民め! こんなもので隠そうが、醜い傷跡は消えないよ」

 

 髪が抜けるのも構わず、アシエルの頭を鷲掴みにした男は、血に濡れたヘッドバンドを抜き取ると、見もせずに後ろへと投げ捨ててしまった。母の形見のペンダントを取り上げるだけでは飽き足らず、ユリア王女に賜ったヘッドバンドまで捨てるとは、一体いくつ人の私物を奪えば気が済むのかと嘆きたい。

 

「何度見ても汚らしい傷跡だ。額を割っても隠せないほど、醜い古傷」


 露わになったアシエルの額を見て、男は蔑みも露わに眉を顰めた。

 アシエルの額の中央には、額の半分を占めるほど大きな古傷が残っている。物に強く叩きつけられてできる傷特有の、ひび割れて引きつった傷跡だ。


「何だったっけ? 幼いころに、村の顔役に殴られたと言っていたか? 口減らしに消されそうになったところを逃げ出して、卑しくも生き残った畜生の証だろう?」

 

 いつの話だよ、とアシエルは眉根を寄せた。わざわざ好んで他人に語った覚えはないが、傷跡を隠すための物すら満足に買えなかった訓練兵時代には、聞かれれば事情を話す程度はしたかもしれない。

 

「慈悲深い第一王女の憐れみを賜るには、その醜い傷跡がさぞかし役に立ったのだろうねえ」

 

 深い憎しみを向けられていることは嫌でも分かるが、この男の素性には、さっぱり心当たりがなかった。口内にたまった血淡を吐き捨てながら、アシエルは男に冷めた視線を向ける。

 

「どこかで会ったか?」

「おやおや。そこらの魔獣より記憶力がないようだ」

「生憎、嫌味な野郎は周りに十分足りてるから、覚えてねえんだわ。いちいち」

「生意気な平民だ」

 

 今度は顔を殴り飛ばされた。鼻から滴る血は、額から流れたものか、それとも鼻血か。どちらにしても不愉快なことには変わりない。

 職業軍人として一通りの対拷問訓練は受けているが、現状において役立つ気はしなかった。相手が自身をいたぶることを目的としている場合の対処法など、死を覚悟するか、隙を付いて先に相手の命を奪うかの二択だろう。


「……それで? 魔術に引っかかった間抜けな護衛ひとり、わざわざ捕まえて何がしたいんだ」

 

 アシエルの問いへの返事は、頬への拳で返された。視界が揺れて、口内が切れる。

 

「君のせいで、僕は昇進の機会を奪われたんだ」

「っは……、それはそれは、お気の毒に。あんたもイーリス軍にいたのか? 昇進の機会どうこうってことは、俺と同期だったとか?」

「そうだよ。かかしのような薄汚い子どもだったくせして、よくも化けたものだ。その顔で王女をたらし込んだのかい? ……君のことを忘れた時はないよ、アシエル。少しばかり剣の腕が立つからと調子に乗っていた平民。魔力があることを隠して、周囲を馬鹿にしていた嫌味な男め。偶然とはいえ、こうしてまた会えた幸運を、神に感謝したいくらいだ」

「ぐ……っ!」


 掴まれていた髪を唐突に放され、アシエルは受け身らしい受け身も取れないまま地面に落ちた。

 

「そうして這いつくばっているのがお似合いだ、勇者殿。ああ……勇者。勇者。本来ならそう呼ばれていたのは僕のはずだったのに。あの時、本当は僕が竜殺しの栄誉を受け取るはずだったんだ。君がいたせいで、すべてうまくいかなかった。君さえいなければ、今ごろ僕は、誰からも賞賛されて、女は腐るほど寄ってきて、地位も金も思うがまま手に入れられていただろうにねえ」

 

 アシエルの背をぐりぐりと片足で踏みつけにしながら、男は空想を語り、悦に入る。その現実と妄想の区別が付いているかも疑わしい言い様には、奇妙な既視感があった。切れた口内の痛みに顔をしかめながら、アシエルは「思い出した」と声を上げる。

 

「上官が身体張って逃がしてくれたってのに、命令違反で竜に突っ込んでいった挙句、大勢を巻き込んで殺しやがった大馬鹿貴族がいたなあ」

 

 アシエルが勇者という呼び名を得るきっかけとなった、竜殺し。下町に迷い込んだ竜に、偶然とどめを刺したのはアシエルだったけれど、あの時、本来ならば竜は下町に来るはずではなかった。警備兵たちの必死の努力によって、門の外へと誘導されていたはずだった。戦功に目が眩んだ愚かな貴族が、竜を刺激しさえしなければ、それで終わっていたはずの話だったのに。

 アシエルが命の危機に追い込まれたのも、竜に下町を壊されかけたのも、命令違反の独断専行を行った同期の訓練兵の行動が原因だ。顔は覚えていないが、自分のことしか考えない傲慢な態度が鼻についたことだけは記憶に残っている。

 ちょうど、目の前の男のように。

 

「モラー? それともモーリーだったか」

「モーガンだ」

 

 不確かな記憶を上書きするように、鋭い訂正が入った。にこりと笑みを作ったアシエルは、わざとらしいほど朗らかに、「ああ、ごめん」と謝罪する。

 

「いや間違えた、本当にごめん。家名だもんな、それ。あんたの名前じゃなかった。追放されたやつに姓があるはずねえもんな。平民、平民ってさっきから偉そうにしてるけど、あんたも俺と同じじゃねえか、名無し野郎」

「……この野郎!」

 

 モーガンの顔が、瞬時に真っ赤に染まる。開いた瞳孔を見上げながら、なおもアシエルは挑発を重ねた。

 

「考えなしに竜に向かっていった挙句、両腕喰われて大泣きしてたのはよく覚えてるぜ。その腕、どこから拾ってきたんだ? 元モーガン」

「黙れ!」

「……ぐっ!」

 

 激昂したモーガンは、アシエルをひたすらにいたぶった。肩を踏みつけ、腹を蹴り上げては、アシエルの耳元で罵声を浴びせる。

 アシエルは目をきつく閉じ、ひたすらに波が過ぎ去るのを待った。幸いにして、相手は喋りたがりの殴りたがりだ。うまく口車に乗せて、手枷か足枷か、どちらかだけでも外させることができれば、勝機はある。

 拳に血がにじむほど暴力の限りを尽くしてようやく気が済んだのか、ぜえぜえと荒い息をついたモーガンは、よれた白衣をわざとらしく直し始めた。

 

「僕の腕が気になると言ったね。研究の成果だよ。くく、ふふ……。君のような低能には理解できないだろうがね、魔術だけが世界に奇跡を体現する手段ではないのだよ」

「研究、ね。追放されたお貴族様に、よくもそんなことをする余裕があったもんだ」

「僕の才能を見抜いて声を掛けてくれた方がいたんだよ。見る目のないイーリスとは違う」

「へえ。テンペスタに拾ってもらったのか」

 

 モーガンは黙って微笑んだ。沈黙は即ち肯定だ。

 仮想敵国に寝返るなど、仮にも軍人であり、貴族でもあった者のやることかとは思ったけれど、口には出さない。どうせ語ってくれるのならば、モーガンの来歴よりも、被害者たちの行方の方が気になった。

 

「公爵令嬢を狙ったな。貴族の子どもたちを攫ったのも、あんたか?」

「ああ、そうだよ。魔力の高い素体を調達する必要があったんだ。誰も彼も慌てふためいて、愉快でならなかったよ。人を見下して、追い出した報いだ」

「子どもたちはどこにいる」

「子ども? ああ……」

 

 モーガンは恍惚と自らの唇を舐め、何かを思い出すように顔を歪める。

 

「どうせいたぶるなら、君のような丈夫な人間の方がいいね。同じ魔力持ちでも、子どもは脆い。心も体もすぐ壊れる。服の切れ端くらいなら、どこかには残っているかもしれないよ」

「……下衆野郎が」

 

 聞くに堪えない言葉の羅列に、耐えきれずアシエルは本気の殺気を込めてモーガンを睨みつける。びくりと体を揺らした男は、思わずといった様子で一歩アシエルから距離を取った。しかし、直後にそんな反応を見せた自分を恥じるかのように、アシエルの頭の頂点から足先までを、余裕ぶってじろじろと眺めまわす。

 至るところに打撲の跡を残し、血を流しているアシエルを見て、モーガンは溜飲を下げたらしい。ろくでもない何かを思いついたのか、品のない笑みを浮かべている。

 

「君は、たしかガイドだったな。汚らしい平民の上に、センチネルに尽くすことしか存在意義のないガイドだというのだから、気の毒なことだ」

 

 言い返す気にもならなかった。平民を見下し、ガイドを見下す者は、世に溢れている。センチネルでもガイドでもないモーガンが、何を以ってガイドを見下すのかは分からないが、目の前の男が他人を支配したがる貧しい精神の持ち主であることは、これ以上言葉にされずとも十分に理解した。


「ガイドはセンチネルに従うものだ。そうだろう?」

「俺の知ってるガイドとセンチネルとは違うみたいだな。あんたの頭がちゃんと動いているのかどうか心配だ。頭かち割って確かめてやろうか?」

「……その生意気な口、いつまできけるかな」

 

 ポケットからアンプルと注射器を取り出したモーガンは、慣れた手つきでアシエルの腕に薬を打ちこんだ。品なく悪態をついたアシエルは、強くモーガンを睨みつける。暴力は耐えられても、毒物は別だ。物によっては致命的になる。

 

「何を打った」

「君の頭では理解できまいよ」

 

 嗜虐的な興奮に息を弾ませた男が、アシエルの首を掴む。ぞわりと一瞬で全身の毛が逆立った。

 

「さあ、調律してくれたまえ。ガイドくん」

 

 モーガンの言葉に眉をひそめた直後、アシエルは目を見開いて硬直した。握られた首を通じて、他人の力が無理やり流れ込んでくる。アシエルの中に入り込もうとするそれは、センチネルの力とは似て非なる、おぞましい気配がした。

 

「な、に……しやがる!」

 

 吐き気を催す理解不能な感覚に、アシエルは全力で自身の精神に意識を集中した。

 心の中に、自分と他者を隔てる膜を張る。シールドとも呼ばれるそれは、ガイドやセンチネルの能力を持つ者であれば本能的に使い方を知っている、自分自身の精神を守るための心の壁だ。

 普段であれば、センチネルの精神に触れる際、乱れに引きずられないようにと無意識に使う程度のものだ。けれどもそのシールドを、アシエルはあえて意識的に張った。合意なく体内に入り込もうとする力を、全力で拒絶する。

 センチネルの力の方が強ければ、無理やりにそれを砕くこともできただろう。しかしアシエルにとっては幸いなことに、モーガンの力は、アシエルに調律を強要できるほど強くはなかった。

 くぐもった悲鳴を上げたモーガンは、飛び退くようにアシエルから手を離す。

 

「逆らうのか! ガイドのくせに!」

「そりゃあな。あんたの精神なんて触った日には、こっちの気が狂っちまうよ。気色悪い」

「うるさい! 君はただ受け入れていればいいんだよ。こうやってねえ……!」

 

 モーガンの手が再度アシエルの首元に伸ばされる。かたく閉じた軍服の襟を割り開かれて、アシエルは盛大に顔を顰めた。先ほどまでの力任せの暴力とは違う、肌を撫で上げるような仕草が気色悪くて、吐きそうになる。

 しかし、アシエルの心とは裏腹に、体はなぜかびくりと揺れた。己の反応が信じられず、アシエルは頬を引きつらせる。その反応を見て取ったモーガンは、愉悦で引きつった笑いを零し始めた。

 

「ひ、ひひ……そうだ。それでいい」

「俺、に……何をした」

「いいよなあ、勇者は。何もしてないのに尊敬されて、感謝されて。澄ました顔で剣を振っていようが、中身はただの薄汚い平民だというのにねえ。それを、証明してやろう」

 

 太い指をこれ見よがしにアシエルの肌に這わせながら、モーガンは嘲るように続けた。

 

「知っているかい。頑丈で生意気な男ほど、暴力には耐えられても、体の奥まで暴かれて、尊厳を踏み躙られることには耐えられない。想像したこともないからだろうねえ。体と心の反応が食い違えばなおさらだ。ちょっと嬲ってやるだけで、善がりながら鼻水垂らして懇願するんだよ。やめてくれ、助けてくれってねえ」

 

 その言い様に、ぴんときた。鋭敏になった肌の感覚と、酩酊するような感覚。先ほど打たれた薬は、催淫剤の類なのだろう。思い至ると同時に、怒りと呆れが湧き上がってくる。


「くだらねえ」


 腫れた瞼を無理やり開きながら、アシエルはうんざりとモーガンを睨み上げた。

 

「下種もここまで来るといっそ清々しいな」

「便器代わりにくらいはなるだろう? 君のその生意気な態度が崩れる瞬間を想像するだけで興奮するよ」

「変態野郎」

「その生意気な口がどこまで持つかなあ。さあ、試してみようか、勇者殿」

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